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閑話集②

SideTalk:獣の記憶と禁じられた異能

夏の宵闇よいやみが深まる頃、ノクターン侯爵邸の裏庭は静寂に包まれていた。イリスの誘拐未遂事件から二週間後のこの夜、彼女の異能の兆候が初めて現れた日でもあった。白銀の髪を緩く編み込み、淡いラベンダー色のシンプルなナイトドレスに身を包んだイリスは、秘密の花園の石のベンチに腰掛けていた。その陶器のような白い肌が月明かりを浴びて、ほのかに光を放っている。


彼女の隣には、いつになく緊張した面持ちのヴァルトが立っていた。漆黒の執事服は夜の闇に溶け込み、ただ琥珀色の瞳だけが月光を反射して獣のように光っている。彼の強張った背中からは、今にも獣の姿に戻りそうな緊迫感が漂っていた。


「あの日、あなたが見せた姿…」イリスは静かに口を開いた。「本当の姿なのね」


ヴァルトは黙って頷いた。風が吹き抜け、花々の香りが二人を包む。


「私に話してくれる? あなたの異能のこと、そして…この王国での『呪われし者』の歴史について」


ヴァルトは深く息を吸い、ゆっくりと彼女の隣に腰を下ろした。普段なら決して許されない行為だが、今夜は違った。


「異能とは、生まれながらにして与えられた力です」彼は低い声で語り始めた。「私のような獣人形態を取る者もいれば、自然の力を操る者、心を読む者…様々です」


「それなのに、なぜ『呪われし者』と?」


「かつて、リュシアン王国には異能を持つ王がいました」ヴァルトの目は遠くを見つめていた。「廃王はいおうと呼ばれる王です。彼は強大な力を持ちながら、それを民のために使おうとした」


「教えてもらったことがないわ…王国の歴史の中で」


「消された歴史です。廃王はいおうは約百年前、民を守るために自らの力を使い果たし、最後には反逆者として処刑されました」彼の声には苦々しさが滲んでいた。「そこから、異能は『禁忌』とされ、持つ者は『呪われし者』として迫害されるようになったのです」


イリスは静かに空を見上げた。月の光が彼女の顔を照らし、普段は無表情な瞳に悲しみが浮かんでいる。


「犠牲になったのね…」


「すべての異能には対価があります」ヴァルトは自分の手を見つめた。その指先は少し震えていた。「力を使えば使うほど、大切な何かを失っていく」


「あなたの場合は?」


「私が獣の姿になるたび、人としての理性が少しずつ失われます」彼は苦い微笑みを浮かべた。「いずれ完全な獣になってしまうかもしれない」


夜風が二人の間を吹き抜けた。イリスはヴァルトの手を見つめ、震える指先に気づいた。普段なら決して触れることのない彼の手に、彼女は自分の白い指を重ねた。


「私の中にも力が眠っているの?」彼女の声は囁くように小さかった。


「お嬢様、あの日の出来事から…間違いないでしょう」ヴァルトは真剣な表情で言った。「あなたの周りの空気が凍りつき、誘拐犯が立ち尽くしたのは偶然ではない」


「でも父上は…私から感情を奪ったわ。それが私の異能を封じるためだったの?」


「可能性はあります」彼は慎重に言葉を選んだ。「ノクターン家には、代々魔力を持つ血が流れているという噂があります。特に女系に」


イリスは自分の胸に手を当てた。そこには何も感じない冷たさがあった。


「私の異能の対価は…もう支払ってしまったのかもしれないわね。感情という名の対価を」


「お嬢様…」


「異能持ちへの差別は、恐れからくるものなのね?」イリスは話題を変えるように言った。


ヴァルトは頷いた。「恐れと無知からです。『廃王の庭園』と呼ばれる場所があります。かつて異能の王が処刑された場所。今は立ち入り禁止になっていますが…」


「そこには何があるの?」


「答えがあるかもしれません。あなたの力の本質について」


イリスの瞳が月明かりを受けて光った。「連れて行って」


「それは危険です」ヴァルトの声は硬くなった。「異能持ちと知られれば、あなたも『呪われし者』として…」


「でも、あなたは私を守ってくれるでしょう?」イリスの声には、珍しく感情の色が混じっていた。「異能の対価が何であれ、私は知りたい。本当の自分を」


ヴァルトは長い間黙っていた。彼の琥珀色の瞳に、月の光が反射している。


「獣である私が、姫であるあなたを守る…」彼はついに口を開いた。「皮肉な運命です」


「運命?」


「獣人奴隷だった私を、あなたが選んだのは偶然ではないかもしれません」彼の声は深く、暗い森のようだった。「私たちは、何かによって導かれている気がします」


イリスの指がヴァルトの手の上で微かに震えた。二人の間に流れる沈黙は、言葉よりも多くを語っていた。


「明日の夜、準備をします」ヴァルトは最後に言った。「あなたの求める答えが、良いものであることを願います」


「あなたはもう奴隷じゃないのに…なぜ?」


ヴァルトはゆっくりと立ち上がり、イリスを見下ろした。月明かりに照らされた彼の顔には、普段は決して見せない感情が浮かんでいた。


「それが、獣の忠誠というものです」


しかし彼の目に浮かぶ感情は、単なる忠誠を超えた何かだった。イリスは初めて、自分の胸の内に微かな温もりを感じていた——凍てついていた心に、小さな亀裂が入り始めていた証だった。


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