魔王城の西翼三階。かつては儀典用の控え室として使われていたその広壮な一室は、今やその面影もないほどに様変わりしていた。
床には、足が沈み込むほどに毛足の長い、真紅の絨毯が敷き詰められている。
壁には金糸銀糸で魔界の神話が織り込まれた豪奢なタペストリーが掛けられ、磨き上げられた黒檀の調度品は、ことごとく純金や宝石で繊細な装飾が施されていた。
そして、その部屋には、山のように積まれた帳簿や、パチパチと小気味よい音を立て続ける多数の算盤を前に、忙しなく立ち働く小柄なゴブリンたち。
彼らは皆、ギルダス大商会の紋章が入った揃いの仕着せを身につけている。
「──この世の全ては、金で買える」
部屋の奥、最も巨大で、それ自体が金塊で作られているのではないかと見紛うほどの豪奢な執務机。
その部屋の主である巨大なゴブリンは、子供が玩具を弄ぶかのように、目の前に積み上げられた金貨の山をジャラジャラと両手でかき混ぜながら、低い、しかしよく通る声で言った。
その言葉には、絶対的な確信が込められている。
緑色の肌は、贅沢な食事で蓄えられたであろう分厚い脂肪でたるんでいるが、その樽のように丸々と肥え太った巨躯は、通常のゴブリンの数倍はあろうかという威圧感を放つ。
そのゴブリン特有の卑小さを感じさせる顔面の中で、小さく鋭い金色の瞳だけが、獲物を見定める肉食獣のような、あるいは全てを値踏みするかのような知恵の光を宿していた。
これでもかと金銀宝石で飾り立てられた、悪趣味なほどに派手な衣装の隙間からは、鍛え上げられたわけではないが、その巨体を支えるに足る強靭な筋肉が垣間見える。
「買えぬものがあると言うのなら、それは値段が足りぬだけじゃ。……貴殿らも、そうは思わんかね?」
ギルダスは、目の前に侍立する、魔王城の古参の官僚や、いくつかの派閥に属する貴族の代表たちを見回し、ニヤリと黄金の歯を剥き出しにして笑った。
──彼こそが、『金貨王』ギルダス。
ゴブリンという、魔界においては決して身分が高いとは言えぬ種族にありながら、その天賦の商才と、金銭に対する異常なまでの執着と嗅覚によって、魔界の経済の頂点に登り詰めた稀代の大豪商。
そして今、魔王の座すらも「最高の儲け話」と見定めた、油断ならぬ候補者の一人である。
そんなギルダスの言葉と、金貨を弄ぶ尊大な態度を前にして、部屋に集められた魔王城の官僚や貴族たちの反応は、実に見事に二分されていた。
「ギルダス様のおっしゃる通り!金こそが力、金こそがこの魔界を救うのですぞ!」
「左様、左様!ギルダス様ならば、この混乱した魔界経済を立て直し、我々にもさらなる富をもたらしてくださるに違いない!」
一部の者たちは、ギルダスに媚びへつらうかのように、その言葉に追従し、露骨なまでに賛美の言葉を並べ立てる。
彼らは、ギルダスの金脈にいち早く連なろうとする、抜け目のない者たちか、あるいは既に彼の金で買収された者たちだった。
一方で、ボロク将軍派の武骨な貴族や、他の有力候補の息のかかった者たちは、隠そうともしない侮蔑の表情を浮かべ、腕を組み、ふんと鼻を鳴らしている。
彼らにとっては、ゴブリン風情の成金が魔王城で大きな顔をしていること自体が、許しがたい屈辱なのだろう。
「ふん、所詮はゴブリンの成り上がり……」
「魔王の座を金で買えるとでも思っているのか、浅ましい」
小さな声で、しかし確かな敵意を込めてそう呟く彼らにとって、ギルダスの存在は魔界の伝統と誇りを汚すものに他ならなかった。
それら二つの全く異なる反応を、ギルダスは実に楽しそうに眺めていた。彼の金色の瞳が、満足げに細められる。
敵意も、侮蔑も、彼にとっては計算のうち。むしろ、そういった感情すらも「値踏み」し、どう利用すれば最大の利益を生むかを考えているのだ。
「さて……」
やがて、ギルダスはわざとらしく咳払いを一つすると、集まった者たちを見渡し、重々しく、しかしその実、魔界の未来を「査定」するかのような口調で切り出した。
「皆々様。本日はお集まり頂き、恐悦至極。……先代魔王ヴァレリウス陛下が崩御され、魔界が混迷の極みにあることは、皆様もご承知の通り。このままでは、秩序は失われ、民は疲弊し、魔界全体が沈みゆく一方じゃ」
