森の闇は、まるで生き物のように彼らを呑み込んでいった。
「こっちよ!」セドリックが小声で急かした。「この茂みを抜ければ、小さな洞窟がある」
イリスは息を切らしながらも足を進めた。ドレスの裾は既に泥と枝で滅茶苦茶になっていたが、今はそんなことを気にしている場合ではない。彼女の頭の中には、たった一つの思いだけがあった。
(ヴァルト…無事でいて)
「お嬢様、大丈夫ですか?」ユナが心配そうに彼女の腕を支えた。
「ええ」イリスは小さく頷いたが、心は決して平静ではなかった。「でも、私たちだけ逃げるなんて…」
「ヴァルトさんなら大丈夫ですよ」ユナが微かに微笑んだ。「あの人、とっても強いですから」
イリスの胸に灼熱の痛みが走った。確かにヴァルトは強い。けれど、あの黒装束の追手たちも尋常ではなかった。魔杖から放たれた氷結の術を思い出し、彼女は戦慄した。
「そろそろかな…」セドリックが立ち止まり、周囲を見回した。「ああ、あれだ」
月明かりに照らされた、小さな岩の隙間が見えた。彼らはそこに滑り込むように入り込んだ。中は想像以上に広く、四、五人なら身を潜めることができる程度の空間だった。
「ここなら当分見つからないだろう」セドリックは額の汗を拭った。「少し休もう」
イリスは岩に背を預け、深い息を吐いた。心臓の鼓動が耳に響き、手が小刻みに震えている。それは単なる疲労からではなかった。
「……」
彼女は両手を見つめた。微かに、掌から紫色の光が漏れ始めていた。
(また…始まる)
「イリス?」セドリックが彼女に気づき、目を瞠った。「その光は…」
「だ、大丈夫」イリスは慌てて両手を胸元で握りしめた。「ちょっと、落ち着かないだけ」
しかし、嘘だった。彼女の体内で何かが蠢き始めている感覚。母の日記に書かれていた「異能の暴走」の前兆だ。
(ここで暴走したら、皆が危険に…)
「セドリック、ユナ」イリスは震える声で言った。「少し…一人にしてもらえる?」
「え?でも、お嬢様…」
「ユナ、お願い」イリスは必死で笑顔を作った。「大丈夫だから」
セドリックはイリスの様子を訝しんでいたが、彼女の決意を察したのか、小さくうなずいた。
「わかった。でも洞窟の外で待っている。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「ありがとう」
二人が出て行くと、イリスはようやく堪えていた吐息を漏らした。両手から溢れる紫の光は既に腕全体を纏い始めていた。
(制御して…落ち着いて…)
彼女は深呼吸を始め、母の日記に書かれていた瞑想法を思い出した。意識を内側に向け、渦巻く感情の奥底を覗き込む。
そこで見たのは、真紅の恐怖と漆黒の怒り。ヴァルトを置いてきた自責の念と、父への憤り。そして何より、これから進む道への不安。
「大丈夫…落ち着いて…」
イリスは自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、光は収まるどころか、より強く輝き始めた。体の中で異能が暴れ出そうとしている。
「駄目…」
次の瞬間、眩しいほどの光が洞窟内を満たした。イリスの髪が逆立ち、空中に浮かび上がるような感覚に襲われた。
(何が…起きてる?)
彼女の意識が少しずつ遠のいていく。体が自分のものではなくなったような、異能に呑み込まれていくような感覚。
「お嬢様!」
ユナの悲鳴が聞こえた。彼女は洞窟に駆け戻ってきたらしい。
「イリス!」セドリックも続いた。
だが、イリスは彼らの声にすら応えられなかった。全身が痺れたように強張り、言葉を発することも、指一本動かすこともできなかった。
「この光…」セドリックが顔を庇いながら呟いた。「異能が暴走している!」
「どうすれば…」ユナの声が震えていた。
彼らの声がどんどん遠くなっていく。代わりに、イリスの頭の中に囁き声が溢れ始めた。
(もう戻れない)
(すべてを放てば楽になる)
(力に身を委ねなさい)
まるで誰かが彼女に語りかけているような、でも自分自身の心の声のような不思議な囁き。
イリスは抗おうとしたが、意識がどんどん薄れていく。視界が紫色の靄に覆われ、彼女は自分が何者なのかすら忘れそうになった。
(これが…母が言っていた…異能に呑まれるということ…)
—イリス。
突然、別の声が彼女の意識を貫いた。それは温かく、強く、そして確かな声。
—イリス。感情を拒まないで。
その声を、彼女は知っていた。
(ヴァルト…?)
