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Section8-3:「傷つけたくない」とヴァルトが自らを差し出す

朝靄あさもやが森をまとう頃、彼らはようやく小さな水車小屋に辿り着いた。


「ここなら少しは安全です」シルヴィアは古びた木の扉を開けながら言った。「まずは休みましょう」


イリスは疲労ひろうの極みに達していた。異能の暴走から立ち直ったとはいえ、彼女の心身は限界だった。水車小屋の中は埃っぽく、蜘蛛くもの巣が天井に張り巡らされていたが、今の彼女には天国のように思えた。


「お嬢様、どうぞ」ヴァルトが古い椅子のほこりを払い、イリスを座らせた。


「ありがとう…」彼女はかすれた声で答えた。


セドリックがすぐに火を起こし、ユナが持ってきたとぼしい食料を広げる。小屋の中に小さな生活の場が生まれつつあった。


シルヴィアは窓の外を警戒しながらも、イリスの顔色を心配そうに見ていた。「お嬢様、少し横になったほうが」


「いいえ、まだ…」イリスは弱々しく首を振った。「話さなければならないことがあるわ」


彼女は全員に向き合うように姿勢を正した。そして、母の遺した日記のこと、異能の真実、そして父が彼女を王宮に売り渡そうとしていたことを話し始めた。ロケットに仕掛けられたまじないのことも、彼女が知る限りのことを全て。


「だから、あの黒装束の人たちは王宮の魔法技術院の者たち…」話し終えた彼女の声は疲れ切っていた。


「なんてこった」セドリックはつぶやいた。「よりによって魔法技術院とは。奴らは王国最強の力を持っている」


「だから、私はここに来た」シルヴィアが言った。「このままでは、お嬢様が捕らえられてしまう」


ヴァルトは黙って話を聞いていたが、その目は何かを真剣しんけんに考え込んでいた。


「ヴァルト」イリスが彼に視線を向けた。「あなたはどう思う?」


「私は…」彼は言葉を選ぶように間を置いた。「あなたをどこまでも護衛ごえいします。たとえ王国中が敵になろうとも」


その言葉に、イリスの胸が温かくなった。しかし同時に、ある思いが湧き上がってきた。


(これ以上、皆を巻き込みたくない)


「でも、どこへ行けばいいの?」ユナが不安ふあんそうに尋ねた。「王宮の追手から逃げ続けるなんて…」


「北の国境を越えるのはどうだろう」セドリックが提案した。「そこから隣国へ。異能者に対する扱いは、向こうの方が良いと聞く」


「北の国境は厳重に守られています」シルヴィアが眉をひそめた。「簡単には越えられません」


「それに」ヴァルトがしずかに言葉を継いだ。「問題は追手だけではありません」


全員の視線が彼に集まった。


「どういうこと?」イリスが尋ねた。


ヴァルトはイリスを真摯しんしな表情で見つめた。「お嬢様の異能です。完全に制御できているわけではない」


洞窟での出来事を思い出し、イリスは小さくうなずいた。確かに、彼女はどうにか暴走を食い止めたが、それは一時的なものだったかもしれない。


「それと、このロケット」ヴァルトは懐からイリスの母のロケットを取り出した。「これが追跡のまじないを持つなら、持ち歩くのは危険です」


「でも、それがないと…」イリスの声がふるえた。


「お嬢様の異能を安定させる助けになっている」シルヴィアがおぎなった。「ロケットの中の結晶には、お母様の力の残滓ざんしが宿っているのです」


「難しい選択ですね」セドリックが腕を組んだ。「安全を取るか、安定を取るか」


室内に重い沈黙がりた。イリスは自分の手を見つめた。まだ微かに紫の光が指先にのこっている。洞窟での暴走を抑えられたとはいえ、彼女の力は危うい均衡きんこうを保っているに過ぎなかった。


