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第10話

「忌々しい簒奪者どめが。マルバスの阿呆が消えた途端、虫のように群がりおって……!」


魔王城の一角、そこは先代魔王ヴァレリウスが最も信頼を寄せた武人、ボロク将軍の執務室兼作戦司令室が存在する。

そして今、その部屋にボロクの低い、地の底から響くような声が、重く響いた。


大将軍ボロク。


彼はオーガ族の老将である。その身の丈は3メルに迫り、岩塊を削り出したかのような筋骨隆々の肉体は、長年の戦で鍛え上げられた鋼の如き強靭さを誇る。

頭からは、歴戦の証として先端が少し欠けた二本の太くねじれた角が天を突き、口元からは鋭い牙が覗く。その威圧的な容貌は、まさに鬼神の如しと恐れられるに相応しい。


「然り。魔族の片隅に置けぬ、卑怯者どもよ」

「そもそも、公爵領も元をたどれば、魔王様の所有物。すなわち、魔王様直属の我が魔王軍が統治するべきですぞ」


彼の周囲には、同じくオーガ族でボロクの片腕とされる屈強な副官、戦斧を傍らに置いたミノタウロス族の勇猛な軍団長、そして鋭い眼光で戦況図の一点を凝視するハーピィ族の偵察部隊長など、いずれも魔王軍の精鋭たる指揮官たちが数名、緊張した面持ちで控えている。

彼らは皆、ボロク将軍に絶対の信頼を寄せ、その指示一下で死地に赴くことも厭わぬ猛者たちだ。


「うむ……皆の言う通りだ」


彼は太い腕を胸の前で組み、苦虫を噛み潰したかのような険しい表情のまま、卓上の戦況図──特に、マルバス公爵領とその周辺に記された、新たな勢力の動きを示す無数の印を、油断なく睨みつけている。

それらの印は、盤上に散らばる不吉な駒のように、魔界の新たな混乱を予兆していた。

やがて、重苦しい沈黙を破ったのは、オーガ族の副官だった。彼は、苦々しげに顔を歪め、卓上の一点を太い指で叩く。


「将軍、ギルダスめの動きが、あまりにも目に余ります。奴が打ち出したという経済特区構想、その実態は、魔王城の財政を完全に牛耳り、ひいては我ら魔王軍の兵站すらも奴の掌に収めんとする魂胆に他なりません!既に、城内の一部の貴族どもが、奴の金に目が眩んで尻尾を振っておるとの情報も!」


副官の言葉には、隠しきれない憤りが込められていた。魔王軍の誇りを金で汚そうとするギルダスのやり方が、彼には我慢ならないのだ。


「それだけではありませぬ」


今度は、腕が鳥の羽に変貌している種族、ハーピィ族の偵察部隊長が、鋭い声で報告を続ける。


「マルバス公爵領では、グロムの赤牙戦団が、野盗の群れのように村々を襲い、略奪の限りを尽くしているとの報が次々と。また、リラの配下と思われる魔術師たちが、領内の主要都市で何やら不穏な動きを見せており、人心を惑わすような魔法を放っているとも。そして……あの道化師。奴もまた、配下の者どもを放ち、何かを嗅ぎまわっている様子。一体何を企んでいるのか、底が知れず……」


次々と報告される、各候補者たちの抜け駆け的で、自分勝手な行動。

情報が錯綜し、それぞれが独自の思惑で動き始めている魔界の現状は、ボロクや彼の腹心たちにとって、深刻な危機感を抱かせるものだった。

先代魔王ヴァレリウスが築き上げた秩序が、今まさに崩れ去ろうとしているのだから。


「……」


ボロクは、部下たちの報告を聞きながら、太い腕を組んだまま、固く目を閉じた。


(陛下………貴方様への、このボロクの忠誠心は、天地がひっくり返ろうとも揺らぎはしませぬ。だが、この現状は一体何事でありましょうか。貴方様が心血を注いで築き上げ、目指された魔界の姿は、このような私利私欲と、薄汚い謀略が渦巻くものでは断じてなかったはず……!)


脳裏に蘇るのは、若き日のヴァレリウスと共に駆け抜けた戦場の記憶。

そして、彼が時折見せた、魔界の未来への理想と、民への慈しみ。


(陛下が遺された「皆が認められた者」とは、一体何を指すのだ……。このボロクが信じる、絶対的な『秩序』か?あの獣王のような、純粋な『力』か?もしや、あのゴブリンが嘯く『金』か?それとも……それとも、そのいずれでもない、何か別のものなのか……?)


答えの出ない問いが、老将軍の胸中を重く締め付ける。

そのボロクの苦悩をよそに、集まった指揮官たちの間では、堰を切ったように激しい議論が始まっていた。


「もはや、猶予はありませぬ!ギルダスのような拝金主義のゴブリンが魔王城の財政を握れば、我ら魔王軍は骨抜きにされますぞ!奴の息のかかった貴族どもを、今すぐ粛清すべきです!」


ミノタウロス族の軍団長が、戦斧の柄を強く握りしめ、血走った目で叫ぶ。


「しかし、グロムの進撃も看過できぬ!奴らはマルバス領の民を蹂躙し、略奪の限りを尽くしておる!あれこそ魔界の秩序を破壊する最大の脅威!直ちに討伐軍を派遣すべきだ!」


