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第396話 どちらが現実

 《????》



 「あれ……?」



 ――そこは、どこにでもある、小さな居酒屋だった。


 仕事帰りのサラリーマンたちが賑やかに酒を酌み交わす中、二人用の小さなテーブルに、桂 カツラ タダシはぽつんと座っていた。



 「たしか……僕は……ボク? ……なんか、変だな」



 自分の口から出た一人称に、かすかな違和感が走る。

 それが何なのか思い出そうとしたそのとき――



 『失礼します。ご注文の日本酒、熱燗二合になります』



 「あ……はい」



 金髪に青い瞳、異国の血を引いているのか、見惚れるほど綺麗で可愛い女性店員が、お酒の入った徳利とお猪口を静かに置いていった。



 「ありがとうございます」



 『はい♪ では、ごゆっくり』



 軽やかな笑顔とともに、彼女は奥へと姿を消していく。



 (……外人さん、かな? 不思議だ。あんなに綺麗な顔立ちの人には、いつも無意識に反発を感じるのに。嫌悪感がまったくない……)



 胸の奥に、小さな違和が残る。

 けれどそのまま、お猪口に酒を注ごうとした、そのとき――



 「……兄さん?」



 不意に、すぐ傍から声がした。



 「――あれ? ヒロ?」



 タダシの弟、ヒロユキが、いつの間にか席の横に立っていた。



 「…………」


 「…………」



 しばし、無言で見つめ合う。


 どこか、引っ掛かる。

 どこか、妙だ。

 けれど、それが何かは言葉にならなかった。



 「ま、いいや。座んなよ」


 「……う、うん」



 促されるまま、ヒロユキは向かいの席に腰を下ろす。



 「何か飲むか?」


 「……お酒は、いらない」


 「つれないなぁ。すいませーん」



 店員を呼ぶと、今度は普通の大学生くらいの、地味な男の子がやってきた。

 先ほどの金髪の女性ではなかったことに、タダシは少しだけ落胆する。



 「コーラひとつ。氷は少なめで」


 そして、再び沈黙が落ちる――。


 「……兄さん」



 ヒロユキが、タダシの手元にある日本酒の徳利に目を留めると、静かに手を伸ばした。



 「お、ありがと」



 トクトクトク……

 お猪口の縁ぎりぎりまで、丁寧に注がれる日本酒。



 「お先に失礼するぜ」



 タダシは勢いよく、それを一気に飲み干す。



 「くぁーっ、うまいっ!」



 「……フフッ」



 ほどなくして、店員がヒロユキの頼んだコーラを持ってきた。



 「お、乾杯するのに俺のお猪口が空だなあ?」


 「……はいはい」


 「ひゅー、気が利くぅ」



 再び注がれる酒――ささやかなやりとりの中に、兄弟だけの時間が流れる。



 「それじゃ、とりあえず……乾杯!」


 「……乾杯」



 カチン、と音が鳴る。


 タダシは酒を飲み干し、ヒロユキは静かにコーラのジョッキに口をつけ、半分ほどを喉に流し込む。



 「いやぁ……やっぱ酒っていいね。心が晴れやかになる」


 「……ならない」


 「ま、お前は酒弱いしな。ハッハッハ!」



 「……」



 ふと、タダシはヒロユキの顔をじっと見つめる。


 「……浮かない顔してるな。なんか、あったか?」


 「……!?」



 ヒロユキの表情はほとんど変わっていない。

 けれど――兄として、長く一緒に過ごしてきたからこそ気づける、ほんのわずかな違和感。



 「……いや、なんでも……」



 「バッカおめぇ。『なんでもないこと』を話すのが兄弟だろ。で、本当に何でもなかったら、俺が笑い飛ばしてやるんだよ。言ってみ? ハッハッハ!」



 ――もう、違和感なんて、どこにもなかった。


 ただ懐かしい空気だけがあって。

 ただ、兄弟で酒を交わす、あたたかい時間が流れていた。


 「……おかしなこと言うかもだけどさ」


 「おう?」


 「……死んだ夢を見たんだ」