「ちょっと…水を汲んでくる」ユナが気まずい空気を読んだのか、小さなおけを持って外に出て行った。


「私も周囲を確認してきます」セドリックも立ち上がった。


二人が出て行き、イリス、ヴァルト、シルヴィアの三人が残された。


シルヴィアはイリスとヴァルトを交互に見て、小さく微笑ほほえんだ。「少し外で見張りをしてきます」


彼女もまた小屋を出て行った。その気遣きづかいに、イリスは感謝しながらも少しずかしさを覚えた。


「お嬢様」ヴァルトがしずかに口を開いた。「私に考えがあります」


「何?」


「追手の問題も、異能の問題も、同時に解決する方法です」


イリスは彼に視線を向けた。ヴァルトの顔には、どこか覚悟かくごのようなものが浮かんでいた。


「異能者狩りの間では、あるうわさがあります」彼は慎重に言葉を選んだ。「異能の受容じゅようと言われるものです」


「異能の受容?」


「ええ」ヴァルトは頷いた。「強い生命力を持つ者が、異能者の力の一部をき受けることができるという…」


「それは…」イリスの目が大きく見開かれた。「あなたが私の力を…?」


「獣人である私なら」ヴァルトは真剣な眼差しで続けた。「あなたの異能の一部をけ止められるかもしれません。そうすれば暴走の危険も減り、ロケットなしでも」


「でも、危険すぎる!」イリスは思わず声を上げた。「そんなこと…」


「危険は承知しています」ヴァルトの声はおだやかだった。「しかし、あなたを守るためなら…」


「嫌よ!」イリスは強く首を振った。「あなたが犠牲になることなんて、絶対に許さない」


ヴァルトの顔にかすかな笑みが浮かんだ。「お嬢様らしいご返答です」


「冗談で言ったの?」


「いいえ」彼は真剣な表情に戻った。「本気です。しかし、あなたがそう言うだろうとも思っていました」


イリスはヴァルトの顔をじっと見つめた。彼の琥珀色の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。本当に命を懸けてでも彼女を守る気なのだ。


