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第11話

魔王城の喧騒から隔絶されたかのように、静寂が支配する一角があった。

そこは、先代魔王ヴァレリウスが公務の合間に好んで足を運んだ、四季折々の魔界植物が慎ましやかに咲き誇る中庭である。

今は亡き主を偲ぶかのように、中央の古い噴水は水の流れを止め、ただ物悲しい風の音だけが時折、木々の葉を揺らしていた。


その中庭の一隅、石造りのテーブルと椅子が置かれた場所に、二つの影が向き合って座っていた。


一人は、魔王軍大将軍ボロク。

その巨躯は、繊細な装飾が施された石造りの椅子を軋ませそうなほどだ。彼の周囲には、数名の屈強な配下の兵士たちが、微動だにせず、鋭い警戒の視線を周囲に配りながら護衛として佇んでいる。

そして、そのボロクと向かい合っているのは、白い簡素なドレスを身に纏う少女、アリア姫。

彼女の背後には、侍女のリーネが心配そうに控えている。


先ほどまで作戦司令室を満たしていた血の匂いや鉄の気配とは無縁の、穏やかな空気。

しかし、二人の間には、見えない緊張の糸が張り詰めているようでもあった。


「姫様。わざわざこのような場所までお連れして、申し訳ございませぬ。あの場は、姫君がおられるには不適切な場所ゆえ」


ボロクが、その厳つい顔にはやや不似合いなほど、穏やかな口調でアリアに語りかける。

その瞳には、故主君の忘れ形見である彼女を気遣うような、どこか保護者的な温かさが宿っていた。


「いえ、ボロク将軍。こちらこそ、お忙しいところをお時間をいただきまして……」


アリアもまた、少し緊張した面持ちで応える。

しばしの沈黙の後、ボロクがふと、遠い目をするように中庭の風景を見やった。


「……思えば、姫様がまだ幼い頃、この中庭でよくヴァレリウス陛下と共にお遊びになられておりましたな。陛下が、姫様の小さな手を引いて、花の名前を教えておられたお姿が、昨日のことのように思い出されますぞ」


その言葉には、今は亡き主君への追憶と、目の前の少女への純粋な情愛が滲んでいた。

それは、魔王軍の大将軍としてではなく、一人の忠臣としての、偽らざる心からの言葉だった。


アリアは、その温かい言葉に少しだけ表情を和らげたが、すぐにまた憂いの影がその顔を覆う。

ボロクは、そんなアリアの様子を注意深く見守っていた。故主君の忘れ形見として敬意を払い、そして何よりもその身の安全を案じている。


(姫様は、お優しい。あまりにも、お優しすぎる。ヴァレリウス陛下の忘れ形見として、このボロク、我が命に代えてもお守り申し上げる所存だ。……だが、この戦乱の世で、魔王の器となられるには……あまりにもお心が清らか過ぎるやもしれぬ。この騒乱が収まるまでは、安全な場所に身を隠して貰うのがよいだろう……)


その考えが、彼の言葉の端々や態度に、隠しようもなく滲み出てしまう。


「姫様もご存知の通り、御身はもはや、魔王候補者のお一人。……陛下が、何を思って貴女を候補者にお据えになったのか、この武骨者のワシにはとんと見当もつきませぬが……」


ボロクは、言葉を選びながらも、その内心を隠せない。


「そこで、姫様。我が領地に、先代陛下より賜った、それはそれは堅牢で安全な山荘がございます。魔王軍の精鋭が見張り、いかなる敵も寄せ付けぬ、魔界で一番安全な場所と自負しております。……いかがでしょうか。この忌まわしい騒乱が終わるまで、しばし其処でお過ごしになられては」


それは、ボロクなりの最大限の配慮であり、アリアを危険から遠ざけようとする親心にも似た感情の表れであった。

彼の領地にあるその山荘は、緑豊かな山々に囲まれ、清らかな泉が湧き出る美しい場所だが、同時に天然の要害であり、彼が最も信頼する部隊によって鉄壁の守りが敷かれている。


