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第56話「歌に生きる者に、甘く切ない一杯を」

〜吟遊詩人とビトウィーン・ザ・シーツ〜


 扉が開いた。


 続いて入ってきたのは、ひとつのメロディーだった。

 それは口笛か、あるいは鼻歌か。

 けれど、それだけで空気がほんの少し軽くなる。


 カウンターに腰を下ろしたのは、一人の吟遊詩人。

 肩から下げたリュート、

 マントの裾には旅の埃。

 だが、その瞳には”物語を編む者”の輝きがあった。


 彼はにっこりと笑い、こう言った。


 「マスター、“恋の味がする酒”をお願いしたい」


 俺はその言葉に頷き、棚からボトルを取り出す。


 「ビトウィーン・ザ・シーツ——甘く、そして危うい一杯だ」


 シェイカーにブランデー、ホワイトラム、コアントロー、レモンジュースを注ぐ。

 氷を加え、軽やかにシェイク。


 ——シャカシャカ、シャカシャカ。


 冷えたカクテルグラスに注げば、

 淡い金色の液体が、まるで黄昏時の恋のように揺れる。


 「どうぞ」


 吟遊詩人はグラスを掲げ、

 まるで劇場の幕が上がるような仕草で微笑む。


 「……さぁ、恋の幕開けだ」


 そして、一口。


 「……ん、これは……まさに”始まりと終わりが交差する味”だな」


 ブランデーの甘く重厚なコク、

 ホワイトラムの柔らかさ、

 コアントローの華やかな香り、

 そしてレモンのキュッとした酸味が、

 まるで恋文の最後に書かれた”追伸”のように切ない。


 「これは、“一夜の恋”を謳う酒だね」


 俺はグラスを拭きながら言う。


 「それを美しく語るのがお前の仕事だろう?」


 吟遊詩人は軽くリュートを弾き、

 静かにひとつ、短い旋律を奏でた。


 「……恋はいつだって”儚いからこそ、美しい”んだ」


 「じゃあ、また同じ恋を繰り返すのか?」


 彼は微笑みながら、グラスの最後の一滴を口に含む。


 「もちろんさ。それが”物語”というものだ」


 懐から羽根ペンの飾りが付いた小さな羊皮紙を取り出し、カウンターに置いた。


 「この物語、君の棚にも加えておいてくれ」


 「確かに」


 吟遊詩人は立ち上がり、リュートを背に回す。


 「また来るよ。次は”誰かの心が傷ついた夜”にでも」


 「その時は”癒しのバラード”になるような一杯を出すさ」


 扉が開く。


 風が吹き込み、彼の旋律だけが最後まで残っていた。


 ——今夜もまた、一人の”語り部”に、甘く切ない一杯を届けた。

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