「ヴァルト…」イリスの声が柔らかくなった。「私のために、どこまでも尽くしてくれるのね」


「それが執事の務めです」


「いいえ」イリスは静かに、しかし強く言った。「あなたは単なる執事じゃない。あなたは…」


言葉が詰まった。彼女の中に湧き上がる感情を、まだ言葉にする勇気がなかった。


「お嬢様…」ヴァルトの声も何かをおさえているようだった。


二人の間にただよう緊張が、言葉以上のものを伝えていた。


突然、外から物音がした。二人は咄嗟とっさに身構えた。


「森の中よ!」シルヴィアの警告の声。


ヴァルトは瞬時に立ち上がり、窓の外を見た。「追手が来たようです」


「ユナとセドリックは?」イリスも立ち上がった。


「小屋の裏にいます」ヴァルトは素早く状況を把握はあくしていた。「まだ見つかってはいないようです」


「どうすれば…」


「ここは私に任せて」ヴァルトは決然けつぜんと言った。「お嬢様は裏口から逃げてください」


「また置いていけって言うの?」イリスの声がふるえた。「絶対に嫌よ」


「お嬢様」ヴァルトが彼女の肩を掴んだ。彼の手は温かく、強かった。「今は私の言うことを聞いてください。必ず後で合流します」


「約束して」イリスは彼の目をまっすぐ見た。「必ず戻ってくると」


「約束します」


しかし、その言葉にはどこかむなしさがにじんでいた。イリスは嫌な予感がしたが、今はそれをり払うしかなかった。


「行って」ヴァルトがき立てるように言った。「シルヴィアと合流してください」


イリスは躊躇ためらいながらも、裏口へと向かった。振り返ると、ヴァルトは既に前の扉へと向かっていた。その背中が妙に頼もしく、そしてはかなく見えた。


彼女が裏口を開けると、シルヴィアとユナがそこで待っていた。


「お嬢様!」ユナが安堵の表情を見せた。


「急いで」シルヴィアは彼女の手を引いた。「セドリック様は見張りをしています」


「でも、ヴァルトは?」


「彼は…」シルヴィアの表情がくもった。「時間を稼いでくれています」


その言葉の意味をさとった瞬間、イリスの胸に恐怖が走った。


「いや…」


彼女は振り返り、小屋に戻ろうとした。しかし、シルヴィアが強く彼女をき止めた。


「駄目です!彼の犠牲ぎせいを無駄にしてはいけません」


「違う!」イリスはさけんだ。「ヴァルトは…あいつは自分をおとりにするつもりよ!」


「何ですって?」


イリスはシルヴィアの手をりほどき、小屋に向かって走り出した。


「お嬢様!」


彼女は誰の声もみみに入れなかった。心臓が爆発ばくはつしそうなほど激しく鼓動こどうしている。頭の中には一つの思いだけがあった。


(ヴァルト、お願い、自分を犠牲にしないで)


小屋に近づくと、するどい光が目に入った。魔法技術院の黒装束たちの魔杖まづえから放たれる術の光だ。中央に立つ一人の男が何かをさけんでいる。


「異能者をせ!さもなくば力ずくでも…」


その時、小屋の扉が開いた。そこに立つのはヴァルトだった。


「私が異能者です」


彼の声は毅然きぜんとしていて、嘘は微塵も感じられなかった。


「ヴァルト…」イリスは木の陰から思わずつぶやいた。


「お前が?」黒装束の男が疑わしげに言った。「証拠は?」


ヴァルトはしずかに手を上げた。そして——イリスの目が見開みひらかれた。彼の手から紫の光があふれ出していた。


「これで十分でしょう」ヴァルトは冷静に言った。


黒装束たちの間に動揺どうようが走った。彼らは互いに顔を見合わせ、そして指揮官しきかんらしき男が前に出た。


「ノクターン家の異能者はお前か…」


「そうです」ヴァルトはきっぱりと言った。「私が探していた者です。他に誰もいません」


「嘘だ!」イリスは思わずさけびそうになった。しかし、彼女の口は誰かにふさがれていた。振り返ると、セドリックがそこにいた。


「静かに」彼はささやいた。「ヴァルトの判断を尊重するんだ」


「でも…」


「彼は自分の意志でやっているんだ」


イリスの目になみだにじんだ。ヴァルトの手から光っているのは、彼が彼女からけ取ったロケットの力に違いない。母の結晶ののこかすを使って、自分が異能者だといつわっているのだ。


「異能の受容…」彼女はつぶやいた。「あの人、本当にやるつもりだったのね」


「何?」セドリックが小声で尋ねた。


イリスは簡潔かんけつに説明した。ヴァルトが彼女の異能の一部を受け取ろうとしていたこと、そしてロケットを使って自分が異能者だといつわろうとしていることを。


「なんてことだ…」セドリックの表情がわった。「彼はそこまでする覚悟だったのか」


「私には言わなかった」イリスの声がふるえた。「きっと反対すると知っていたから」


二人がささやいている間に、ヴァルトは黒装束たちにかこまれていた。


「ラヴェンデル男爵閣下がお前のことを知りたがっておられる」指揮官が言った。「大人しく我々に従え」


「異能者と認めるのですね」ヴァルトは冷静に言った。「では条件があります」


「条件だと?」男があざけるように笑った。「お前には交渉の余地などない」


「ロシュフォール家の別荘にいた人々には何もしないこと」ヴァルトは毅然きぜんと言った。「彼らは何も知りません。ただの貴族きぞくの婚約者と使用人たちです」


黒装束たちはいぶかしげに見えた。指揮官が部下と何か相談そうだんしている。


「あいつら、信じたの?」セドリックが小声で言った。


イリスはただ祈るような気持ちで見守っていた。ヴァルトの計略けいりゃくが成功してほしい。だが同時に、彼を連れて行かれることへの恐怖きょうふが彼女の中でふくれ上がっていた。


