月明かりだけが頼りの深夜、ロシュフォール家の別荘は森に囲まれて静まり返っていた。
「今夜も眠れないわね」
イリスは窓辺に立ち、暗闇の彼方を見つめていた。別荘に来てから三日目の夜。彼女の白銀の髪が月光を受けて幻想的に輝いている。彼女の横顔は美しく整っていたが、その紫色の瞳には言いようのない寂しさが宿っていた。
セドリックとの別荘暮らしは、表面上は平穏に過ぎていた。優雅な朝食、散歩、読書、夕食——すべてが上品で洗練されていた。しかし、イリスの心は常に別の場所にあった。
「ヴァルト…」
その名を口にするたび、胸が痛むような、でも温かいような不思議な感覚に包まれた。あの日、王都で別れてから十日。彼の姿を見ないまま、イリスはセドリックに連れられてこの別荘に来ていた。
「お嬢様、まだ起きていらっしゃるんですか?」
振り返ると、小さな明かりを手にしたユナが入ってきた。彼女の茶色い髪は三つ編みを崩し、寝間着姿だった。
「ユナ、ごめんなさい。起こしてしまったかしら」
「いいえ!」ユナは元気よく首を振った。「ちょうどお水を飲みに行こうと思ったところです。でも…」彼女の表情が心配そうになった。「お嬢様、毎晩こんなに遅くまで起きていると、体に良くありませんよ」
イリスは小さく微笑んだ。このユナの素直な心配が、今の彼女には何よりの慰めだった。幸い、セドリックは「お付きの者を一人だけ」という条件を受け入れてくれて、ユナを連れてくることができた。
「大丈夫よ。少し…考え事をしていただけ」
「ヴァルトさんのことですか?」
その質問に、イリスは少し驚いた。「どうして分かったの?」
ユナは少し照れたように笑った。「だって、お嬢様がそんな顔をするのは、ヴァルトさんのことを考えているときだけですもの」
「そんな顔って…」
「はい!」ユナは突然、真剣な表情で眉をひそめ、でも目は少し遠くを見るような表情をした。「こんな感じです!」
その
「ええ、とっても!」ユナは嬉しそうに言った。「でも、それが素敵なんです。お嬢様が誰かのことをそんなふうに思うなんて…」
イリスは窓の外に視線を戻した。「ユナ、あなたは…この別荘での生活、どう思う?」
「え?」ユナは少し考えて答えた。「とっても豪華で、お料理も美味しくて、セドリック様も親切で…でも」
「でも?」
ユナは声を落とした。「なんだか、お嬢様が
イリスはその言葉に胸を突かれる思いがした。確かに表面上は何も不自由のない生活。セドリックは彼女に優しく、森の中の美しい別荘での日々は平和そのものだった。けれど…
「ユナ、実は…」イリスは何かを告白しようとして、急に言葉を切った。
窓の外、森の中に小さな光が見えた気がしたのだ。
「あれは…」
イリスは身を乗り出して目を凝らした。間違いない。森の中を移動する松明の灯りだ。それも一つではなく、複数。
「ユナ、誰か来たわ」
「まさか、こんな夜中に?」ユナも窓際に駆け寄った。「山賊…なんてことはないですよね?」
イリスは首を振った。「ここはロシュフォール家の領地よ。そんな者たちが近づくはずがないわ」
二人は息を殺して見守った。灯りは別荘に近づきつつあるが、規則正しい動きをしている。まるで警備の者たちのようだ。
「お嬢様、セドリック様に知らせたほうが…」
「待って」イリスは再び目を凝らした。灯りを持つ人影の中に、ひときわ背の高い
「ヴァルト…?」
イリスの心臓が激しく鼓動を始めた。彼女の直感は確かだった。あの姿は、間違いなくヴァルトだ。でも、なぜ彼がここに?しかも夜中に?
「本当にヴァルトさんですか?」ユナも目を見開いて尋ねた。
「ええ、きっとそう」イリスは唇を引き結んだ。「でも、何か不吉な予感がするわ」
彼女が言い終わらないうちに、別荘の正面玄関から物音が聞こえた。男たちの声、それから馬の
「行ってみましょう」イリスは決然と言った。
「で、でも、お嬢様!こんな夜中に」
「ヴァルトがここに来たのには、必ず理由があるはず。私は知りたいの」
イリスは足早に部屋を出て、階段を降りた。ユナもあわてて後を追う。一階の
「イリス!どうして起きているんだ?」
「外から音がしたから」イリスは簡潔に答えた。「誰が来たの?」
「それが…」セドリックが答えようとした時、広間の扉が開いた。
そこに立っていたのは、旅装束に身を包んだヴァルトだった。彼の服はところどころ破れ、顔には
「お嬢様」
その声を聞いた瞬間、イリスの
「ヴァルト…」
彼女は思わず一歩前に出たが、セドリックが彼女の前に立ちはだかった。
「一体どういうつもりだ?」セドリックの声には、珍しく緊張が
「お許しください」ヴァルトは深く頭を下げた。「急を要する用件でした。お嬢様の身に危険が迫っています」
「危険?」イリスとセドリックが同時に声を上げた。
ヴァルトは周囲を見回し、声を潜めた。「この場では詳しく申し上げられません。ですが…」
彼はイリスの目をまっすぐ見た。その琥珀色の瞳には、切迫した思いが宿っていた。
「お嬢様、すぐにここを離れなければなりません」
その言葉に、部屋が静まり返った。イリスは自分の心臓の鼓動が耳に響くほどだった。
「待て」セドリックが険しい表情で言った。「そんな突然の話を信じろというのか?何の証拠もなしに」
「証拠ならあります」ヴァルトは懐から一通の手紙を取り出した。「これはノクターン侯爵から王宮の魔法技術院に宛てた書簡です。内容をご覧ください」
