森の中は静かだった。
アイラクシネン村付近の春の森を進んでいく。
この森では半年くらい前から何人もの人が亡くなっているという。その原因は恐らく魔なのだろう。魔が人を喰らっているのだ。
だが、森の恵みこそがアイラクシネンの生計を支えているのが現実である。村人たちは頭を抱えていた。森に入れば命の危険があり、森に入らなければ生活が成り立たない。
生きるためには魔をどうにかしなければ。
そんな声を聞いた私は相棒のユーリを連れて、魔を退治するために森へ行くことにした。だが、村長は行くなというのだ。無駄に命を散らすことはないと。どうせ、魔を倒せやしないのだからとも言った。
どうしても行くというのなら止めないが、森の中は複雑で慣れない者が入っては迷うだけだ。村長はそう言って背を向けた。
そこで、私は森に詳しいという青年エーミルに道案内を依頼した。魔を放って置くわけにはいかない。
こうして私たちは若葉の森に足を踏み入れたのだ。
それが今からしばらく前のことである。
エーミルは年の頃は二十代半ばと私と同じくらいで、茶色の髪を後で束ねた背の高い男だった。彼は私たちをわざわざ危険な森へ行く変わり者と思っているようだ。
ユーリを連れて行くことについては反対している。子どもの行くところではないと。だが、私が連れていくと言い張ったので、渋々同行を認めてくれた。
「あんた。えっと、名前なんだっけ。こんな危険なところに子どもを連れてくるなんて正気か?」
「名はアルベルトです。ユーリは子どもではありますが、私の大切な相棒なんですよ」
「ふーん。こっちだ」
大木と大木の間をすり抜けて森の奥へと向かう。
エーミルに子ども扱いされたユーリはご機嫌斜めである。口を真一文字に結んで空色の瞳を伏せ、木洩れ日よりも輝く金色の髪を右手で弄ぶ。
確かに、十二歳といえばまだ子どもだが、色々と有能な相棒なのだ。連れてきているというよりは、ついてきてもらっているという方が正しい。が、そう言っても理解はされなかった。
木々の間から幾筋もの光が射し込み、足元は結構明るい。景色は穏やかだけれど、森の住人である動物たちは姿が見えないし、鳥の鳴き声も聞こえない。魔の気配を感じて隠れてしまっているのだろう。
奥へ進んでいくにつれて少しずつ魔の気配が感じられるようになってきた。確実に、いる。
「アルベルトさあ、魔を退治出来るっていうなら、魔のことにも詳しいんだろ?」
「別段詳しくはないですよ。一般常識としていわれていること以外のことは殆ど知りません」
「魔って何なんだろうな」
「どうでしょうね。それが分かっていたらもう少し対処のしようがあるかもしれませんが」
魔とは一体何なのか。
それは幼い頃からずっと自分に問うて来たことだ。
分かっている人がいるなら教えて欲しい。
私が知っているのは皆がよく知っている内容だ。
異空間に住んでいること、空間の歪みから顔を出しては人間を喰らうこと。空間の歪みから漏れる空気は人を惑わせ、魂を殺すこと。魔を完全に殺すには特殊な杖の力を使う以外にないこと。
国立図書館に行っても、得られる知識はその程度だった。要するに、誰も魔のことについて詳しくは知らないのだ。
魔への的確な対処方法を知っていれば、あんなことにはならなかった。あの人を失うことはなかったはずだ。私にもう少し知識と力があったなら。
「アル、大丈夫?」
「ああ、ユーリ。大丈夫だよ」
「何やってるんだ。こっちだ。もうすぐ、人が死んだところに出る。俺は危ないと思ったら逃げるから、後は二人で頑張ってくれ。まだ死にたくはないんでな」
「そうしてくれると助かります」
魔と戦う際にエーミルは確実に足手まといになる。逃げてくれた方がこちらとしてもやりやすいし、何よりエーミル自身のためだ。
やがて、人が亡くなっていたという辺りまで来た。魔の気配があまりしない。けれど、空間の歪みは感じられる。どこかで息を殺して私たちのことを見ているのだろうか。
周囲に気を配りながら進んでいくと、少しだけくらっと目眩がした。これは空間の歪みの空気だ。私はある程度耐性があるから大したことはないが、ユーリやエーミルは幻に包まれているのではないだろうか。
「ユーリ、大丈夫かい。私の声は聞こえているかい?」
「うん、僕はまだ大丈夫。エーミルさんはダメだよ、幻に包まれているみたいで目が虚ろ」
「エーミル、大丈夫ですか」
「返事がないよ。取り敢えず、そこに座らせておくね」
急に幻が襲ってくるとは。
これで戦いにくくなってしまった。
ユーリ一人の力では体の大きいエーミルを一人で連れて戻ることは出来ない。安全なところまで私が連れていくということも考えたが、魔は恐らく私たちを狙っている。魔の力が届かないところまで移動する前に襲われてしまう。
このまま戦う以外になさそうだ。
しんと静まった森の温度が一気に下がる。吐く息が白くなるのではないかと思うほどに、凍てつく空気。
その時。
閃光が走った。
狙いはエーミル。振り向くと、攻撃はユーリがシールドで防いでいた。こういう時、魔法の使えるユーリがいてくれると助かる。だが、閃光は何度も打ち込まれる。
「ユーリ!」
「僕は大丈夫。エーミルさんを守るから、早く杖を!」
私は左手を天へ伸ばし、祈る。すると、森全体を包むような光が舞い降りてくる。私の背丈よりも少し長い白銀の杖。これが月光の杖だ。世界でも僅かな人数しか持っていないといわれている、魔を倒す杖。
『何、月光の杖だと!』
エーミルへの攻撃が一旦止み、その攻撃対象は私へと変わった。
まずい。この杖は防御向きには出来ていない。
それでも、このくらいならば攻撃をそらすことは可能。光の矢が私の肩のそばや足元を突き抜けていく。
『死ね。次は外さない』
魔が閃光を放つのと、私が杖で地面をつくのはほぼ同時だった。
魔の放った閃光が空にそれる。
次の瞬間、杖から溢れた光の洪水が魔と私たちをのみこんだ。真っ白な光の中で、魔が音もなく塵になると同時に空間の歪みも消え去る。
これで、この森は元の平和を取り戻したのだ。
光の中でエーミルは正気を取り戻した。幻を見ていたせいか、少しぼうっとしているようだ。ゆっくり立ち上がると、不思議そうに辺りを見回した。
ユーリにもエーミルにも怪我はなく、私はほっと胸をなで下ろす。
やがて、光の消えた森には鳥たちのさえずりが響いていた。