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Section8-2:異能に取り込まれそうなイリス

森のやみは、まるで生き物のように彼らをみ込んでいった。


「こっちよ!」セドリックが小声で急かした。「このしげみを抜ければ、小さな洞窟がある」


イリスは息を切らしながらも足を進めた。ドレスのすそは既にどろと枝で滅茶苦茶めちゃくちゃになっていたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。彼女の頭の中には、たった一つの思いだけがあった。


(ヴァルト…無事でいて)


「お嬢様、大丈夫ですか?」ユナが心配そうに彼女の腕を支えた。


「ええ」イリスは小さく頷いたが、心は決して平静ではなかった。「でも、私たちだけ逃げるなんて…」


「ヴァルトさんなら大丈夫ですよ」ユナが微かに微笑んだ。「あの人、とっても強いですから」


イリスの胸に灼熱しゃくねつの痛みが走った。確かにヴァルトは強い。けれど、あの黒装束の追手おってたちも尋常ではなかった。魔杖まづえから放たれた氷結ひょうけつの術を思い出し、彼女は戦慄せんりつした。


「そろそろかな…」セドリックが立ち止まり、周囲を見回した。「ああ、あれだ」


月明つきあかりに照らされた、小さな岩の隙間すきまが見えた。彼らはそこにすべり込むように入り込んだ。中は想像以上にひろく、四、五人なら身をひそめることができる程度の空間だった。


「ここなら当分見つからないだろう」セドリックは額の汗を拭った。「少し休もう」


イリスは岩にを預け、深い息を吐いた。心臓の鼓動が耳に響き、手が小刻みに震えている。それは単なる疲労からではなかった。


「……」


彼女は両手を見つめた。微かに、掌から紫色の光が漏れ始めていた。


(また…始まる)


「イリス?」セドリックが彼女に気づき、目をみはった。「その光は…」


「だ、大丈夫」イリスは慌てて両手を胸元でにぎりしめた。「ちょっと、落ち着かないだけ」


しかし、嘘だった。彼女の体内で何かがうごめき始めている感覚。母の日記に書かれていた「異能の暴走」の前兆ぜんちょうだ。


(ここで暴走したら、皆が危険に…)


「セドリック、ユナ」イリスは震える声で言った。「少し…一人にしてもらえる?」


「え?でも、お嬢様…」


「ユナ、お願い」イリスは必死で笑顔をつくった。「大丈夫だから」


セドリックはイリスの様子をいぶかしんでいたが、彼女の決意を察したのか、小さくうなずいた。


「わかった。でも洞窟の外で待っている。何かあったらすぐに呼んでくれ」


「ありがとう」


二人が出て行くと、イリスはようやくこらえていた吐息といきを漏らした。両手から溢れる紫の光は既に腕全体をまとい始めていた。


(制御して…落ち着いて…)


彼女は深呼吸を始め、母の日記に書かれていた瞑想法めいそうほうを思い出した。意識を内側に向け、渦巻うずまく感情の奥底をのぞき込む。


そこで見たのは、真紅しんくの恐怖と漆黒しっこくの怒り。ヴァルトを置いてきた自責じせきの念と、父へのいきどおり。そして何より、これから進む道への不安。


「大丈夫…落ち着いて…」


イリスは自分に言い聞きいきかせるようにつぶやいた。しかし、光はおさまるどころか、より強く輝き始めた。体の中で異能いのうあばれ出そうとしている。


「駄目…」


次の瞬間、まぶしいほどの光が洞窟内をたした。イリスの髪が逆立さかだち、空中にかび上がるような感覚におそわれた。


(何が…起きてる?)


彼女の意識が少しずつとおのいていく。体が自分のものではなくなったような、異能にみ込まれていくような感覚。


「お嬢様!」


ユナの悲鳴ひめいが聞こえた。彼女は洞窟に駆け戻ってきたらしい。


「イリス!」セドリックも続いた。


だが、イリスは彼らの声にすらこたえられなかった。全身がしびれたように強張こわばり、言葉を発することも、指一本動かすこともできなかった。


「この光…」セドリックが顔をかばいながらつぶやいた。「異能が暴走している!」


「どうすれば…」ユナの声がふるえていた。


彼らの声がどんどんとおくなっていく。代わりに、イリスの頭の中にささやき声があふれ始めた。


(もう戻れない)

(すべてをはなてば楽になる)

(力に身を委ねなさい)


まるで誰かが彼女に語りかけているような、でも自分自身の心の声のような不思議なささやき。


イリスはあらがおうとしたが、意識がどんどんうすれていく。視界が紫色のもやおおわれ、彼女は自分が何者なのかすら忘れそうになった。


(これが…母が言っていた…異能にまれるということ…)


—イリス。


突然、別の声が彼女の意識をつらぬいた。それは温かく、強く、そして確かな声。


—イリス。感情をこばまないで。


その声を、彼女は知っていた。


(ヴァルト…?)