—あなたの心は強い。力に屈するのではなく、それを受け入れるのだ。
イリスは必死に意識を繋ぎとめようとした。その声に導かれ、渦巻く感情の海の中から自分自身を探す。
(私は…イリス。人形ではない。もう、誰かの思い通りになる人形じゃない)
少しずつ、彼女の意識が戻り始めた。眩むような紫の光輪の中から、自分の手が見えた。
(私は力に呑まれない)
イリスは残された僅かな意識で、母の言葉を思い出した。
「感情を恐れないで。喜びも、悲しみも、怒りも、全てを。そして何より、愛することを恐れないで」
(愛…)
その時、彼女の脳裏にヴァルトの顔が浮かんだ。彼の真摯な瞳、逞しい腕、彼女を守るために戦う姿。
(私は…あなたのために…)
イリスの中で、何かが変容し始めた。暴れる異能のエネルギーが、少しずつ形を変えていく。破壊ではなく、創造へ。混沌ではなく、調和へ。
「お嬢様…!」
ユナの声が、今度ははっきりと聞こえた。イリスは辛うじて目を開いた。自分がまだ洞窟にいること、セドリックとユナが恐怖に凍りついたような表情で彼女を見つめていることが分かった。
「私は…」イリスはようやく言葉を取り戻した。「大丈夫…よ」
彼女の体を纏っていた紫の光が、徐々に収束し始めた。まるで光の粒子が彼女の体内に戻っていくかのように。
「イリス…」セドリックが恐る恐る近づいてきた。「君は…」
「制御…できたわ」イリスは小さく微笑んだ。「なんとか」
「すごい…」ユナは眩しそうに目を瞬たたせた。「お嬢様、一体何が…」
「後で説明するわ」イリスは立ち上がろうとして、膝から力が抜けた。
「危ない!」セドリックが彼女を支えた。「無理しないで」
「ありがとう…」イリスは彼の腕を借りながら立ち上がった。「でも、急がなきゃ。ヴァルトが…」
その時、洞窟の入口から物音がした。三人は一斉に振り向いた。
「誰…?」
そこに現れたのは、疲労と傷跡で滅茶苦茶になった姿だったが、間違いなくヴァルトだった。
「お嬢様…」彼は息を切らしながら呟いた。「無事で…」
「ヴァルト!」
イリスは思わず駆け寄り、彼の腕に飛び込んだ。彼の体は温かく、そして確かだった。夢ではない。ヴァルトは本当に戻ってきたのだ。
「あなたが…」イリスは震える声で言った。「あなたの声が聞こえた。私が異能に呑まれそうになった時に」
ヴァルトは困惑したように彼女を見下ろした。「私の声…?」
「ええ」イリスは頷いた。「あなたが私に…感情を拒まないでって」
ヴァルトは静かにうなずいた。「私は言葉にはしませんでしたが…確かに、そう思っていました」
「こんな離れた場所でも、私の心に届いたのね」
イリスがそう言うと、ヴァルトの頬が微かに赤く染まった。彼はすぐに咳払いをして平静を取り戻そうとした。
「それより、お嬢様…」ヴァルトの視線が彼女を包み込んでいた紫の光の残り滓に向けられた。「異能が暴走したのですか?」
「ええ、でも今は大丈夫」イリスは小さく微笑んだ。「母が言っていた通りだったわ。感情を受け入れることが鍵だったの」
ヴァルトはほっとしたように息を吐いた。「良かった…」
「あの、すみません」ユナが心配そうに割り込んだ。「でも黒装束の人たちは?」
その質問に、ヴァルトの表情が引き締まった。「一時的に撒きましたが、長くは持ちません。彼らには優秀な追跡術者がいます」
「どうすればいい?」セドリックが尋ねた。
「すぐに移動します」ヴァルトはきっぱりと言った。「私の知人が隠れ家を用意してくれています。そこなら一晩は安全でしょう」
「その知人って…」
「獣人です」ヴァルトは少し警戒するように答えた。
セドリックは少し考えるような素振りを見せたが、すぐに頷いた。「わかった。それが一番安全なようだな」
「では急ぎましょう」ヴァルトが洞窟の入口に向かいかけて、ふと立ち止まった。「お嬢様、大丈夫ですか?歩けますか?」