「……」


その言葉を聞いたアリアは、一瞬、戸惑うような、そして何かを深く悩むような複雑な表情を見せた。ボロクの申し出が、自分を案じてのものであることは痛いほど分かる。

だが──。

しばしの逡巡の後、アリアは伏せていた顔を上げ、真っ直ぐにボロクの目を見つめた。

その大きな碧眼には、先ほどまでの頼りなげな光ではなく、静かだが確かな意志の光が宿っていた。


「……ボロク将軍。お心遣い、痛み入ります。ですが、私は……逃げるわけにはまいりません」


凛とした、しかしどこか震える声だった。


「父上が、なぜ私のような者を候補者としたのか、その真意は私にも分かりません。ですが、このままでは、魔界が、父上が愛した民たちが、さらなる戦火に焼かれてしまいます。マルバス公爵様の領地では、もう既に……多くの民が恐怖に怯え、家を追われていると聞きました。それを思うと、胸が張り裂けそうなのです」


アリアの声には、紛れもない悲しみと、そして現状に対する静かな怒りが込められていた。

彼女は、一度言葉を切ると、深く息を吸い込み、そして、ボロク将軍の目を真っ直ぐに見据えて続けた。


「お父様は、常々仰っていました。『真の強さとは、ただ力を持つことではない。その力を、誰かのために、何かのために正しく使うことこそが、真の強さなのだ』と。そして、『民の心が離れてしまえば、どれほど強大な武力も、いずれは砂上の楼閣の如く崩れ去る』とも。父の言葉を信じ、民の心に寄り添うことならば……私にもできるかもしれないのです」


アリアの、そのか細い体から発せられるとは思えぬほど、しっかりとした言葉だった。

予想外の、しかしどこか芯の通ったアリアの言葉に、ボロクは一瞬、言葉を失った。


だが──。


「……姫様。そのお言葉、そしてお覚悟、見事なものにございます。陛下の教えを、確かに受け継いでおられる」


ボロクは、まずアリアの言葉を肯定した。しかし、その厳つい顔には、苦渋の色が浮かぶ。


「──しかし、姫様。この魔界では、どれほど高潔な理想を掲げようとも、それを実現するためには、そして何よりもご自身のお命を守るためには、やはり『力』が必要不可欠なのでございます。綺麗事だけでは、あの候補者たちには到底太刀打ちできませぬぞ」


それは、彼女の身を本気で案じるからこその、厳しい言葉だった。


「このワシには、陛下と共に育て上げ、魔界最強と謳われた『魔王軍』という力がございます。宮廷魔術師リラには、魔術師団という『知恵』と『魔力』の力が。仮面の道化師フェステには、裏社会を掌握する『情報』と『暗部』の力が。大豪商ギルダスには、魔界の経済すら揺るがす『金』という力が。獣王グロムには、全てを蹂躙する『破壊』の力が」


そして、アリアの瞳を見据え、言った。


「では、姫様は? 姫様は、一体どのような『力』を、この魔王継承戦という戦場でお示しになられるのです?」


ボロクの言葉は、一つ一つが重く、アリアの華奢な肩にのしかかる。

他の候補者たちが持つ、具体的で、圧倒的な「力」。それに比べて、自分は……。

アリアは、その厳しい問いかけに、返す言葉もなく、再びうなだれてしまった。

ぎゅっと握りしめた両手が、小さく震えている。彼女の背後で、侍女のリーネが悲しげに眉を寄せ、唇を噛みしめている。


(少々厳しい言葉だが……ここまで言わないと納得してくれないであろう……)


その様子を見ていたボロクは、罪悪感に苛まれながらも、自らの言ったことは間違っていないと確信していた。


(やはり……私には、何も……)


絶望にも似た感情が、アリアの心を再び覆い尽くそうとした、その時。

不意に、彼女の脳裏に、大書庫で交わした、あの穏やかな書庫番の言葉が鮮やかに蘇った。


『姫様には、姫様にしかお出来にならないことが、きっとあるはずです。その優しさ、その慈悲深さこそが、今の荒んだ魔界に最も必要とされている光なのかもしれませんよ』


そうだ、エルシーは、そう言ってくれた。力だけが全てではない、と。

その言葉が、暗闇に差し込む一筋の光のように、アリアの心に再び力を与えた。

彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、まだ迷いの色は残っていたが、先ほどとは明らかに違う、確かな光が戻ってきていた。


