リアナ・エステル・アルヴィスは幼い頃から宮廷中で「神童」と称賛されていた。その美貌、優雅な振る舞い、そして驚異的な知性は誰もが認めるところだった。彼女が10歳の時には、隣国の王太子が彼女の才能に感銘を受け、父王に和平交渉を申し出るほどであった。周囲の誰もが、彼女がアルヴィス王国の未来を担う存在になると信じて疑わなかった。
だが、それは過去の話だった。現在、リアナは冷遇される「無能な王女」として、宮廷の端に追いやられている。美しく整った顔立ちと、かつての神童の面影を残す立ち振る舞いはそのままだが、彼女に向けられる目は冷笑と無関心だけだった。
「リアナ殿下は、また部屋で刺繍でもしているのでしょうね。」
使用人たちのひそひそ話が、廊下を歩くリアナの耳に入る。彼女は顔色一つ変えず、それを無視して通り過ぎた。背中に向けられる嘲笑にも慣れたものだ。むしろ、それは彼女にとって好都合だった。無能と見られている限り、彼女の真の目的が知られることはない。
リアナが「無能」として扱われるようになったのは14歳の時からだ。それ以前の彼女は、宮廷の中心で輝きを放っていた。しかし突然、彼女は外交の場から外され、重要な会議にも出席しなくなった。その理由を知る者はほとんどいなかった。だが、真相は単純だった――それは父王の命令によるものだった。
「リアナ、お前の才能はあまりにも目立ちすぎている。」
14歳のリアナに向けて父王が放った言葉は、彼女の人生を一変させた。父王は、王国の安定を守るために彼女に重要な役割を託した。影の存在として、他国との和平交渉や情報収集を行い、敵国の目を欺きながら王国を支える密命大使となること。それが彼女の使命だった。
「リアナ、これからお前は平凡、いや、むしろ無能と思われるように振る舞わねばならない。」
その命令を聞いた時、リアナの胸には一抹の不安がよぎった。だが彼女は父王の信頼に応えようと、感情を隠して頷いた。王国の未来を背負う覚悟はできていた。
その日から、リアナの生活は一変した。表向きは刺繍や詩作に興じる平凡な王女として振る舞いながら、裏では諜報活動や他国との極秘交渉に従事する日々が始まった。彼女の「無能」という評判が広まる一方で、リアナは影で王国の安定を保つ重要な役割を果たしていた。
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ある日、リアナは王宮の庭園で一人本を読んでいた。周囲に人の気配はないが、彼女の目線は本の内容よりも、遠くに見える衛兵の配置や使用人たちの動きを追っている。これは習慣のようなもので、彼女が他国での交渉中に培った警戒心の表れだった。
「リアナ、こんなところで何をしているの?」
聞き慣れた声に顔を上げると、そこには姉のエリザベートが立っていた。彼女は豪奢なドレスをまとい、微笑みながらリアナを見下ろしている。その目には明らかな嘲笑が浮かんでいた。
「本を読んでいただけです、エリザベート姉様。」
リアナは静かに答える。相手の態度には動じない。それどころか、その笑みの奥に隠された意図を見極めようと、じっと観察する。
「まあ、相変わらず暇そうね。平凡な王女にはそれが似合うわ。」
エリザベートはそのまま去っていった。リアナはその後ろ姿を見送りながら、わずかに眉を寄せた。姉たちの軽蔑には慣れているが、エリザベートの言葉には常に棘があった。
彼女の姉たちは、リアナを完全に見下していた。第一王女エリザベートは王位継承の最有力候補であり、第二王女マルグリットも民衆からの人気を集めている。一方で、リアナは「無能な王女」として冷遇されるばかりだった。
だが、彼女はそれを気にしていなかった。それどころか、姉たちの侮辱はむしろ彼女にとって好都合だった。彼女が表舞台に出る必要がない限り、密命の任務に専念できるからだ。
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その夜、リアナは秘密の書庫で密書を読んでいた。それは同盟国の宰相ルーファスからの報告書であり、リアナの指示によって集められた情報が詳細に記されていた。同盟国の王太子エドワードが、リアナを妃として迎えたいと申し出てきた件についての内容だった。
「妃、ね……。」
リアナはその申し出を読み、かすかに微笑んだ。同盟国の意図は分かりやすい――彼女の才能を自国の利益に利用しようというものだ。だが、父王がその申し出を断るのは予想通りだった。リアナを失えば、他の周辺国との外交バランスが崩れる危険があるのだから。
「エドワード様、申し訳ありませんが、あなたの計画には乗れません。」
リアナは小声でつぶやき、密書を火の中に投げ入れた。彼女にはすでに次の手が見えている。父王の信頼を得ている限り、彼女はこの王国の平和を守り抜く覚悟がある。
その時、彼女の背後から侍女のセシリアが声をかけた。
「リアナ様、次の会合の準備が整いました。」
リアナは微笑みを浮かべて立ち上がる。その目には冷静さと覚悟が宿っていた。彼女の戦いはまだ始まったばかりだった。