—あなたの心は強い。力にくっするのではなく、それを受け入れるのだ。


イリスは必死ひっしに意識をつなぎとめようとした。その声に導かれ、渦巻うずまく感情の海の中から自分自身をさがす。


(私は…イリス。人形ではない。もう、誰かの思い通りになる人形じゃない)


少しずつ、彼女の意識がもどり始めた。くらむような紫の光輪こうりんの中から、自分の手が見えた。


(私は力にまれない)


イリスはのこされたわずかな意識で、母の言葉を思い出した。


「感情を恐れないで。喜びも、悲しみも、怒りも、全てを。そして何より、愛することを恐れないで」


(愛…)


その時、彼女の脳裏にヴァルトの顔が浮かんだ。彼の真摯しんしな瞳、たくましい腕、彼女を守るためにたたかう姿。


(私は…あなたのために…)


イリスの中で、何かが変容へんようし始めた。あばれる異能のエネルギーが、少しずつ形を変えていく。破壊はかいではなく、創造そうぞうへ。混沌こんとんではなく、調和ちょうわへ。


「お嬢様…!」


ユナの声が、今度ははっきりと聞こえた。イリスはつらうじて目を開いた。自分がまだ洞窟にいること、セドリックとユナが恐怖にこおりついたような表情で彼女を見つめていることが分かった。