 「ほーう?死んだ夢? 俺もあるぞ? 崖から落ちたり、エイリアンに頭ぶち抜かれたりとか」


 「……それがね、なんか……すごくリアルでさ。一瞬で、何かに――潰された」


 「ふーん、そりゃ大変だな」


 「……うん」



 間を置いて、タダシは笑いながら続けた。


 「でもさ、夢で死んでも、今ヒロはこうして生きてるじゃん?」


 「……そう、だけど」


 「なら良いじゃねーか。現実で死んでねぇんなら」


 「……うん……現実……」



 ヒロユキの目が見開かれる。


 「……現実……?」


 「どした?」


 「……現実っ!!」


 「うぉっ!?」



 椅子をガタッと引いて立ち上がると、ヒロユキは震える声で言葉を漏らす。


 「……兄さん……!」


 「お、おう? 兄さんだぞ?」


 「……兄さん……兄さん兄さん……!」


 「うぇえ!? な、なんだよ急に!」



 次の瞬間、ヒロユキの目から涙が零れ落ちた。


 ざわっ……


 店内の視線が、一斉にこちらへ向く。



 「お、おまっ……飲みすぎだって! ハハハ……」



 タダシは咄嗟に笑ってごまかしながら、目線で「座れって!」と訴える。

 けれど――



 「……兄さんっ!」



 そのままヒロユキは、タダシにしがみつくように抱きついてきた。


 「……兄さん……兄さん……」


 「あ、はは……マジでどうしたよ、ヒロ……?」



 ヒロユキはしばらくのあいだ、肩を震わせながら泣いていた。

 タダシは何も言わず、その小さな背中に手を添えていた。



 「……ありがとう、兄さん」


 「お、おう……落ち着いたか?」


 「……ああ」


 「まったく、お前……どうしたってんだよ」


 「……少しだけね……兄さん」


 「ん?」


 「……俺は、まだ――死ねない」


 「お、おう……なんかアニメの主人公みたいなセリフだな」


 「……うん」



 そう言って、ヒロユキは小さく笑った。



 その時だった。


 会計を終えた他の客を見送りながら、さっきの金髪の女性店員がふと【手鏡】を取り出し、自分の顔を確認していた。

 何気なく――ごく自然に、タダシの口から言葉がこぼれる。



 「アニメと言えば……鏡の中に魂を吸い込む敵とか、あったよな。霊が宿るとか、昔から言うじゃん?」


 「…………」


 「……だからさ、俺、子供の頃から鏡がちょっと怖くてさ……」


 「…………それだ!」


 「へ?」


 「……兄さん、それだよ!」


 「お、おう……なんかスッキリしたなら良かった。じゃあ、まだ酒もあるし飲み直――」


 「……ごめん。もう、ここにはいられない」


 「そっか。じゃあ俺も会計するかな。すいませーん、お会計お願いしまーす!」


 『はーい♪』



 金髪の店員が笑顔でやってくる。



 その姿を見た瞬間、ヒロユキの目が見開かれる。


 「(……あれ、やっぱ見惚れたか。あれは惚れるよなぁ。テレビに出てもおかしくないくらい――)」



 だが、次の瞬間。



 「……アオイ!」


 『キャッ♪』



 「えっ?お知り合いですか?」



 ヒロユキは、金髪の女性――アオイの肩をがしっと掴む。


 「……アオイ! 俺は、まだ――生きてる!」



 「店員さんに夢の話してどうするんだよ……本当にどうしたヒロ! すみませんね、こいつ酔ってて……」


 『いえいえ、構いません♪』



 店員――アオイは、微笑んだまま、タダシに顔を向ける。



 その笑顔を崩さぬまま、ゆっくりと口を開いた。




 『……むしろ、あなたの方が――早く目を覚ましてください』


 「…………え?」



 気づけば、店の中に人の気配は一切なかった。


 酒の香りも、喧騒も、何もかも――霧のように、消えていた。



 そして、目の前に残っていたのは。



 先ほどまで「ヒロユキに肩を掴まれていた」はずの――


 【自分自身』だった。


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