芝居がかった嘆きを見せた後、ギルダスはにやりと笑う。
「じゃが、ご安心めされい! このギルダスが、魔王城および魔界全体の経済的安定と輝かしい発展のため、ここに一つの壮大な構想を提案させて頂く!」
その言葉と共に、ギルダスの背後に控えていたゴブリンの部下が、大きな羊皮紙に描かれた計画図を広げて見せる。
羊皮紙には、美しい飾り文字で、しかし内容は極めて現実的かつ野心的な条項がびっしりと記されている。
──曰く、「ギルダス大商会による、魔王城への数十兆ゴルド単位の大規模投資。条件として、魔王城財政運営の一時的なギルダス大商会による代行」。
──曰く、「城内及び首都における物流のギルダス大商会による独占管理権の獲得。これにより、大商会支配領域からの膨大な物資と金貨が魔王城に流れ込む想定」。
──曰く、「ギルダス大商会発行の手形を基軸とした新税制の導入(ギルダス大商会との取引においては大幅な優遇措置を設ける)」。
そのどれもが、一見すると混乱した魔界経済を立て直すための合理的な提案のように聞こえる。
しかし、その本質は、魔王城の経済的実権を、そしてひいては魔界全体の富の流れを、ギルダスが完全に掌握するための巧妙な罠であった。
「今の魔界に必要なのは、血を流し合う愚かな争いではない。滞った血の巡りを良くする、黄金の奔流──すなわち『金の巡り』じゃ! このワシに全てをお任せくだされば、この魔王城を、いや、魔界全土を、かつて誰も見たことのない黄金郷へと変えてご覧に入れようぞ!その暁には、皆々様にも相応の『配当』をお約束しようではないか!」
ギルダスは、金貨を一枚指で弾き、高らかな声でそう宣言した。
彼の途方もない提案に、その場にいた官僚や貴族たちは、先ほどとは比べ物にならないほどの衝撃を受け、部屋は再び大きくどよめいた。
ある者はその大胆な構想に目を輝かせ、ある者はその強欲さに顔を引きつらせる。
そしてまたもや、その反応は、賛意と拒絶、期待と警戒という、二つの流れに綺麗に分かれていく……。
「なんと素晴らしいご提案だ!これぞ魔界の未来を照らす光に他なりますまい!」
いち早く賛意を示したのは、既にギルダスに取り入っている派閥の長老格の貴族だった。
しかし、それに対する反対派の声もまた、激しかった。
「ふざけるな! 魔王城の財政を、一介の商人風情に委ねるなど、前代未聞の愚行だ!」
ボロク将軍派の、武骨な鎧をまとった古参の貴族が、顔を真っ赤にして怒鳴る。
他の派閥の貴族も、侮蔑と怒りを込めてギルダスを睨みつけていた。
「そもそも、魔王の座とは武勇によって継がれるべきもの! 金の力で玉座が買えるなどと、魔界の伝統を汚す気か!」
「はん、なにが武勇だ。千年前ならその価値観で通じたかもしれんが、現代ではそのような思想こそが、魔界を衰退させる愚かなものよ」
「なんだと……!?この、守銭奴めが!」
賛成派と反対派は、互いに罵詈雑言を浴びせかけ、今にも掴みかからんばかりの勢いで口論を始めた。
ギルダスの目の前で繰り広げられるその醜い言い争いを、しかし当のギルダスは、実に楽しそうに、満面の笑みを浮かべて眺めていた。
(くくくっ…良いぞ、良いぞ。もっと争え、もっと欲望を剥き出しにしろ。どんな強者も、どれだけ高潔な騎士道精神を掲げようと、どれだけ揺るがぬ忠誠を誓おうと、『金』という名の魔力には逆らえぬものよ。綺麗事を並べ立てたところで、腹が減っては戦はできぬ。信念だけでは部下は養えぬ。生きている限り、そして何かを欲する限り、貴様らは皆、このワシの手のひらの上で踊るしかない運命よ)
ギルダスは、そう確信していた。彼にとって、金とは単なる富ではない。それは力であり、支配であり、そして何よりも、あらゆる価値を測定し、序列化する絶対的な基準。
魔力も武力も、血統も名誉も、全ては「金」の前には等しく値踏みされ、そして買収される対象に過ぎないのだ。
それが、彼が長年の経験と、幾多の成功と失敗から学び取った、この世界の真理であった。
パン、パン、と。
不意に、ギルダスが大きな手を二度打ち鳴らした。その乾いた音が響くと、あれほど騒がしかった広間は、水を打ったように静まり返った。
