リュシアン王国の秋祭りを一週間後に控えた
この日、エドガー・ノクターン侯爵は珍しく客人を迎えていた。灰色が混じった黒髪をオールバックに撫で付け、ダークネイビーの軍服風礼装に身を包んだエドガーは、鋼のような銀色の瞳で相手を見据えている。痩せ型の高い体躯は権威そのものを体現しているかのようだった。
客人のセドリック・ロシュフォールは、金色の巻き毛と優しげな緑の瞳を持つ好青年だった。明るい青の礼服に紋章入りのケープを羽織り、その立ち振る舞いは洗練されている。両家の政略結婚の話し合いのため、今日は単身で訪れていた。
傍らには、ノクターン家の女官長シルヴィアが控えていた。亜麻色の髪を厳格に後ろで結い、黒のメイド長服に身を包んだ彼女は、ブルーグレーの瞳で静かに状況を見守っている。薄い唇は固く結ばれ、わずかな感情も表に出さない様子だった。
一方、イリス自身はこの話し合いには呼ばれていなかった。彼女は自室で執事ヴァルトと共に待機するよう命じられていたのだ。
「セドリック殿、ようこそノクターン家へ」エドガーは形式的な微笑みを浮かべた。「我が家の
「こちらこそ、お招きいただき感謝します」セドリックは爽やかな笑顔で応じた。「噂に聞いていた通り、実に荘厳な邸宅ですね」
「ふむ」エドガーは満足げに頷いた。「我がノクターン家は十二代に渡り、リュシアン王国の外交と防衛を担ってきた名門だ。この邸宅も、先祖代々受け継がれてきた誇りの象徴」
シルヴィアが静かに紅茶を注ぎ、両者の前に差し出す。銀のティーポットから立ち上る湯気が、部屋の緊張感を少しだけ和らげた。
「では本題に入りましょうか」セドリックは一口紅茶を啜った後、真っ直ぐにエドガーを見た。「イリス嬢との婚姻の件、ですが」
「うむ。話は簡単だ」エドガーは冷静に言い放った。「我が娘イリスを、君の家に嫁がせる。貴家は公爵家の血筋、我が家は侯爵家。双方にとって有益な取引となるだろう」
セドリックの表情が微かに曇った。「取引、ですか」
「そうだ。婚姻とは家と家の同盟関係だ。感情など不要の要素」エドガーは紅茶に手をつけることなく続けた。「君の家が持つ王宮への影響力と、我が家の軍事力と財力。この組み合わせは、貴族社会で最強の勢力を生み出す」
「イリス嬢自身の意向は?」セドリックは慎重に尋ねた。
エドガーは鼻で笑った。「娘は言われた通りにするだけだ。彼女は完璧に育てられた。感情に左右されることなく、家の利益のために動く」
この言葉に、シルヴィアの瞳に一瞬だけ痛みの色が過ぎったが、すぐに元の無表情に戻った。
「貴族の結婚観とは、実に…合理的ですね」セドリックは皮肉めいた微笑みを浮かべた。
「感傷は不要だ」エドガーは冷たく言い切った。「この婚姻により、我々は王室により近い位置に立つことができる。君の家は財政的安定を得る。まさに理想的な組み合わせだ」
セドリックはゆっくりと紅茶を置き、窓の外に広がる王都の景色に目をやった。夕暮れの光が街を黄金色に染め上げている。
「ノクターン侯爵、ひとつ質問があります」セドリックは思いがけず鋭い視線をエドガーに向けた。「あなたは娘さんを何だと思っているのですか?」
一瞬、室内の空気が凍りついた。
「何と言った?」エドガーの声は氷のように冷たくなった。
「単純な質問です」セドリックは微笑みを崩さない。「イリス嬢は、あなたにとって道具ですか?それとも娘ですか?」
エドガーはゆっくりと立ち上がった。その姿勢には威圧感が満ちていた。
「若いな、ロシュフォール卿」彼は低く危険な声で言った。「貴族社会の仕組みをまだ理解していないようだ。娘はノクターン家の
セドリックも立ち上がった。意外にも、彼の表情は恐れではなく、静かな決意に満ちていた。
「理解しました」彼はエドガーに軽く会釈した。「しかし、結婚は二人の問題。まずはイリス嬢と会話を重ねさせていただきたい」
「勝手にするがいい」エドガーは冷ややかに言った。「だが覚えておけ。この婚姻は王国の力関係にも影響を与える重要事項だ。私の政治力を甘く見るな」
「その点は承知しています」セドリックは笑顔を取り戻した。「貴方が貴族院での影響力を背景に、北方防衛線の予算配分と人事に大きな発言権を持っていることは周知の事実。王国を動かす力を持つノクターン家との繋がりは、我が家にとっても大きな意味を持ちます」
その言葉にエドガーは満足げに頷いた。しかし、セドリックの次の言葉は予想外だった。
「ですが、私は貴方と違う結婚観を持っています。イリス嬢を知るところから始めさせてください」
エドガーの
会談が終わり、セドリックが去った後、シルヴィアはゆっくりとエドガーに向き合った。
「侯爵様、お言葉を」彼女は慎重に口を開いた。「お嬢様は道具ではなく、人間です」
「黙れ」エドガーは冷たく言い放った。「お前は使用人だ。家の政策に口を挟む資格はない」
「それでも申し上げます」シルヴィアの声は静かながらも強い意志を秘めていた。「お嬢様を『人形』として扱えば、いずれその代償を…」
「十分だ」エドガーは彼女の言葉を遮った。「イリスは私が育てたとおりの完璧な娘だ。感情など持たぬ、理想の
シルヴィアはそれ以上何も言わなかった。しかし彼女の瞳の奥には、知る者だけが読み取れる悲しみと決意が宿っていた。静かに一礼し、部屋を出る彼女の背中には、長年抱え続けた苦悩の重みが感じられた。
エドガーは再び窓辺に立ち、王都を見下ろした。彼の鋼のような目には、権力への冷徹な渇望だけが映っていた。娘を政治的駒として使う冷酷さの裏に、彼自身も気づいていない何かが隠されていた。それは、愛する妻を失った時から凍りついた、取り戻せない過去の