彼が差し出した手紙をイリスが受け取ろうとすると、セドリックが
彼は手紙を開き、目を通した。読み進むにつれ、彼の顔色が変わっていく。
「これは…本物か?」
「残念ながら」ヴァルトはうなずいた。「ラヴェンデル男爵邸で見つけたものです」
「どういう内容なの?」イリスが問いかけた。
セドリックは顔を上げ、ためらいがちにイリスを見た。「君の父親が…君を王宮に
イリスの全身が凍りついた。父の計画を聞いてはいたが、実際に証拠を突きつけられるとは。「父は本当に…私を売ろうとしていたのね」
「それだけではありません」ヴァルトの声がさらに低くなった。「明日、王宮からの使者がここに到着する予定です。お嬢様を"保護"すると称して連れ去るために」
「明日?」イリスの血の気が引いた。「でも、どうしてここに?父は私が別荘にいることをどうやって…」
「おそらく私が原因です」セドリックが重い口調で言った。「父に手紙を出したんだ。君との滞在について報告するために」
イリスはセドリックを見つめた。彼の青い目は悔恨に満ちていた。
「知らなかったんだ…」彼は言葉を絞り出した。「君の父親と王宮が共謀していたなんて」
ヴァルトはセドリックをじっと見た。「ロシュフォール様、あなたが関わっていないとすれば…今すぐにでもお嬢様を安全な場所へ」
「もちろんだ」セドリックはきっぱりと言った。「俺も一緒に行く」
「それは…」ヴァルトの表情に
「ヴァルト」イリスが割って入った。「セドリックは信頼できるわ。彼はずっと私に"選択肢"があると言ってくれていた。自由を得るための」
ヴァルトは静かにうなずいた。「分かりました。では急ぎましょう。荷物は最小限に」
「わたしも手伝います!」ユナが前に出た。「お嬢様の荷物をすぐにまとめます!」
「ありがとう、ユナ」イリスは彼女に微笑みかけた。「あなたも一緒に来てくれる?危険かもしれないけど」
「もちろんです!」ユナの目は決意に燃えていた。「お嬢様がどこへ行かれようと、私はついていきます!」
「私は馬を用意させる」セドリックが言った。「東の
皆がそれぞれの準備に散っていく中、イリスとヴァルトが
「ヴァルト…」イリスは彼に近づいた。「本当にあなたなのね」
「はい、お嬢様」彼の目に温かな光が宿った。「約束通り、戻ってきました」
「あなたの怪我は…」イリスが彼の
「些細なものです」ヴァルトは小さく微笑んだ。「ラヴェンデル男爵の屋敷から
「本当に…無謀な人ね」イリスの声が少し震えた。「でも、戻ってきてくれて…ありがとう」
ヴァルトはまっすぐ彼女を見つめた。「お嬢様のためなら、何でもします」
その言葉に、イリスの胸が熱くなった。これまでいつも彼女を守ってくれたヴァルト。今度は、彼女も何かできるはずだ。
「今度は私があなたを守るわ」イリスはふいに言った。
ヴァルトの目が少し見開かれた。「お嬢様…」
「ほら、急ぎましょう」セドリックの声がして、二人は我に返った。「東の門から出られるよう手配した」
三十分後、彼らは夜の森の中を馬で進んでいた。イリスとユナ、セドリック、ヴァルト、それに二人の
「どこへ行くの?」イリスがヴァルトに尋ねた。
「まずは森の奥にある
「森の中に寺院なんてあったのね」
「ええ、廃れていますが、雨風はしのげます」
イリスは前を行くヴァルトの背中を見つめた。彼の姿は月光の中で
(これが私の選んだ道)
彼女は密かに決意を新たにした。父の
突然、森の
「何か来る!」ヴァルトが鋭く叫んだ。
次の瞬間、森の中から黒い
「魔法技術院の追っ手!」セドリックが
「罠だ!」ヴァルトが叫び、イリスの前に立ちはだかった。「お嬢様、私の背中につかまって!」
追っ手は五人ほど。全員が黒装束で、手には奇妙な
「イリス=ノクターン」先頭の黒装束が声を上げた。「貴女はノクターン侯爵様のご命令により、王宮魔法技術院の保護下に入っていただく」
「断る!」イリスはきっぱりと言った。「父の命令だとしても、私は行かない!」
「従わないのであれば…」黒装束が杖を掲げた。「力ずくでも連れて行く!」
杖から紫の光が発せられ、彼らの前方の木が一瞬で
「術者だ!」セドリックが剣を抜きながら叫んだ。「分散して逃げろ!」
混乱の中、イリスは背後から何かに
「来い!」
「離しなさい!」イリスは抵抗したが、相手は非情に彼女を引っ張る。
その時だった。
「イリス様!」
ヴァルトの鋭い叫び声と共に、彼が
「下がってください!」
ヴァルトはイリスを守るように前に立ち、獣人特有の鋭い爪を
「術者たちを迂回します!」セドリックが叫んだ。「イリス、私についてきて!」
「でも、ヴァルトは!」
「私は大丈夫です」ヴァルトが言い放った。「お嬢様の安全が最優先です。セドリック様に従ってください」
「でも…」
「お願いします」ヴァルトの声には切迫感があった。「必ず後を追います」
イリスは
「必ず無事で来て」イリスは強く言った。「これは命令よ」
ヴァルトの顔に小さな微笑みが浮かんだ。「かしこまりました、お嬢様」
イリスはセドリックとユナに続いて森の
(ヴァルト…必ず無事に)
彼女は心の中で祈りながら、闇の中を走り続けた。これが彼女の選んだ自由への道——それは決して容易なものではないことを、彼女は理解し始めていた。
でも、振り返るつもりはなかった。たとえどんな