《????》
「あれ……?」
――そこは、どこにでもある、小さな居酒屋だった。
仕事帰りのサラリーマンたちが賑やかに酒を酌み交わす中、二人用の小さなテーブルに、桂
「たしか……僕は……ボク? ……なんか、変だな」
自分の口から出た一人称に、かすかな違和感が走る。
それが何なのか思い出そうとしたそのとき――
『失礼します。ご注文の日本酒、熱燗二合になります』
「あ……はい」
金髪に青い瞳、異国の血を引いているのか、見惚れるほど綺麗で可愛い女性店員が、お酒の入った徳利とお猪口を静かに置いていった。
「ありがとうございます」
『はい♪ では、ごゆっくり』
軽やかな笑顔とともに、彼女は奥へと姿を消していく。
(……外人さん、かな? 不思議だ。あんなに綺麗な顔立ちの人には、いつも無意識に反発を感じるのに。嫌悪感がまったくない……)
胸の奥に、小さな違和が残る。
けれどそのまま、お猪口に酒を注ごうとした、そのとき――
「……兄さん?」
不意に、すぐ傍から声がした。
「――あれ? ヒロ?」
タダシの弟、ヒロユキが、いつの間にか席の横に立っていた。
「…………」
「…………」
しばし、無言で見つめ合う。
どこか、引っ掛かる。
どこか、妙だ。
けれど、それが何かは言葉にならなかった。
「ま、いいや。座んなよ」
「……う、うん」
促されるまま、ヒロユキは向かいの席に腰を下ろす。
「何か飲むか?」
「……お酒は、いらない」
「つれないなぁ。すいませーん」
店員を呼ぶと、今度は普通の大学生くらいの、地味な男の子がやってきた。
先ほどの金髪の女性ではなかったことに、タダシは少しだけ落胆する。
「コーラひとつ。氷は少なめで」
そして、再び沈黙が落ちる――。
「……兄さん」
ヒロユキが、タダシの手元にある日本酒の徳利に目を留めると、静かに手を伸ばした。
「お、ありがと」
トクトクトク……
お猪口の縁ぎりぎりまで、丁寧に注がれる日本酒。
「お先に失礼するぜ」
タダシは勢いよく、それを一気に飲み干す。
「くぁーっ、うまいっ!」
「……フフッ」
ほどなくして、店員がヒロユキの頼んだコーラを持ってきた。
「お、乾杯するのに俺のお猪口が空だなあ?」
「……はいはい」
「ひゅー、気が利くぅ」
再び注がれる酒――ささやかなやりとりの中に、兄弟だけの時間が流れる。
「それじゃ、とりあえず……乾杯!」
「……乾杯」
カチン、と音が鳴る。
タダシは酒を飲み干し、ヒロユキは静かにコーラのジョッキに口をつけ、半分ほどを喉に流し込む。
「いやぁ……やっぱ酒っていいね。心が晴れやかになる」
「……ならない」
「ま、お前は酒弱いしな。ハッハッハ!」
「……」
ふと、タダシはヒロユキの顔をじっと見つめる。
「……浮かない顔してるな。なんか、あったか?」
「……!?」
ヒロユキの表情はほとんど変わっていない。
けれど――兄として、長く一緒に過ごしてきたからこそ気づける、ほんのわずかな違和感。
「……いや、なんでも……」
「バッカおめぇ。『なんでもないこと』を話すのが兄弟だろ。で、本当に何でもなかったら、俺が笑い飛ばしてやるんだよ。言ってみ? ハッハッハ!」
――もう、違和感なんて、どこにもなかった。
ただ懐かしい空気だけがあって。
ただ、兄弟で酒を交わす、あたたかい時間が流れていた。
「……おかしなこと言うかもだけどさ」
「おう?」
「……死んだ夢を見たんだ」
「ほーう?死んだ夢? 俺もあるぞ? 崖から落ちたり、エイリアンに頭ぶち抜かれたりとか」
「……それがね、なんか……すごくリアルでさ。一瞬で、何かに――潰された」
「ふーん、そりゃ大変だな」
「……うん」
間を置いて、タダシは笑いながら続けた。
「でもさ、夢で死んでも、今ヒロはこうして生きてるじゃん?」
「……そう、だけど」
「なら良いじゃねーか。現実で死んでねぇんなら」
「……うん……現実……」
ヒロユキの目が見開かれる。
「……現実……?」
「どした?」
「……現実っ!!」
「うぉっ!?」
椅子をガタッと引いて立ち上がると、ヒロユキは震える声で言葉を漏らす。
「……兄さん……!」
「お、おう? 兄さんだぞ?」
「……兄さん……兄さん兄さん……!」
「うぇえ!? な、なんだよ急に!」
次の瞬間、ヒロユキの目から涙が零れ落ちた。
ざわっ……
店内の視線が、一斉にこちらへ向く。
「お、おまっ……飲みすぎだって! ハハハ……」
タダシは咄嗟に笑ってごまかしながら、目線で「座れって!」と訴える。
けれど――
「……兄さんっ!」
そのままヒロユキは、タダシにしがみつくように抱きついてきた。
「……兄さん……兄さん……」
「あ、はは……マジでどうしたよ、ヒロ……?」
ヒロユキはしばらくのあいだ、肩を震わせながら泣いていた。
タダシは何も言わず、その小さな背中に手を添えていた。
「……ありがとう、兄さん」
「お、おう……落ち着いたか?」
「……ああ」
「まったく、お前……どうしたってんだよ」
「……少しだけね……兄さん」
「ん?」
「……俺は、まだ――死ねない」
「お、おう……なんかアニメの主人公みたいなセリフだな」
「……うん」
そう言って、ヒロユキは小さく笑った。
その時だった。
会計を終えた他の客を見送りながら、さっきの金髪の女性店員がふと【手鏡】を取り出し、自分の顔を確認していた。
何気なく――ごく自然に、タダシの口から言葉がこぼれる。
「アニメと言えば……鏡の中に魂を吸い込む敵とか、あったよな。霊が宿るとか、昔から言うじゃん?」
「…………」
「……だからさ、俺、子供の頃から鏡がちょっと怖くてさ……」
「…………それだ!」
「へ?」
「……兄さん、それだよ!」
「お、おう……なんかスッキリしたなら良かった。じゃあ、まだ酒もあるし飲み直――」
「……ごめん。もう、ここにはいられない」
「そっか。じゃあ俺も会計するかな。すいませーん、お会計お願いしまーす!」
『はーい♪』
金髪の店員が笑顔でやってくる。
その姿を見た瞬間、ヒロユキの目が見開かれる。
「(……あれ、やっぱ見惚れたか。あれは惚れるよなぁ。テレビに出てもおかしくないくらい――)」
だが、次の瞬間。
「……アオイ!」
『キャッ♪』
「えっ?お知り合いですか?」
ヒロユキは、金髪の女性――アオイの肩をがしっと掴む。
「……アオイ! 俺は、まだ――生きてる!」
「店員さんに夢の話してどうするんだよ……本当にどうしたヒロ! すみませんね、こいつ酔ってて……」
『いえいえ、構いません♪』
店員――アオイは、微笑んだまま、タダシに顔を向ける。
その笑顔を崩さぬまま、ゆっくりと口を開いた。
『……むしろ、あなたの方が――早く目を覚ましてください』
「…………え?」
気づけば、店の中に人の気配は一切なかった。
酒の香りも、喧騒も、何もかも――霧のように、消えていた。
そして、目の前に残っていたのは。
先ほどまで「ヒロユキに肩を掴まれていた」はずの――
【自分自身』だった。