「わかった」指揮官が最終的に言った。「お前だけを連れて行く。他の者たちには手出しはしない」


「約束ですよ」ヴァルトが念を押した。


「無駄口を叩くな」男がヴァルトの腕をつかみ、まじないのくさりのようなものを彼の手首に巻きつけた。「行くぞ」


イリスは身悶みもだえした。今すぐにでも飛び出して「私が異能者よ!」とさけびたかった。しかし、それではヴァルトの犠牲ぎせいが無駄になる。


「ヴァルト…」彼女は木の陰からつぶやいた。


その時、ヴァルトがわずかにり向いた。まるで彼女の声を聞いたかのように。そして、彼の目がイリスがいる方向にほんの一瞬向けられた。


「大丈夫です」彼の唇がうごいた。声は聞こえなかったが、イリスにはみ取れた。「あなたをきずつけたくないから」


その瞬間、イリスの胸が千々ちぢくだけるような痛みにおそわれた。


(あなたを失うことこそ、最大の痛みなのに)


黒装束たちはヴァルトを連行れんこうし始めた。彼は抵抗ていこうせず、ただしずかに彼らに従っていく。その背中が徐々に遠ざかっていくのを、イリスはただ茫然ぼうぜんと見つめていた。


「もう行ったよ」セドリックが静かに言った。


イリスのほおあつなみだつたった。彼女の指先から紫の光がれ始めていた。感情のたかまりで、再び異能が目覚めざめそうになっている。


「イリス、気をつけて」セドリックが彼女の手を取った。「ヴァルトのためにも、冷静に」


その言葉に、イリスは深く息をいた。彼女は母の教えを思い出した。感情をおさえ込むのではなく、け入れること。彼女はなみだぬぐわずに、その感情をありのままにかんじた。


悲しみ、怒り、そして何より…愛。


「ヴァルト…」彼女はしずかにつぶやいた。「必ず助けに行くから」


光はおさまり、代わりに彼女の中につよい決意が芽生めばえた。もうげるだけではない。自分の力と向き合い、そしてヴァルトを取り戻すために戦うのだ。


「セドリック」イリスは涙をぬぐった。「助けてくれる?」


「もちろんだ」彼はうなずいた。「友として、あなたとヴァルトを助ける」


二人は森の中へと戻った。シルヴィアとユナが不安ふあんげに待っていた。


「何があったの?」ユナがびつくように尋ねた。


「ヴァルトが…自分を異能者だといつわって連れて行かれた」イリスはできるだけ冷静れいせいに説明した。


「なんですって!」シルヴィアが驚愕きょうがくの表情を浮かべた。


「彼は私を守るために、自分をし出したのよ」イリスは続けた。「でも、私は彼を見捨てない」


「でも、どうやって?」ユナが尋ねた。「あの黒装束たち、怖いですよ」


「母の日記には、異能の真髄しんずいについて書かれていた」イリスはしずかに言った。「そして私は、少しずつ理解し始めている」


彼女は自分の手を見つめた。もう光はなく、普通の少女の手だった。しかし、その中にねむる力は確かに存在していた。


「私の力の本質ほんしつは『愛』だって、母は書いていた」イリスは続けた。「感情を形にする力。そして今、私の中にあふれる感情は…」


彼女は顔を上げ、皆をまっすぐ見つめた。


「ヴァルトを救うというおもいだけよ」


「お嬢様…」シルヴィアの目になみだかんだ。


「どうすればいいか、考えましょう」セドリックが言った。「まずは安全な場所に移動して、計画を立てるんだ」


イリスは頷いた。彼女の心にともったほのおは、もう消えることはなかった。


(待っていて、ヴァルト)


彼女は心の中でちかった。かつて人形だった少女が、今、自らの意思でうごき始めていた。そして、その力の源は、彼女が初めて心から大切に思う人への感情だった。


「行きましょう」イリスはきっぱりと言った。「ヴァルトを取り戻すために」


四人はやみの森をけ、新たなみちさがすために歩き始めた。イリスの心には、もうまよいはなかった。

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