まるで鏡面のように磨かれた大理石の回廊を進む。
高い天井には神々による創成期が描かれ、壁には歴代の王たちの肖像画が掛けられている。配置された護衛騎士は微動だにせず、足並みを揃えて行進する近衛騎士たちとすれ違い、ようやく目的の部屋へ到着した。
扉前の護衛騎士は私の姿を認めると、扉をノックしてよく通る声で室内の人物に来訪を告げる。
「イサイアス・フォン・デ・ハーヴィスト閣下のご到着です」
「――入れ」
室内からの返答を受け、騎士は恭しく両開きの扉を開けた。
部屋の奥に配置された重厚な執務机に腰掛ける人物が顔を上げて、笑顔を見せた。
「イサイアス、入ってくれ」
「失礼します」
室内にいた補佐官と騎士たちへ退室を促した彼は、ペンを置いて背もたれに身体を預けた。
「こんな時間まで執務とは」
「なに、もう終わった。――座ってくれ」
示された応接セットへ近付いて、彼がソファへ腰を下ろしたのを見届けてから向かいに座る。
どうやら疲れているらしい彼は、深くため息を吐いた。
「さて、今回は報告を聞きたくてね」
「報告?」
「キーランの元を訪ねただろう」
その言葉に思わず反応してしまった。
彼がそれを見逃すはずもなく、ニヤリと口端を上げる。
「相変わらず取り繕うのが下手だな、イサイアス」
「そんなことはありません。――不意打ちだっただけです」
「不意打ちにも動じないことが大事なんだろう」
彼は笑いながら、机上に用意されていたグラスを目の前に置いた。キュッと音を立ててボトルの栓を抜き、
「それで? なにがあった」
グラスを目の前に差し出され、大人しく受け取る。彼は自分のグラスを持ち上げて、香りを楽しんだ。
「――精霊の気まぐれに遭遇しました」
「ほぉ、お前が? それは興味深い」
(キーランと同じことを言う)
思わず苦笑して、グラスを口に運んだ。燻製のような香りと甘いナッツのような香り、その後にやってくる喉を焼くような刺激。
「そのことで、キーランに調査を依頼しました。私が遭遇した意味と、見たことを伝えに」
「魔術師団長にも、騎士団長にも報告はいっていないな」
「まだ不確かなことが多いので」
「なにか持ち帰ったのか」
「いえ……、ありましたが、燃えました」
「燃えた?」
彼は一瞬目を丸くして、笑い出した。
「キーランか! まったく、魔術師の好奇心は容赦ないな」
笑いながら、それで、と先を促される。
グラスを掌で温めながら、魔物討伐の際に起こった異世界への転移と様子、そしてそれからも転移は何度か繰り返されている、と説明した。
話を聞いていた彼は、少年のように瞳をキラキラと輝かせた。
「そうか、まさか身近な人間が精霊の気まぐれに出会うとは。異世界から持ち帰られた『モノ』が存在しているとはいえ、正直、実感はなかったが、お前が体験したとなれば話は別だ」
「キーランには被験者だと言われました」
「はは、確かに! お前以上に適した人物はいないだろうな」
彼は「なるほど」と、呟いてグラスを呷る。
「教会へはまだ報告したくない、ということだな」
「はい、できれば」
「なぜ」
その言葉に、あかりの姿が過る。
所詮、異世界のことと言って報告するのは簡単だ。だが、彼女の知らないところで調査の対象にするのは本意ではない。
キーランが言っていた、「なにが起こるか、そのことに責任を持てない」という言葉が蘇る。
私がここであかりの世界の話をして、もしも誰かがあの場所へ行けるようになったら?
彼女の身になにも起こらないという保証はないのだ。
「――一人の女性を巻き込むかもしれないので」
常にそばにいられるわけでもない。
ましてや、あれからずっと、レタルとこーひーと、あかりのことを考えているというのに、転移できない。
魔力はすでに、溢れるほど満ちているはずだというのに。
「――なるほど?」
その声にグラスから顔を上げれば、彼は面白そうな表情でこちらを見ていた。
「なにか」
「いや? ただ……、女性がかかわっている割に、珍しく感情的だなと思っただけだ」
「そんなことは……」
「あるだろう。どのような令嬢が現れようと、ただ笑顔で躱すだけで一向に婚約者のできないお前が、一人の女性を気に掛けるとは」
「大げさです」
「大げさではないさ。そもそも、早く婚約者を見つけたらいいだけのことだ」
彼はソファに体を沈めて青い瞳をじっとこちらに向けた。銀色に輝く髪が、室内灯に照らされて作り物のように光る。
「また転移すると思うか?」
その言葉に、ギュッとグラスを握りしめる。
「はい。――必ず」
いつかは分からない。だが、行きたいと願う気持ちは強くなっている。望めば行けるものではない。
だが、行けるという確信があるのだ。
「そうか」
彼はふっと口角を上げて体を起こした。
「では、必ず戻ってこい」
「――はい」
行ったまま、戻ってこられるとも限らない。それも危惧していることのひとつだ。
だがあの世界に身を置いて、そのまま暮らす自分を想像したりもする。
あかりが言っていた、年寄りになるまであの世界で暮らし、年老いた自分がまた元の時間に戻る、ということも起こりうるのかもしれない、と。
「各師団長へは私から話をする。お前たちだけで対応するのは、後々面倒なことになりかねないからな」
「ありがとうございます」
話はこれで終わりだろうと、グラスを呷って立ち上がる。彼はそんな私を見上げて、首をかしげた。
「イサイアス、その女性とは上手くいきそうか?」
言葉の意味を一瞬考えて、小さく頭を振った。
「いえ、そんな相手ではありません。どちらかというと、妹のような……、彼女も私にそういう感情は抱いていませんから」
「なんだ、そんな女性がこの世にいるのだな」
おかしそうに笑う彼は、先ほどまでの公的な立場よりもゆったりとしている。
「それもまたいいのだろうな」
最後にまた「なるほど」と呟いた彼は、自らグラスへ液体を注いだ。
「――殿下、飲み過ぎには気を付けてください」
「この程度では酔わないさ。従弟殿に醜態は見せられないからな」
そう言って、未来の王は笑いながらグラスを掲げた。