「私は…」イリスはようやく言葉を取り戻した。「大丈夫…よ」


彼女の体をまとっていた紫の光が、徐々に収束しゅうそくし始めた。まるで光の粒子りゅうしが彼女の体内に戻っていくかのように。


「イリス…」セドリックがおそおそる近づいてきた。「君は…」


「制御…できたわ」イリスは小さく微笑んだ。「なんとか」


「すごい…」ユナはまぶしそうに目をしばたたせた。「お嬢様、一体何が…」


「後で説明するわ」イリスは立ち上がろうとして、ひざから力が抜けた。


「危ない!」セドリックが彼女を支えた。「無理しないで」


「ありがとう…」イリスは彼の腕をりながらち上がった。「でも、急がなきゃ。ヴァルトが…」


その時、洞窟の入口から物音ものおとがした。三人は一斉にり向いた。


「誰…?」


そこに現れたのは、疲労ひろう傷跡きずあと滅茶苦茶めちゃくちゃになった姿だったが、間違いなくヴァルトだった。


「お嬢様…」彼は息をらしながらつぶやいた。「無事で…」


「ヴァルト!」


イリスは思わず駆け寄り、彼の腕にび込んだ。彼の体は温かく、そしてたしかだった。夢ではない。ヴァルトは本当に戻ってきたのだ。


「あなたが…」イリスはふるえる声で言った。「あなたの声が聞こえた。私が異能にまれそうになった時に」


ヴァルトは困惑したように彼女を見下ろした。「私の声…?」


「ええ」イリスは頷いた。「あなたが私に…感情をこばまないでって」


ヴァルトはしずかにうなずいた。「私は言葉にはしませんでしたが…確かに、そう思っていました」


「こんな離れた場所でも、私の心に届いたのね」


イリスがそう言うと、ヴァルトの頬が微かに赤く染まった。彼はすぐに咳払せきばらいをして平静へいせいを取り戻そうとした。


「それより、お嬢様…」ヴァルトの視線が彼女をつつみ込んでいた紫の光ののこかすに向けられた。「異能が暴走したのですか?」


「ええ、でも今は大丈夫」イリスは小さく微笑んだ。「母が言っていた通りだったわ。感情を受け入れることが鍵だったの」


ヴァルトはほっとしたように息を吐いた。「良かった…」


「あの、すみません」ユナが心配そうに割り込んだ。「でも黒装束の人たちは?」


その質問に、ヴァルトの表情が引き締まった。「一時的にきましたが、長くは持ちません。彼らには優秀な追跡ついせき術者がいます」


「どうすればいい?」セドリックが尋ねた。


「すぐに移動します」ヴァルトはきっぱりと言った。「私の知人がかくれ家を用意してくれています。そこなら一晩は安全でしょう」


「その知人って…」


「獣人です」ヴァルトは少し警戒けいかいするように答えた。


セドリックは少し考えるような素振りを見せたが、すぐに頷いた。「わかった。それが一番安全なようだな」


「では急ぎましょう」ヴァルトが洞窟の入口に向かいかけて、ふと立ち止まった。「お嬢様、大丈夫ですか?歩けますか?」


イリスは自分の体調を確かめるように一歩踏み出した。脚はまだ少しふるえていたが、ちこたえられそうだった。


「大丈夫…だと思うわ」


「無理はなさらないで」ヴァルトは彼女に近づき、躊躇ためらいがちに手を差し出した。「必要なら…」


イリスは微笑み、その手を取った。「ありがとう」


四人は洞窟を出て、再び闇の森へと足を踏み入れた。今度はヴァルトが先導し、彼らは獣道けものみちのような細い道を進んでいった。


星明かりがこずえの間から覗く夜の森。異常なほど静寂せいじゃく支配しはいしていた。まるで森全体が息を潜めているかのように。


「変ね」イリスがヴァルトに小声で言った。「森の音が…ない」


ヴァルトはまゆしかめた。「気づきましたか…いいセンスです」


「どういう意味?」


「自然がだまり込むのは、危険な存在が近くにいる証拠です」ヴァルトの声が低くなった。「急ぎましょう」


彼らは足早に進んだ。イリスは先ほどの異能の暴走で体力を消耗していたが、それでも必死ひっしにヴァルトの後をった。彼女の中には、もう後戻りはできないという覚悟があった。


(私は選んだのだから)


やみの中、彼らは見えない敵から逃れるように進み続けた。しかし、イリスの心の中には、もう恐れはなかった。先ほどの体験で、彼女は自分の力が制御できることを知った。それが小さな自信になっていた。


「もうすぐです」ヴァルトがささやいた。「あと少し…」


突然、前方の藪が動いた。ヴァルトは瞬時しゅんじに身構え、イリスを背後にかばった。


「誰だ!」


藪から現れたのは、おもいがけない人物だった。


「シルヴィア?!」イリスは驚きの声を上げた。


亜麻色あまいろの髪をした女性が、彼らの前に立っていた。いつもの優雅な佇まいとは違い、彼女は旅装束に身を包み、つかれた様子だったが、まぎれもなくシルヴィアだった。


「お嬢様!」シルヴィアは安堵の表情を浮かべた。「よかった、無事だったのですね」


「でも、どうして…」


「侯爵様の計画を知り、すぐに後を追いました」シルヴィアは急いで説明した。「私がいなければ、危険だと思って」


「よく私たちを見つけられたわね」


「お母様の遺品いひんのロケットです」シルヴィアはイリスの首元を見た。「追跡のまじないが込められていて…」


イリスは首に手をやり、愕然がくぜんとした。「ロケットがない…」


「ヴァルトさんに渡したのですか?」


「ええ、でも…」イリスは不安げにヴァルトを見た。「追跡まじない?」


ヴァルトはふところからロケットを取り出した。「だから黒装束たちがすぐに追ってきたのか…」


「おそらく」シルヴィアはうなずいた。「でも今は議論している場合ではありません。私が知るかくれ家があります。そこならまじないから遮断しゃだんできます」


「どこにある?」セドリックが尋ねた。


峡谷きょうこくの向こう、ふる水車小屋すいしゃごやです」


「信用していいの?」ユナがイリスに小声で尋ねた。


イリスはシルヴィアをじっと見つめた。彼女は母の代わりに自分を育て、ずっと支えてくれた人。でも、この状況では…


「シルヴィア」イリスはまっすぐ彼女の目を見た。「あなたは本当に私を助けるために来たの?それとも…」


「お嬢様」シルヴィアの目にかなしみが浮かんだ。「私はあなたのお母様に誓いました。あなたを守ると。例えそれが侯爵様の意に沿わなくても」


その言葉にいつわりはなさそうだった。イリスは小さく頷いた。


「わかったわ。あなたを信じる」


ヴァルトは少し躊躇ためらいを見せたが、結局はイリスの判断に従った。「では、シルヴィア殿の案内で」


彼らは再び歩き始めた。森の木々きぎの間をうように進み、小さな峡谷きょうこくに出た。月明かりがほそ渓流けいりゅうを銀色に染めている。


シルヴィアは彼らを水辺に沿ってみちびいた。イリスはヴァルトの腕を借りながら、ちからり絞って歩いた。異能の暴走から立ち直ったとはいえ、疲労は隠せなかった。


(もう少し…)


彼女は自分をふるい立たせた。今はただ、安全な場所にたどり着くことだけを考えなければならない。


そして——これから始まる真のたたかいに備えて。


彼らはやみの中を、薄明うすあかりの希望に向かって歩き続けた。

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