イリスは自分の体調を確かめるように一歩踏み出した。脚はまだ少し震えていたが、持ちこたえられそうだった。
「大丈夫…だと思うわ」
「無理はなさらないで」ヴァルトは彼女に近づき、躊躇いがちに手を差し出した。「必要なら…」
イリスは微笑み、その手を取った。「ありがとう」
四人は洞窟を出て、再び闇の森へと足を踏み入れた。今度はヴァルトが先導し、彼らは獣道のような細い道を進んでいった。
星明かりが梢の間から覗く夜の森。異常なほど静寂が支配していた。まるで森全体が息を潜めているかのように。
「変ね」イリスがヴァルトに小声で言った。「森の音が…ない」
ヴァルトは眉を顰めた。「気づきましたか…いいセンスです」
「どういう意味?」
「自然が黙り込むのは、危険な存在が近くにいる証拠です」ヴァルトの声が低くなった。「急ぎましょう」
彼らは足早に進んだ。イリスは先ほどの異能の暴走で体力を消耗していたが、それでも必死にヴァルトの後を追った。彼女の中には、もう後戻りはできないという覚悟があった。
(私は選んだのだから)
闇の中、彼らは見えない敵から逃れるように進み続けた。しかし、イリスの心の中には、もう恐れはなかった。先ほどの体験で、彼女は自分の力が制御できることを知った。それが小さな自信になっていた。
「もうすぐです」ヴァルトが囁いた。「あと少し…」
突然、前方の藪が動いた。ヴァルトは瞬時に身構え、イリスを背後に庇った。
「誰だ!」
藪から現れたのは、思いがけない人物だった。
「シルヴィア?!」イリスは驚きの声を上げた。
亜麻色の髪をした女性が、彼らの前に立っていた。いつもの優雅な佇まいとは違い、彼女は旅装束に身を包み、疲れた様子だったが、紛れもなくシルヴィアだった。
「お嬢様!」シルヴィアは安堵の表情を浮かべた。「よかった、無事だったのですね」
「でも、どうして…」
「侯爵様の計画を知り、すぐに後を追いました」シルヴィアは急いで説明した。「私がいなければ、危険だと思って」
「よく私たちを見つけられたわね」
「お母様の遺品のロケットです」シルヴィアはイリスの首元を見た。「追跡の呪いが込められていて…」
イリスは首に手をやり、愕然とした。「ロケットがない…」
「ヴァルトさんに渡したのですか?」
「ええ、でも…」イリスは不安げにヴァルトを見た。「追跡呪い?」
ヴァルトは懐からロケットを取り出した。「だから黒装束たちがすぐに追ってきたのか…」
「おそらく」シルヴィアは頷いた。「でも今は議論している場合ではありません。私が知る隠れ家があります。そこなら呪いから遮断できます」
「どこにある?」セドリックが尋ねた。
「峡谷の向こう、古い水車小屋です」
「信用していいの?」ユナがイリスに小声で尋ねた。
イリスはシルヴィアをじっと見つめた。彼女は母の代わりに自分を育て、ずっと支えてくれた人。でも、この状況では…
「シルヴィア」イリスはまっすぐ彼女の目を見た。「あなたは本当に私を助けるために来たの?それとも…」
「お嬢様」シルヴィアの目に悲しみが浮かんだ。「私はあなたのお母様に誓いました。あなたを守ると。例えそれが侯爵様の意に沿わなくても」
その言葉に偽りはなさそうだった。イリスは小さく頷いた。
「わかったわ。あなたを信じる」
ヴァルトは少し躊躇いを見せたが、結局はイリスの判断に従った。「では、シルヴィア殿の案内で」
彼らは再び歩き始めた。森の木々の間を縫うように進み、小さな峡谷に出た。月明かりが細い渓流を銀色に染めている。
シルヴィアは彼らを水辺に沿って導いた。イリスはヴァルトの腕を借りながら、力を振り絞って歩いた。異能の暴走から立ち直ったとはいえ、疲労は隠せなかった。
(もう少し…)
彼女は自分を奮い立たせた。今はただ、安全な場所にたどり着くことだけを考えなければならない。
そして——これから始まる真の戦いに備えて。
彼らは闇の中を、薄明りの希望に向かって歩き続けた。