王都リュミエールの中心部、グラン=サロン地区に佇むロシュフォール公邸。イリスとセドリックの正式な婚約発表の三日前、秋の夕暮れが豪華な建物を黄金色に染め上げていた。開放的な設計の館内には光が溢れ、大理石の階段と透明感のある調度品が優雅に配置されている。
その応接室、仮面舞踏会用のホールに隣接した一室で、セドリック=ロシュフォールは一人、窓際に立っていた。金色の巻き毛を持ち、整った顔立ちの彼は、普段の爽やかな笑顔を影に隠し、物思いに沈んでいる。淡いグリーンの瞳は遠くを見つめ、普段の軽妙な表情からは想像できないほど暗い影を宿していた。
彼は明るい青のカジュアルな貴族服を身に纏い、手には仮面舞踏会用の銀の仮面を持っていた。その仮面は彼の掌の中で、夕陽を受けて冷たく輝いている。
「結局、僕は仮面を脱げないのかな」
セドリックは誰もいない部屋で、自嘲気味に呟いた。
二十四歳の彼は、表向きは完璧な貴公子として知られていた。しかし、その笑顔の下には、誰も知らない深い孤独と諦めが隠されていたのだ。
◆◆◆
「セドリック様、お客様がお見えになりました」
執事の声に、セドリックは素早く表情を切り替え、いつもの華やかな笑顔を取り戻した。手の仮面をそっとテーブルに置き、彼は背筋を伸ばして返答する。
「ありがとう。誰かな?」
「シルヴィア・マーナ様です。ノクターン家の女官長です」
セドリックの瞳に、一瞬驚きが浮かんだ。「ノクターン家から?随分と意外な…案内してくれたまえ」
仮面はテーブルに残し、彼は応接間の中央へと歩みを進めた。扉が開き、亜麻色の髪を厳格に結い上げた女性が入ってきた。黒のメイド長服に身を包み、端整な姿勢で立つシルヴィアは、ブルーグレーの瞳でセドリックを静かに見つめている。
「ようこそ、シルヴィア様」セドリックは軽やかな口調で迎えた。「何やら風変わりな訪問で驚いていますよ。ノクターン家からの使者とは」
「お時間を頂戴して恐縮です、ロシュフォール様」シルヴィアは丁寧に一礼した。「私的な用件でお伺いしました」
「私的?」セドリックは眉を上げた。「ますます興味深い。どうぞお座りください」
彼は優雅な仕草でソファを示し、自身も対面に座った。執事がお茶を運んでくると、二人の間に一瞬の静寂が流れた。
「では、何のご用件でしょう?」
シルヴィアはお茶に手をつけずに、真っ直ぐな目でセドリックを見据えた。「率直に申し上げます。お嬢様……イリス様との婚約について、あなた様のお気持ちを確かめに参りました」
セドリックは一瞬だけ硬直したが、すぐに微笑みを取り戻した。「それは侯爵様の知るところでは?」
「いいえ。これは完全に私の独断です」彼女は静かに言った。「お嬢様のことを本当に心配しているのです」
セドリックは茶杯を置き、初めて真剣な表情を見せた。「なぜ私に?」
「あなた様がノクターン侯と会見された時、『イリス嬢は道具ですか、それとも娘ですか』と問われたそうですね」
「なるほど…」セドリックは椅子に深く身を沈めた。「噂は早いものですな」
「執事たちの耳は鋭いものです」シルヴィアの口元に、かすかな微笑みが浮かんだ。「その質問が、あなた様の本心から出たものなのか知りたいのです」
窓の外では、夕陽がさらに傾き、部屋に長い影を落とし始めていた。セドリックは立ち上がり、窓際に歩み寄った。
「シルヴィア様、あなたはイリス嬢をどれくらいの期間、世話されているのですか?」
「彼女が生まれた時から」シルヴィアの声には、珍しく感情が滲んでいた。「母君が亡くなられた後は、私が…」
「母親代わりだったのですね」セドリックが振り返ると、その顔には普段の軽薄さは微塵も見られなかった。「では聞きましょう。彼女は本当に感情がないのですか?」
シルヴィアの目が微かに揺れた。「お嬢様は…感情を持っています。ただ、閉じ込められているだけです」
「やはり」セドリックは小さく頷いた。「僕にはそれが見えたんです。彼女の瞳の奥に、凍りついた何かが」
彼は再びテーブルに戻り、さっきまで持っていた銀の仮面を手に取った。
「シルヴィア様、あなたは僕のことを何もご存じない」彼は静かに言った。「表の顔しか」
「ですから、今日参ったのです」
セドリックは仮面を光に透かし、苦笑した。「僕は兄の死で急遽、家の跡継ぎになりました。『自分は演じる役に徹しろ』と言われ続けて…」
「役、ですか?」