全ての視線が、再びギルダスへと集中する。
「さてさて、皆様、少々お静まり願おうかのう」
ギルダスは、にこやかな笑みを崩さずに言った。
そして、その視線を、先ほど最も激しく反対の声を上げていた、ボロク将軍派の武骨な貴族へと向ける。
「そこの御方。ワシの提案が、魔界の伝統を汚す、と仰せられたかな? ふむ、確かに、ゴブリン風情が魔王城の財政を、というのは聞こえが悪いかもしれぬのう。──じゃが……」
ギルダスは言葉を切ると、懐から一つの小さな、しかし明らかに高価な宝石が散りばめられた重厚な革袋を取り出し、それを貴族の目の前の机に、コツン、と音を立てて置いた。
「これは、ほんの手付けじゃ。貴殿の領地にある寂れた鉱山、最近良質な魔晶石の鉱脈が見つかったそうじゃのう?ワシの商会が、その採掘権を『適正価格』で買い取らせて頂こう。もちろん、その利益の何割かは、貴殿の懐に『顧問料』としてお納めする。そして、この経済特区構想が実現すれば、その利益は今の十倍、いや百倍にもなるやも……?」
その言葉と、目の前に置かれた金銭と言う名の誘惑に、先ほどまで憤怒の形相だった貴族の顔が、みるみるうちに変化していく。
最初は困惑、次に計算、そしてやがて、隠しきれない欲望の色が浮かび始めた。周囲の反対派の貴族たちも、固唾を飲んでそのやり取りを見守っている。
「それに……」
ギルダスは畳み掛けるように続ける。
「ボロク将軍の軍勢も、マルバス公の領地で活動するには、莫大な兵站が必要じゃろう? それを誰が支える? 魔王城の金庫は、陛下が逝去した影響で既に寂しくなっておる。ワシのこの構想こそが、将軍の忠義の戦いを支える唯一の道かもしれぬぞ?」
甘言と、実利と、そしてほんの少しの脅し。
ギルダスの類稀なる説得術と、黄金の輝きを前にして、武骨な貴族の額には脂汗が滲み、その瞳は揺れていた。
そして、数瞬の沈黙の後、彼は重々しく口を開いた。
「……ぐ、むぅ……。ギルダス殿の仰ることも、一理……あるのかもしれんな……。魔界の、安定のため、には…」
その言葉は、もはや反対の響きを持っていなかった。
ギルダスは、その変化を見逃さず、さらに畳み掛ける。
「なんと聡明な御方か!大将軍の忠義を支えるため、貴殿がこのギルダスと手を組み、大量の軍資金を用立ててきたとなれば、大将軍派閥における貴殿の地位も、たちまち上がることは請け合いじゃろう。いやはや、先見の明がおありじゃわい!」
芝居がかった賞賛の言葉。しかし、その裏には「ワシと組めば、お前も得をするのだぞ」という、抗いがたい悪魔の囁きが隠されていた。
ついに、ボロク将軍派の貴族は、その金と地位という二重の誘惑に抗しきれなくなった。
「……う、うむ。ギルダス殿の構想、我が派閥の者たちにも伝え、前向きに検討させて頂こう。これも全ては、ボロク将軍と、魔界の未来のため……」
苦渋の表情を浮かべながらも、彼の言葉は明確にギルダス支持へと転向していた。
その様子を見ていたギルダス賛成派の者たちは、待ってましたとばかりににんまりと笑みを深め、口々に「英断ですな!」「さすがはお目が高い!」と、寝返った貴族を賞賛し始める。
一方で、依然としてギルダスに反感を抱いていた他の反対派の貴族たちは、裏切り者を見るような目でその貴族を睨みつけ、顔を真っ赤にして憤怒の表情を浮かべた。
だが、彼らが新たな抗議の声を上げるよりも早く、ギルダスは次の『顧客』へと狙いを定めていた。
「おっと、そちらの御仁!」
今度は、リラ女史派の、いかにも魔術師然とした痩身の女性の貴族だった。
「貴殿は確か、リラ女史を熱心に支持しておられましたなぁ? いやはや、女史の魔術研究への情熱、このワシも深く感銘を受けておる。つきましては、これはワシからのささやかな『研究支援』じゃが……」
ギルダスが指を鳴らすと、彼の部下であるゴブリンが、禍々しいオーラを放つ希少な魔宝石がいくつも詰まった小箱を、その貴族の前に恭しく差し出した。
「これはワシの商会が、偶然にも古代遺跡から発掘したものでしてな……これをリラ女史に献上なされば、女史の研究も大いに進み、貴殿への覚えもますますめでたくなるのではありますまいか?もちろん、女史の研究に必要なさらなる支援も、このワシが『貴殿を通して』全面的に……」
