〜人魚とブルー・ラグーン〜
扉が開いた。
次の瞬間、店内の空気が一変する。
——どこか塩の香りと潮騒の気配が満ちた。
カウンターに現れたのは、しっとりと濡れた外套を羽織った女性。
その髪は海藻のように滑らかに流れ、
瞳は深海を映すような蒼だった。
だが、彼女の足元にはわずかに水たまりが残っていた。
——人魚、か。
彼女は静かに腰を下ろし、
ほんの少し微笑むと、まるで波のように柔らかい声で言った。
「……“海を思い出す酒”を、お願い」
俺は頷き、棚からボトルを取り出す。
「ブルー・ラグーン——海の夢を映した一杯だ」
シェイカーにウォッカ、ブルーキュラソー、レモンジュースを注ぎ、
氷を加えて軽やかにシェイク。
——シャカシャカ、シャカシャカ。
冷えたカクテルグラスに注がれたその液体は、
深海の底から光が差し込んだような鮮やかな青。
「どうぞ」
人魚はグラスをそっと手に取り、
まるで波紋を避けるように口をつけた。
「……ん、これは……“浅瀬の夢”のような味」
ブルーキュラソーの柑橘の香り、
レモンの爽やかな酸味、
そしてウォッカの透明な芯。
そのすべてが、どこか切なくも美しい”海の記憶”を思わせる。
「……地上の空には星があるけれど、
海の底には……声が沈んでいるの」
俺は静かにグラスを拭きながら問う。
「それでも、陸に来る理由があったのか?」
彼女は小さく笑い、
グラスの青を見つめる。
「……忘れたくなかったの。あの人の瞳と、この色が同じだったから」
そして、静かに最後の一滴を飲み干した。
「……潮が満ちたら、私は帰らなきゃ」
懐から真珠がひとつ入った小瓶を取り出し、カウンターにそっと置く。
「これが”お礼”。たった一夜の夢に値するなら」
俺はそれを手に取り、微かに笑った。
「また来るか?」
彼女は立ち上がり、
滴る水を残しながら言う。
「……いつか波が、またこの扉を押す夜に」
扉が開く。
水音と共に、
彼女の姿は潮騒の記憶と共に消えていった。
——今夜もまた、一人の”海の民”に、蒼き夢を届けた。