「そう。『完璧な貴公子』という役です」彼は自嘲気味に笑った。「明るく軽薄で、でも頼りになる。社交界の華として振る舞い、内心はどうであれ、その役を演じ続ける」
シルヴィアは黙って聞いていた。
「十六の時、舞踏会で出会った娘に恋をしました」セドリックは遠い目をして続けた。「でも、彼女が僕の本当の姿を知った時、彼女は失望した。『あなたの明るさが好きだったのに、こんなに暗い人だったなんて』と」
「それで…」
「それからは完璧に仮面を被り続けることにしたんです」彼は仮面をテーブルに戻した。「結局、人は仮面を求めているのですから」
シルヴィアは静かに立ち上がり、セドリックの前に立った。
「その仮面の下で、あなた様は何を望んでいるのですか?」
セドリックは長い間黙っていた。やがて、彼は静かに答えた。
「本当の絆です。仮面と仮面の関係ではなく」
「それなら、お嬢様と…」
「はい、だから彼女に興味を持ったのです」セドリックの顔に真摯な表情が浮かんだ。「彼女の仮面の下にあるものに触れたい。そして、自分の仮面も脱ぎたいと思った」
シルヴィアの顔に、安堵の色が広がった。
「しかし、一つ問題があります」セドリックは再び真面目な表情になった。「彼女の心を既に動かしている人がいる」
「…執事のヴァルト殿ですね」
「ええ」セドリックは頷いた。「僕は彼らの視線を見ました。言葉ではなく、目が語る本当の気持ちを」
「それでも婚約を?」
「家の都合もありますからね」彼は肩をすくめた。「しかし、僕は彼女を縛るつもりはありません。むしろ…」
夕暮れが深まり、部屋に影が増していた。執事が入ってきて、灯りをつけようとしたが、セドリックは手で制した。
「このままで」
執事が下がった後、セドリックはシルヴィアに向き直った。
「実は、ある計画があるんです」彼の声は突然、活力を帯びた。「イリス嬢を、あの檻から解放する計画を」
「どういうことですか?」シルヴィアは息を呑んだ。
「僕たちは同じ檻の中で息をしている」セドリックの瞳が決意に満ちて輝いた。「彼女は感情を、僕は本心を。でも、お互いが助け合えば、二人とも自由になれるかもしれない」
「つまり…」
「政略結婚という形を利用して、彼女をノクターン侯の支配から解放するのです」セドリックはテーブルに近づき、一枚の地図を広げた。「ここに、僕の家が所有する辺境の別荘があります。王都から遠く離れた場所です」
「まさか、駆け落ちを?」
「いいえ、もっと巧妙に」セドリックは微笑んだ。「表向きは婚約し、侯爵の警戒を解きます。そして、彼女が望むなら…彼女と執事の逃亡を手助けするのです」
「なぜそこまで?」シルヴィアは困惑したように尋ねた。「あなた様自身の幸せは?」
セドリックは窓の外を見つめ、静かに答えた。
「幼い頃、僕も檻の中にいました。そして、誰も助けてくれなかった」彼の声は静かだが、強い決意に満ちていた。「同じ思いをする人を見過ごせないのです。特に、彼女のような人を」
「セドリック様…」シルヴィアの目に、涙が浮かんだ。
「もちろん、すべては彼女次第です」セドリックは再び軽やかな笑顔を取り戻した。「僕の役目は、選択肢を提供することだけ。もし彼女が本当に僕を選ぶなら、心から喜びます。でも、彼女の心が他にあるなら…」
「本当の騎士道精神ですね」シルヴィアは心からの敬意を込めて言った。
「いいえ、ただの身勝手さです」セドリックは照れたように笑った。「誰かを自由にすることで、自分も少し自由になれるかもしれないという」
部屋は完全に暗くなり、二人の姿は月明かりにシルエットとして浮かび上がっていた。
「シルヴィア様、この会話は」
「秘密にします」彼女は頷いた。「ただ、お嬢様の幸せを願う者同士として」
「ありがとう」セドリックは久しぶりに、仮面のない笑顔を見せた。「婚約発表の舞踏会で、僕は最後の仮面舞踏を演じるつもりです。そして、その後は…」
「彼女の選択を尊重なさる?」
「ええ。それが僕の選んだ騎士道です」
シルヴィアが帰った後、セドリックは再び銀の仮面を手に取った。かつては重荷だったそれが、今は彼の決意の象徴に思えた。
「最後の舞踏会…」彼は呟いた。「さあ、完璧な貴公子セドリックとして、最高の演技をしようじゃないか」
月明かりが彼の金色の髪を銀色に染め、その顔に浮かぶ微笑みは、もはや苦いものではなかった。仮面の下の孤独な男は、誰かのために行動することで、自らの檻からも少しずつ解放されようとしていた。