「──確かに、私には将軍のような武力も、リラ様のような魔術も、ギルダス様のような財力もございません。フェステ様のような情報網も、グロム様のような破壊の力もありません」


アリアは、一度言葉を区切り、一つ一つの言葉を確かめるように、しかし淀みなく続ける。


「ですが、本当にそれだけが『力』なのでしょうか? 武力で他者を屈服させ、経済力で支配し、恐怖で民を縛り付ける……。それは、真の『認められた者』の姿なのでしょうか」


彼女の声は、か細いながらも、不思議な説得力を持っていた。


「お父様は、こうも仰っていました。『魔王とは、魔界で最も強く、最も恐れられる者であると同時に、最も民に愛され、信頼される者でなければならぬ』と。力による支配は、いつか必ずより大きな力によって覆されます。恐怖による支配は、民の心に憎しみしか生みません。──ですが、『信頼』は? 『共感』は? それらは、武力や財力では決して手に入れることのできない、何よりも強固な絆となるのではないでしょうか」


アリアは、自らの胸に手を当て、真摯な眼差しでボロクを見つめる。


「私には、民を虐げることも、他者を欺くこともできません。ですが、民の声に耳を傾け、その痛みに寄り添い、彼らと共に歩むことならば……この私にもできるかもしれないのです。それこそが、お父様が私に遺してくださった、私だけの『力』なのではないかと……そう、信じたいのです」

「……!」


アリアの言葉を聞くうちに、ボロクの厳つい顔から、徐々に険しさが薄れていくのが分かった。


(姫様は……ただ優しいだけではない。お飾りでも、ましてや逃げることしか考えぬ卑怯者でもない……)


彼は、アリアの言葉の端々に、単なる理想論ではない、確かな思慮深さを感じ取っていた。そして何よりも、その言葉の根底にある、民を思う真摯で純粋な心。

それは、最近の魔王城の権力闘争の中で、彼自身が見失いかけていた、最も大切なものかもしれなかった。


「……」


アリアは、自らの考えを語り終えると、再び真っ直ぐにボロク将軍を見据えた。

大きな碧眼には、以前のような頼りなさや怯えの色はなく、一点の曇りもない、確かな意志の光が宿っている。


「──」


ボロクは、その力強い瞳の奥に、若き日の主君が理想を掲げて戦場を駆け、時には民のために涙した、あの頃のヴァレリウスの面影をはっきりと感じ取っていた。

老将軍の武骨な心が、久しく忘れていた熱いもので満たされ、そして激しく揺さぶられるのを感じた。


(この眼差し……そうだ、陛下も、まだ魔界の片隅で燻っておられた若い頃、このような……全てを射貫くような、それでいてどこか遠い未来を見据えるような瞳で、魔界の統一と、全ての魔族が誇りを持って生きられる世界の到来を、熱っぽく語っておられた……!)


ボロクの脳裏に、鮮やかに蘇る記憶があった。

それはまだ、ヴァレリウスが魔王となるずっと以前。数多の魔族の小勢力が群雄割拠し、絶え間ない戦乱に魔界全土が疲弊していた時代。

若きヴァレリウスは、決して恵まれたとは言えない僅かな手勢を率い、それでも不屈の闘志と、誰もが嘲笑した途方もない理想を掲げて戦い続けていた。

ある夜、野営の焚火の前で、土埃と血にまみれた姿のまま、しかしその瞳だけは爛々と輝かせながら、ヴァレリウスは傍らにいたボロクに語ったのだ。


『ボロクよ、見ていろ。俺は必ずこの戦乱を終わらせる。そして、力ある者も、そうでない者も、虐げられることのない、そんな世界を創ってみせる。……途方もない夢だと笑うか?』


