「ありがとうございました。お気を付けてお帰りください」
店先で軽く頭を下げ、最後のお客さまの車を見送る。赤く光るテールランプが見えなくなるのを見届けて、はぁっと息を吐き出した。
辺りには、夏の虫たちの澄んだ音色と、カエルたちの合唱が響いている。夜の空気はほんのりと湿っていて、昼間の熱気をわずかに感じた。
お店の前に出していた黒板スタンドをたたんで片付けていると、ふわりと毛並みを揺らして、小太郎が私の脇をすり抜けていった。黒々とした大きな体が前庭を駆け抜け、そのまま闇へと続く道へ走っていく。しばらくすると、街灯の届かない暗がりの向こうから、「ワン!」と一声、張りのある鳴き声が響いた。
小太郎は毎晩こうして、店の周囲を一巡してくれる。誰に言われたわけでもないのに、まるで自分の役目だと言わんばかりに、不審な気配がないか見て回るのだ。頼もしい我が家の番犬で、お客様に人気の看板犬。
一通り周囲を見て回り、満足げに尻尾を振りながら戻ってくる小太郎を店の中へ招き入れ、ドアにかかった札を「OPEN」から「CLOSED」へと返す。
ふう、とひとつ息を吐くと、じんわりと肩に一日の疲れを感じた。
すっかり日が落ちて暗くなった、二十一時。
見上げた空には白く光る月が昇り、森の闇よりもうっすらと明るい夜空が広がっている。
(今日は来るかもしれないな)
別になんの根拠もない。
ただ、私の勘がそう感じるだけなのだけれど、――きっとこれは当たる。
「そうだ、先日仕入れた珈琲を用意しようかな」
あとは、今朝仕込んでいたチーズケーキがある。甘すぎないさっぱりとした後味を、以前来たときに彼はとても気に入っていたから、きっと喜ぶだろう。
店内に戻って、玄関ポーチの明かりを落とす。
オレンジ色のランプが消えて、『カフェ・レタル』の文字は闇に溶けた。
*
店の清掃と翌日の仕込み、食材の確認をして時計を見れば、もうすぐ二十三時を回るころ。
店内のBGMをお気に入りのプレイリストに変えれば、気持ちも切り替わって力が抜ける。今夜はピアノのプレイリストを選んだ。
店の看板猫、マルもピアノが好きだ。入り口横の椅子で丸くなっていた彼女は、ピアノの音色に耳をピクリと動かして居住まいを正し、また目を瞑った。その足元で小太郎も寝そべり、目を瞑る。
彼らも、今夜は現れると思っているのかもしれない。
お気に入りのカップを棚から選んで、珈琲を入れる準備を始める。
ハンドルに水洗いしたネルフィルターを取り付けてセットし、珈琲ミルで豆を挽く。ゴリゴリと響くこの音が好きで、豆はいつも飲む分を挽いている。
ケトルで沸かしたお湯を少し冷まして、ぽとぽとと中心に落とす。蒸らした豆の香りが、ふわりと店内を満たしていく。
そして、いつものように――ちょうどそのタイミングで、古いドアベルがカラン、と音を立てた。
「いらっしゃいませ。――お疲れさまです、イサイアスさん」
顔を上げて笑顔を向けると、扉の前に立つ彼は青い瞳を柔らかく細めた。
「こんばんは、あかり。ああ、今夜もいい香りだね」
白いシャツにゆったりとガウンを羽織った彼は、まっすぐカウンターへやってきて私の目の前の席に腰掛けた。
小太郎が起き上がり、イサイアスさんの足元へ駆け寄ると、彼は笑いながら小太郎の首をわしわしと撫でる。椅子の上で眠るマルは、ちらりと彼のことを見て、また目を瞑った。
「今夜はいらっしゃると思ってたんですよ」
「本当に? すごいな、あかりも魔法が使えるようになった?」
「あは、なってませんよ! 私の勘です」
「それは的中率が高そうだね」
言いながら、イサイアスさんはじっと珈琲を落とす私の手元を見つめている。
