私はそこに独りで立っていた。
何を見るわけでも、何を聴くわけでもなく、ただそこに立っている。何かを感じ取ってしまうことを恐れて、私は目を伏せた。
視界には足と地面。
草が鮮やかな緑色なのも少し湿った土の匂いも、心を乱す嫌なものでしかない。何もかも拒んでしまっている私は、人間というより人間そっくりに作られた人形なのかもしれない。
けれど、そんな空虚な抜け殻、それが私なのだ。
どのくらいの時間そうしていたのか。
明るいということは、まだ日が暮れていないようだ。
帰ろう。
どこに。
どこに。
どこに。
その時、ふわりと桜色の風が私の頬を優しく撫でた。
瞬間、びくりと私の中の人間が目を覚ました。
──ああ、もう。この季節がやってきたのか。
指先が冷たくなるのが分かる。頼りなく震える両腕を抱え込み、体をくの字に折り曲げる。
嫌だ。私は何も感じたくはないのだ。もう傷つきたくはないのだ。けれど、どんなに現実を拒否していても、脳裏に焼き付いた光景は消せはしない。
これは何だ。この風は何だ。
強く拒めば拒むほど、より鮮明になる景色。
これは現実なのか、夢なのか。
辺り一面を染める桜の色。そっと視線をあげると、少しばかり離れた樹の陰には貴方が立っている。そして、強く輝く太陽のような金色の髪をなびかせているのだ。
それから、ゆっくりと振り向いて以前と変わらぬ悪戯っぽい笑みをなげかける。
金色の髪が翻った。
何故、背を向けるんだ。
何故、いなくなってしまうんだ。
──行くな、クリス。私を、私を置いていかないでくれ!
独りに、しないでくれ。
全身全霊力の限り叫んでも声にはならず、どんなに必死に走っても近づくことは出来ない。貴方の姿が次第に遠のいていく。
もう一度こちらを見て欲しい。
その声を聞かせて欲しい。
眩い一筋の陽光は桜の霞に滲んで消えた。
私は虚しく立ち尽くす。
既視感。私はこんなことを何回繰り返しているのだろう。
貴方はいつだって立ち止まることも振り返ることもせずに、私の前からいなくなってしまうのだ。
伸ばした手は虚しく宙を彷徨い、名前を呼ぶことすらかなわない。胸は鋭く見えない何かに貫かれたように痛み、苦しみに呼吸は増していく。激しくなった鼓動は鳴り止まずに、頭蓋骨を震わせる。
視界が回り、霞み、暗くなっては明るくなるのを繰り返す。これは呼吸が乱れたことによる目眩の所為なのか。それとも、止めどなく頬を伝う涙の所為なのか。
私はその場にがくりと膝をつく。
天上の貴方は幾度となくこうして私の前に姿を現しているが、一度だって手を差し伸べてくれたことはない。私を貴方の元へと導いてはくれない。私は貴方のそばに行きたいのに。生きることなどいつでも投げ出せるのに。
──これが、貴方が私に下した罰なのか。
生きろ、と。貴方を見殺しにした罪を背負ったまま生きていけと。それだけ重い罪なのだと、そういうことなのか。私は罪人だ。
もしも、私の願いが天に届くなら貴方に会いたいと願う。もう一度だけ、貴方に会いたい。
謝罪してすがって罪を消そうというのではない。
私はあの時貴方が微笑みかけてくれたにも拘わらず、何一つ言葉を紡げなかった。何を伝えるべきなのかは未だに分からないけれど、会っておかないといけない気がするのだ。
貴方は嫌だろう。
恨んでいるだろうか。恨んでないわけがないか。私なんかをパートナーにしたことを心底悔やんでいることだろう。
溢れ続ける涙を拭うと、暗闇の中にいた。
漆黒の闇の中にうっすらと光を放つ桜の花びらが、流れ落ちる涙の如くはらはらと悲しげに舞っている。
貴方の大好きだった花が散っている。
花の命は儚いというが、貴方の命はそれ以上に儚く、淋しく散ってしまった。散りゆくものは美しいなどと、一体どこの誰が言ったのだろうか。綺麗で明るい貴方の散りゆく瞬間は、少しも美しくなかった。
ただただ、脆くてあっけない最期だった。
『弟を、ユーリを頼む。それ、から』
それから、何と言いたかったのか。
最期に残した微笑みの意味は。
分からない。
貴方の最期の微笑みの意味も、言葉の続きも、永遠に封印されたまま。