王都リュミエールの夜。舞踏会から一週間後、ノクターン侯爵邸の屋根裏部屋に灯る一筋の灯りが、闇に浮かび上がっていた。執事控室から遠く離れたこの場所は、ヴァルト=グレイハウンドが一人の時間を過ごす唯一の場所だった。黒に近い灰色の髪を解き、執事の制服を脱ぎ捨てた彼は、窓際で月を見つめていた。琥珀のような金色の瞳が月光を受けて鋭く光り、筋肉質の上半身には無数の
床には古びた箱があり、そこから取り出した一本の鎖を、彼は静かに手に握りしめていた。奴隷だった日々の名残り——そして、決して忘れまいとする記憶の
「フレイ…」彼は低い声でつぶやいた。亡き親友の名を呼ぶその声には、痛みと後悔が滲んでいた。
「何をしているの?」
突然の声に、ヴァルトは素早く振り向いた。開いたドアの前に、イリス=ノクターンが立っていた。白銀の髪を一つに編み、薄紫のシンプルなナイトドレスを纏ったイリスは、人形のように美しく、そして儚げだった。
「お嬢様…」ヴァルトは驚きに目を見開いた。「どうしてこんな場所に?」
「あなたを探していたの」イリスは静かに部屋に足を踏み入れた。「執事控室にいなかったから」
彼女の淡いラベンダー色の瞳が、ヴァルトの傷痕のある上半身に留まった。普段の無表情な顔に、かすかな驚きの色が浮かんだ。
「失礼しました」ヴァルトは慌てて近くにあったシャツを手に取った。「すぐに着替えます」
「待って」イリスは手を上げた。「その傷…奴隷だった頃のもの?」
部屋に流れる静寂が、二人の間に広がった。
「…はい」彼は最終的に答えた。「辛い記憶です。お嬢様の目に触れさせるべきではありませんでした」
イリスはゆっくりと近づき、窓際の古い椅子に腰掛けた。「教えて。あなたの過去のこと」
「それは…」
「命令よ」イリスの声は柔らかいながらも、芯の強さを感じさせた。
ヴァルトは深い溜息をつき、シャツを羽織った。そして彼女の向かいに座り、握りしめていた鎖を静かに床に置いた。
「私は生まれながらの獣人です」彼は低い声で語り始めた。「この目と、獣に変化する異能が、私の罪でした」
「生まれながらの罪なんて…」
「王国では、そういうものです」彼は淡々と続けた。「幼い頃、唯一優しかったのは神父でした。しかし、私が初めて獣の姿になった日…」
ヴァルトの瞳が遠くを見つめる。
「彼は私を見て、『お前は神の敵だ』と言いました。そして追い出されたのです」
イリスは黙って聞いていた。彼女の無表情の向こうで、何かが静かに揺れ動いているようだった。
「その後、奴隷商人に捕まり、闘技場に売られました」ヴァルトは続けた。「そこで出会ったのが、フレイ=バルテリオ。彼は私のような獣人でした」
「フレイ…さっき呼んでいた名前」
「ええ。彼は私よりも年上で…私たちのリーダーでした」ヴァルトの声に温かみが混じる。「彼は言ったんです。『お前は獣じゃねぇ、炎だ。誰かを温める炎になれ』と」
イリスの瞳が微かに広がった。
「彼は私に、力は守るために使うべきだと教えてくれました」ヴァルトは鎖を見つめた。「でも、ある日、私たちが囚われていた貴族の屋敷で…」
彼の声が震えた。
「フレイは使用人の少女を守ろうとして、貴族に『獣の分際で』と言われ…」
「殺されたの?」イリスの声は、珍しく感情を帯びていた。
「目の前で」ヴァルトは頷いた。「私は何もできなかった。力があったのに、使えなかった」
「それで…その鎖は?」
「彼が最後に握っていたものです」ヴァルトは静かに答えた。「私の決意の象徴でもあります。二度と、守るべき者を失わないという」
窓から差し込む月の光が、二人の間に落ちていた。
「それから様々な屋敷を転々とし、最終的にノクターン家の奴隷名簿に載ったのですね」イリスは静かに言った。
「はい。そして、お嬢様が私を選んでくださった」
「なぜ私が選んだと思う?」イリスは突然尋ねた。「父上は、あなたを『使い物にならない』と言っていたのに」
ヴァルトは黙って彼女を見つめた。琥珀色の瞳に、困惑の色が浮かぶ。
「私にもわからないわ」イリスは窓の外を見た。「奴隷名簿であなたの目を見た瞬間、何か引き寄せられるものを感じたの。初めての感情だったかもしれない」
「お嬢様…」
「獣人である君が、人形のような私を守る」イリスは静かに微笑んだ。それは彼女が見せる初めての自然な表情だった。「皮肉な縁ね」
ヴァルトは深々と頭を下げた。「私はお嬢様のために、この命を捧げます。それが、フレイへの償いでもあります」
「償いではなく」イリスは静かに言った。「あなた自身の意志で生きてほしいわ」
彼は驚いて顔を上げた。そこには、主従の関係を超えた何かが生まれていた。
「あなたは、私に選ばれた執事」イリスはヴァルトの傷痕に目を向けた。「でも同時に、私を選んでくれている…守護者」
「お嬢様が私に自由を?」
「私自身が自由を知らないのに、それは難しいでしょうね」イリスは立ち上がった。「でも、あなたと一緒なら…」
言葉が途切れた瞬間、突然の物音が二人を襲った。
「誰かが来る」ヴァルトは素早く立ち上がり、イリスを守るように前に立った。
「使用人よ、きっと」イリスは冷静さを取り戻した。「私がここにいるのを見られれば、噂になるわ」
「隠れてください」
彼は素早く小さな物置を指さした。イリスがそこに隠れる間に、ヴァルトは執事の姿に戻った。扉の向こうから、シルヴィアの声が聞こえる。
「ヴァルトさん、そこにいらっしゃいますか?」
「はい、シルヴィア様」ヴァルトは冷静に答えた。「何かご用でしょうか」
「明日からお嬢様の警護を強化するようにとの指示です」シルヴィアの声には緊張感があった。「侯爵様が、セドリック=ロシュフォール家との縁談を正式に進めることを決められました」
ヴァルトの顔に一瞬、動揺が走った。物置の中のイリスも、その知らせに息をのんだ。
「…かしこまりました」ヴァルトは淡々と答えた。
「それと…」シルヴィアの声がさらに低くなった。「気をつけて。お嬢様に対する、あなたの眼差しが侯爵様に気づかれれば、厄介なことになります」
ヴァルトは黙って頷いた。シルヴィアの足音が遠ざかると、物置からイリスが出てきた。
「縁談…」彼女の声は感情を抑えていた。「やはり父は私を政略の駒としか見ていないわ」
「お嬢様…」
「でも、この縁談は私の意思では決まらない」イリスは決意に満ちた眼差しでヴァルトを見つめた。「だから、あなたに約束して」
「何でしょう?」
「もし私が人形でなくなったとき、私を捨てないで」彼女は初めて、真っ直ぐに彼の目を見て頼んだ。「感情を取り戻して、壊れかけたとしても」
ヴァルトは一瞬の迷いもなく答えた。「決して捨てません。お嬢様が壊れるなら、共に壊れましょう」
月明かりの中、獣人と人形姫の間に、新たな誓いが交わされた。主従を超えた絆の始まり——ヴァルトの忠誠は、もはや償いのためだけではなく、彼自身の心から湧き上がる感情に変わり始めていた。