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第57話「海の記憶に、蒼き夢を」

〜人魚とブルー・ラグーン〜


 扉が開いた。


 次の瞬間、店内の空気が一変する。

 ——どこか塩の香りと潮騒の気配が満ちた。


 カウンターに現れたのは、しっとりと濡れた外套を羽織った女性。

 その髪は海藻のように滑らかに流れ、

 瞳は深海を映すような蒼だった。


 だが、彼女の足元にはわずかに水たまりが残っていた。


 ——人魚、か。


 彼女は静かに腰を下ろし、

 ほんの少し微笑むと、まるで波のように柔らかい声で言った。


 「……“海を思い出す酒”を、お願い」


 俺は頷き、棚からボトルを取り出す。


 「ブルー・ラグーン——海の夢を映した一杯だ」


 シェイカーにウォッカ、ブルーキュラソー、レモンジュースを注ぎ、

 氷を加えて軽やかにシェイク。


 ——シャカシャカ、シャカシャカ。


 冷えたカクテルグラスに注がれたその液体は、

 深海の底から光が差し込んだような鮮やかな青。


 「どうぞ」


 人魚はグラスをそっと手に取り、

 まるで波紋を避けるように口をつけた。


 「……ん、これは……“浅瀬の夢”のような味」


 ブルーキュラソーの柑橘の香り、

 レモンの爽やかな酸味、

 そしてウォッカの透明な芯。


 そのすべてが、どこか切なくも美しい”海の記憶”を思わせる。


 「……地上の空には星があるけれど、

  海の底には……声が沈んでいるの」


 俺は静かにグラスを拭きながら問う。


 「それでも、陸に来る理由があったのか?」


 彼女は小さく笑い、

 グラスの青を見つめる。


 「……忘れたくなかったの。あの人の瞳と、この色が同じだったから」


 そして、静かに最後の一滴を飲み干した。


 「……潮が満ちたら、私は帰らなきゃ」


 懐から真珠がひとつ入った小瓶を取り出し、カウンターにそっと置く。


 「これが”お礼”。たった一夜の夢に値するなら」


 俺はそれを手に取り、微かに笑った。


 「また来るか?」


 彼女は立ち上がり、

 滴る水を残しながら言う。


 「……いつか波が、またこの扉を押す夜に」


 扉が開く。


 水音と共に、

 彼女の姿は潮騒の記憶と共に消えていった。


 ——今夜もまた、一人の”海の民”に、蒼き夢を届けた。

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