別のオーガ族の指揮官が、太い声で反論する。


「お待ちください!リラの魔術は、我々の想像を超えるやもしれませぬ。彼女が本格的に動き出せば、我らの軍勢とて無事では済まされん!まずは、彼女の真意と、その力の底を見極めるのが先決では?」


ハーピィ族の偵察部隊長が、冷静ながらも鋭い声で警告を発する。


「あの道化師も不気味だ。奴の裏社会の情報網は、我々の動きすら筒抜けかもしれん。下手に動けば、そこを突かれる可能性も……」

「いや、それよりもアリア姫をどうするべきか!陛下の唯一の血筋であられるあの方を、この混乱からお守りせねば!」


口々に叫ばれる意見。

ギルダスのような拝金主義者、グロムのような破壊者、リラやフェステのような策謀家──いずれも、ボロクが理想とする「魔王」の姿とはかけ離れた者たちばかり。

彼らが魔界の覇権を握ることへの強い抵抗感と、しかし、それらを力で押さえつけようにも、それぞれが一筋縄ではいかぬ力と影響力を持っているという現実。

そして何より、故魔王の「曖昧な遺言」が、彼の正義の剣を振るうことを躊躇わせる。

具体的な策が見出せないことへの焦りが、ボロクと、そして彼に付き従う精鋭たちの間に、重苦しい影を落としていた。


ボロクは、それらの意見を、そしてその裏にある部下たちの純粋な危機感を、太い腕を組んだまま黙って聞いていた。

だが、やがて、まるで噴火寸前の火山のように内なる怒りを蓄え、その巨躯を動かした。

床に戦況図を睨む影が、さらに大きく伸びる。


「──しずまれい!!」


雷鳴のような一喝が、司令室の空気を震わせた。

先ほどまで口々に意見を述べていた屈強な指揮官たちが、まるで蛇に睨まれた蛙のように動きを止め、ボロクの顔を見上げる。


「我らが信じるべきは、ヴァレリウス陛下がその御生涯を賭して示された『力』と『正義』、そして何よりもこの魔界の『秩序』!」


ボロクの言葉は、一つ一つが重く、そして熱い。


「ギルダスの金も、リラの魔術も、フェステの口先も、グロムの牙も、それらが真に魔界の民のため、陛下の遺志を継ぐというならば、このワシとて認めることも考えよう。だが、奴らの行いはどうだ!?私利私欲に走り、魔界をさらなる混乱の渦に叩き込もうとしているだけではないか!」


その瞳には、一点の曇りもない忠誠心と、武人としての誇り、そしてこの危機的状況を何としてでも打開せんとする、燃えるような強い意志が宿っていた。


「ワシは、若き日のヴァレリウス陛下と共に幾多の戦場を駆け巡った!その陛下が誰よりも愛したこの魔界を、これ以上、土足で踏みにじらせるわけにはいかんのだ!力には力を!不義には鉄槌を!それが、我が魔王軍の、そしてこのワシ、ボロクが進むべき道だ!」


その気迫に、他の指揮官たちは言葉を失い、ただ顔を引き締めてボロクを見つめ返す。

ボロクは、傍らに立てかけてあった巨大な両手剣──かつて魔王ヴァレリウスより下賜され、数多の戦場で血を吸ってきた愛剣『破砕者』を、ゆっくりと、確かな手つきで抜き放った。

重い金属音が響き、鞘から現れた分厚く巨大な剣身が、魔導灯の光を鈍く反射する。

それだけで、凄まじい圧力がその場に奔り、指揮官たちの肌をピリピリと刺した。

それは、長年魔界の戦場を支配してきた老将軍の、揺るがぬ決意の顕現──。

ボロクは、その大剣を眼前に力強く掲げ、宣言した。


「まずは、旧マルバス公爵領の混乱を鎮める!あの地で好き放題に振る舞う不届き者どもに、魔王軍の鉄槌を下す!そして、他の候補者たちにもはっきりと示すのだ!この魔界の秩序を乱す者は、このボロクと、我らが魔王軍が決して許さぬ、と!」


その言葉は、迷いを断ち切った者の、力強い決意に満ちていた。

ボロクは、大剣を卓上の戦況図に突き立てんばかりの勢いで振り下ろすと、具体的な軍事行動の指示を、腹心の指揮官たちへ向けて発しようとした。

彼の中では、もはや武力による秩序回復以外の道は見えていない。


「全軍に伝令!第一軍団は公爵領都アルマゲストをそのまま目指せ!第三、第七軍団はグロムの獣どもを、第二、第九軍団はギルダスの守銭奴どもを駆逐せよ!残る軍団は制圧した都市での、リラやフェステの手の者を粛清し──」


ボロクがまさに、その力強い声で命令を下し始めた、その時だった。


ギィ……と、作戦司令室の重厚な黒樫の扉が、静かに、しかしその場にいた誰の耳にもはっきりと届く、確かな音を立てて開かれた。


──誰だ?


この部屋には誰も入れるなと、見張りの兵にそう伝えている筈──!


指揮官たちが怪訝な表情を浮かべ、扉へと顔を向けると……。


「──!?」


そこに立っていたのは、白い簡素なドレスを身にまとった、軍人とは無縁の、儚げな美しさを持つ一人の少女──アリア姫であった。


「……」


先ほどまでの怒号と殺気にも似た緊張感に満ちていた司令室が、水を打ったように静まり返った。

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