「今日ものんびりだったなぁ……」
どのくらいの間、時計をじっと見つめていただろう。ついに時計の針は、閉店の時間を指した。
のろのろと立ち上がり、外へ出る。辺りに立ち込めた濃い霧が、店の明かりを受けて白く浮かび上がり、視界を遮っていた。
周囲には人気もなく、いつも灯っている前庭の向こうにある街灯も、光が霧に吸い込まれ、届いてこない。こんな夜では、それじゃなくてもお客さんは来ないだろう。
私の足元にまとわりつくように付いてくる小太郎は、迷わず霧の向こうへ駆けていき、ひと通りふんふんと周囲を警戒して戻ってきた。
「ありがとう、小太郎。今夜も問題なしだね」
そう言って頭を撫でれば、嬉しそうに尻尾をぶんぶんと振る。
今日のおすすめ珈琲と食事メニューを書いた黒板スタンドを店内に運び込んで、店の扉を閉める。
カフェ・レタルの営業は終了。明日は定休日だ。
「今日は五人かぁ……」
分かっていたとはいえ、あまりにも人通りがない。さびれた町の、さらに片隅で開いたばかりのカフェには、近隣の人が仕事を終えて立ち寄るくらい。
まったくお客さんがいない日もあるから、多い方かもしれないけれど。一食だけ食事も提供できたし。
「そろそろ、SNSとかで発信することを考えないと」
店内へ戻り、入り口横の椅子で丸くなって眠る、キジトラ猫のマルの頭を撫でると、返事の代わりに長い尻尾をゆらりと振った。
亡くなった祖母が営んでいた喫茶店を自分で改築したので、設備もほぼそのまま、ほとんどお金はかかっていないし、家賃もタダ。それでも、こうして赤字が続いては、いつまでもつか分からない。
「――やめるのは簡単だから」
できるところまで続けたい。できることがあるなら、やってみたい。なにかが変わるまで、努力したい。
こんな今の私を見て、祖母はどう思うだろう。
そう思いながら、玄関ポーチのスイッチを切って、カフェ・レタルの看板を消した。
*
店内の清掃を済ませて自分用の珈琲を淹れる準備を始める。
ゴリゴリとミルで豆を挽きながら、お気に入りのプレイリストが流れる自分だけの時間。一日の終わりに迎えるこの贅沢な時間が、私は特別好きだ。
ハンドルにセットしたネルに挽いたばかりの豆を移し、沸かしたお湯がちょうどいい温度になるまで少し待つ。
ネルドリップを選んだのは、丁寧に淹れた珈琲をお客さまに楽しんでほしいと思ったから。初めからお客さまがたくさん来るとは思っていなかったから、あえて手間を掛けたかったのがひとつ。
そして、祖母がネルドリップで淹れた珈琲が好きだったから。
「最後にお祖母ちゃんに、珈琲を入れたのはいつだったかな」
お湯を落として膨らんだ珈琲豆を見下ろしながら、過去に気持ちが囚われる。祖母と二人きりで過ごした日々は、優しく甘い思い出だけではない。
昔気質で厳しかった祖母に、逆らえずなにも言えなかった幼い私は、祖母の忠告をすべて無視して都会の専門学校へ進学した。
あれは何年前だっけ。
それっきり、あまり会話がないままだった。
ぽとぽととお湯を落として蒸らした珈琲が、ふっくらと膨らんだところへ、ゆっくりとお湯を回し入れる。今日の珈琲はナッツのような香りがする。
「――うん、いい香り」
この香りで気持ちを落ち着ける。考えたって仕方ない、今日はもう自分をゆっくり労わらなければ。
そのとき、入り口横の椅子で眠っていたマルが、突然むくりと起き上がった。テーブル席へぴょん、と移動して、窓の外をじっと見ている。
カウンターの私の足元で寝そべっていた小太郎も、立ち上がり、入り口前に移動した。
「なに? どうしたの」
(なんだろう、動物かな?)
この子たちの普段見ない様子にドキリと心臓が嫌な音を立てた。
ケトルを静かに置いて、スマホを手に取ると、時計はもうすぐ二十三時を報せようとしている。町内の連絡メールは来ていないから、熊ではない、と思う。
鹿かな? それともアライグマ?
「小太郎、マル、おいで。二階に行こう」
二階の居室へ行って、鍵をかけて様子を見た方がいいかもしれない。外にごみは出していないし、大丈夫だとは思うけれど、あれ、鍵は掛けたっけ?
呼びかけても動かない彼らに、もう一度カウンターから小さな声で呼び掛ける。
静かに、物音を立てないようにそっとカウンターから出ようとしたその瞬間。
突然、ガチャリ、と扉が開いた。