「ふふ、先日仕入れたばかりの珈琲です。いらっしゃると思って、用意していたの」
「タイミングがよかったね」
「ええ、とっても。チーズケーキもありますよ」
「それはいいね! 嬉しいな、いつもありがとう」
顔を上げて優しく微笑んだ彼の金色の髪が、カウンターの明かりを跳ね返す。お風呂の後なのだろうか、ほのかに石鹸のさわやかな香りがした。
「きちんと支払いをしたいんだけどね」
「それについては、話したじゃないですか。私に魔法を見せてくれたらいいですって」
「本当にそんなことでいいのかなぁ」
「いいんです。だって、とっても素敵なんだもの」
「あかりがそう言うならいいんだけどね」
それでも腑に落ちない顔をした彼の前に、淹れたばかりの珈琲を置く。カップは彼が気に入っている、地元の作家が焼いた白い粉引きのカップだ。
「わ、ありがとう。とてもいい香りだ。――少し、甘い香りがするね」
「カラメルのような感じでしょうか」
「なるほど――ああ、うん、おいしい」
イサイアスさんは一口飲んで、ほぅっと息を吐き出した。
「ケーキもどうぞ」
「ありがとう。今日のケーキは白いんだね」
「はい。夏らしく、レモンを使ってさっぱりとさせたんです。イサイアスさんは好きだと思うな」
「ふふ、あかりが言うなら間違いないね」
きれいな所作でケーキを口へ運び、口元をふわりと緩める。目の前でこんなに幸せそうに食べてもらえて、私の気持ちもふわふわと幸せになる。
「ああ、これは本当においしい……。今夜はとっておきのものを見せないと、割に合わないかな」
「とっておき?」
「うん。先日訪れた森に、とてもきれいな場所があったんだよ」
そう言って、彼はなにかを描くように、長い指をスッと美しく動かした。ほんのり光る指先から、小さな光の粒が現れる。
「わぁ……!」
指先から溢れるように現れた光の粒は、キラキラと店内を埋め尽くし、形を変えていく。それはやがて、ひとつの景色を形作った。
店内の天井近くに浮かび上がる、青い空と森、それらを鏡のように反射させる湖。
「これは……?」
「ここは、『風の泉』と呼ばれる場所だよ。鏡のような水面から、風のたまごが産まれるんだ」
「風のたまご?」
「掌に乗るくらいの大きさで、穏やかなものもあれば、激しい風を孕んだものもある。泉の上でしばらく浮かんでいて、時が来たら空へ昇っていくんだ」
イサイアスさんは、「こんなふうに」と、掌の上に野球ボールくらいの球を作った。球の中には淡いピンクや水色の煙が閉じ込められていて、ゆらりと動いている。
小太郎がその球に反応して目を爛々と輝かせるのを、「ダメだよ」と彼は優しく笑った。
「かわいい……」
「これは春の風のたまごだよ。温かい日差しと一緒に現れて、花のつぼみや木々の芽をほころばせるんだ」
「これも、精霊の生み出すもの?」
「そう。精霊は気まぐれだからね。時々、強い風のたまごも紛れてくるんだ」
「春一番みたいなことかなぁ」
「春一番?」
「そう、春に吹く強い風のこと。この風が吹くと、春がやってくるの」
「ふふ、あかりの世界には、気の強い聖霊がいるのかな」
彼の掌の上でふわふわと揺れていた球が空に浮かび上がり、綻ぶようにゆっくりと弾けた。ふわりと温かく、爽やかな風が優しく頬を撫でる。
「――行ってみたいな」
彼の暮らす世界に。見たことのないものに溢れている、彼が教えてくれる美しい世界へいつか行ってみたい。
「私も、あかりを連れて行きたいな。――いつか、必ず」
そう言って、きらきらと光の粒が舞う店内で、二十三時のお客さまは美しく笑った。