リラ派の貴族は、ゴクリと喉を鳴らし、その小箱とギルダスの顔を交互に見つめた。
主であるリラが喉から手が出るほど欲しがるであろう、その魔術宝石──それを手土産にすれば、派閥内での自分の地位は……。
「対価?いやいや、これはあくまで、ワシから貴殿への『友情』の証じゃよ。遠慮なく受け取ってくれるとありがたいのぅ……?」
その後も、ギルダスの悪魔の囁きは止まらない。
ある者には、その領地の特産品の独占交易権を約束し。
またある者には、政敵の失脚に繋がる極秘情報をちらつかせ。
さらに別の者には、その一族の長年の悲願であった爵位の昇格を、自らの経済力と影響力で後押しすると囁きかける。
金、情報、地位、そして時には恐怖。ギルダスは、相手の心の奥底に潜む欲望を的確に見抜き、それに応じた対価を提示することで、手品のように、次々と有力者たちを自らの構想へと引き込んでいく。
そして、暫くの後──。
あれほど囂々たる非難と怒号が飛び交っていた部屋は、奇妙な一体感に包まれていた。
「うむ……ギルダス殿は、誠に先見の明があり、魔界の未来を深く憂慮されておられる、立派な御方だな」
先ほどまでギルダスを守銭奴と罵っていた貴族が、神妙な顔でそう呟く。
「あぁ、彼のような実力者にこそ、これからの魔界を任せるのが、最も賢明な選択なのかもしれぬ」
別の貴族も、うっとりとした表情で同意する。
いつの間にか、あれほど明確だった反対派の姿はどこにもなく、その場にいる全ての者が、催眠術にでもかかったかのように、ギルダスの魔王城内経済特区構想を熱狂的に支持する賛成派へと様変わりしていた。
金貨王ギルダスの、最初の魔王城内における経済的征服は、こうして鮮やかに達成されたのである。
「さぁて! 皆様のご理解も十分に得られたところで……本日のところは、これにてお開きと致そうかのう! いやはや、実に、実に素晴らしい、実りのある会合であったわい!」
ギルダスは、満面の笑みで両手を打ち鳴らし、高らかに会合の終わりを宣言した。
その言葉を合図に、彼の配下であるゴブリンたちが、手際よく部屋の出口へと向かい、退出していく貴族や官僚たち一人一人に、盆に載せた豪奢な小箱を恭しく手渡していく。
受け取った者たちは、そのずしりとした重みに一瞬驚き、そしてすぐに顔をほころばせた。中身を開けなくとも、そこに何が入っているかは容易に想像がついたからだ。
皆、顔をこれ以上ないほどにほころばせ、ギルダスへ丁重な感謝の辞を述べながら、意気揚々と部屋を後にしていく。
やがて、有力者たちが全て退出すると、先ほどまでの熱気が嘘のように引いた部屋には、ギルダスと、彼の指示で帳簿の整理や金貨の勘定を続けるゴブリンたちの姿だけが残された。
パチパチと小気味よく響く算盤の音だけが、静寂を破っている。
「くっ……くくくっ……」
ギルダスは、その音を聞きながら、執務机に積み上げられた金貨の山に再び手を伸ばし、その冷たくも心地よい感触を確かめるように指でまさぐった。
最初はくつくつと、喉の奥で押し殺すような笑いだった。それが徐々に大きくなり、やがて、その肥満した巨躯を揺らし、部屋全体に響き渡るほどの、豪快な笑い声へと変わっていった。
「ぐははははっ!!!これこそが……これこそが、『金』の力!!」
彼は、愛しい恋人に語りかけるかのように、金貨に頬ずりせんばかりの勢いで続ける。
「魔王の座も、結局は『値段』次第。どれほどの武力を誇ろうと、どれほど深遠な魔術を操ろうと、それを維持し、行使するためには金が要る。忠誠心だの、誇りだの、理想だの……そんなものは、腹の足しにもならんわ!」
その狂信的とも言える拝金主義の思想は、彼にとって揺るがぬ真理であった。
高らかなギルダスの笑い声が、金銀で飾り立てられた部屋に響き渡る。
そして、彼の笑い声に呼応するかのように、机の端に危うげに積まれていた金貨の山から、一枚の金貨が床に転がり落ちた。
「なぁ、お前もそう思うだろう……?我が愛しの、黄金よ──」
黄金の輝きが、一瞬だけ、部屋の隅の闇を照らし出した。