あの時の、若き主君の真摯な瞳。そして今、目の前のアリア姫の瞳に宿る光は、驚くほどそれに似通っていた。


(そして、姫様は……あの頃の理想に燃えていた陛下よりも、遥かに、今の魔界の民の痛み、その苦しみを、肌で感じ、理解しておられるやもしれぬ……)


ヴァレリウスは確かに偉大な魔王だった。だが、その治世の後半は、あまりにも強大になりすぎた故の孤独や、理想と現実との乖離に苦悩していたようにも見えた。

それに比べ、アリア姫の言葉には、民衆と同じ目線で語られる、生々しいまでの共感がある。


(ワシは……これまで姫様を、ただお優しいだけの、守るべきか弱い存在としか見ていなかった。だが、それは……この老いぼれの、大きな間違いだったのかもしれん)


ボロクは、アリア姫が単なる「庇護対象」ではなく、父ヴァレリウスの理想を、それも最も純粋で、民衆の痛みに寄り添った形で受け継ぐ可能性を秘めた、稀有な「指導者」としての資質を持ち始めていることを、今はっきりと認識し始めていた。

彼女の言葉、その瞳の力は、ボロクの凝り固まっていた思考を打ち砕き、新たな視点を与えるに十分だったのだ。


(姫様と手を組む……という考えもあるか。確かに、姫様には直接的な武力も、腹黒い謀略もない。だが、彼女には、民を思うその清らかな心がある。民衆からの支持が高いのも、うなずける。そしてそれは、金や恐怖で支配しようとする者たちには決して手に入れられぬ、最も強固な『力』となるやもしれん……)


アリア姫を支持することで、魔王軍内部の動揺を抑え、民衆の支持を集めることができるかもしれない。

そして何よりも、それは、故ヴァレリウスの遺志を継ぐという、ボロク自身の信念にも合致するのではないか。

老将軍の胸の中で、打算と、そしてそれを超えた純粋な期待が、激しくせめぎ合っていた。


「姫様……」


ボロクは、ゆっくりと、しかし力強い声で口を開いた。その声には、先ほどまでの厳しさとは異なる、深い覚悟と、そしてアリア姫への新たな敬意が込められている。


「貴女様のそのお言葉、そしてそのお覚悟、この老骨の身に染み渡りました。今のこの魔界に必要なのは、ワシのような古い武人の力だけではないのかもしれませぬ。もし、このボロクの武力と、魔王軍の兵力が、姫様と共に歩めるのであれば……」


その言葉は、紛れもない同盟の示唆であった。

アリア姫が、驚きと、そしてこみ上げてくる熱いもので潤む。彼女の小さな手が、思わず胸の前で強く握られた。

父の代からの忠臣である、この力強くも優しい老将軍が、自分を認めてくれようとしている。それは、彼女にとって何よりも大きな希望の光。


──だが、アリアが感謝の言葉を口にしようとした、その時。


バサッ、という鋭い風切り音と共に、中庭の上空から一羽のハーピィが急降下してきた。

それは、ボロク将軍直属の偵察部隊に所属する伝令兵であり、その翼は土埃と血の匂いを微かに纏い、その表情は極度の緊張と焦燥に歪んでいた。


「ボ、ボロク大将軍!伝令にございます!」


ハーピィの伝令兵は、着地するやいなや、息も絶え絶えに、鋭い声で叫んだ。その声は、静かで穏やかだったはずの中庭の空気を、一瞬にして切り裂いた。


「──獣王グロム率いる『赤牙戦団』と、沈黙の騎士サイレスが、マルバス公爵領シルヴァニア古都にて、大規模な戦闘状態に突入!既に、周辺地域に甚大な被害が出ている模様!」


その報告がもたらされた瞬間、中庭は水を打ったような静寂に包まれた。

鳥のさえずりも、風の音すらも、聞こえなくなったかのように。

魔王継承戦の盤面は、彼らの思惑や、芽生えかけた小さな希望すらも飲み込み、否応なく、新たな血戦の渦へと突き進もうとしていた。

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