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第8話

月が魔王城の尖塔に隠れ、城内が深い闇と静寂に包まれる真夜中。

先代魔王ヴァレリウスの国葬が執り行われた大広間は、今は弔いの灯火もほとんど落とされ、がらんとしていた。

中央には依然として巨大な棺が安置され、主亡き玉座が虚空を見下ろしている。


「……」


その静寂を破るように、一つの影が音もなく大広間に滑り込んできた。

色とりどりの道化服に、表情を隠す仮面。


──宮廷道化師フェステである。


彼は、闇に溶け込むようにして、日中に不可解な出来事が起きた場所──ボロク将軍が剣を抜こうとして叶わなかった床、そしてマルバス公爵が不自然に足を滑らせた箇所──へと歩みを進めた。

彼は、あの騒動の後、マルバス公爵の無残な死体が発見された回廊も密かに検分していた。そして今、この大広間に再び足を運んだのは、あの時感じた「違和感」の正体を突き止めるためだ。


「ふむ」


フェステは屈み込み、床の石材を指先で丹念に撫で、微かな魔力の残滓すらも逃すまいと神経を集中させる。

しかし──。


「魔法の痕跡も、なし。何ら違和感がない……か」


仮面の奥から、フェステの低い呟きが漏れた。彼の鋭敏な感覚をもってしても、そこには作為的な魔術の痕跡はおろか、何らかの仕掛けが施された形跡すら見つけることはできなかった。

まるで、本当にただの偶然であったかのように、全てが自然なのだ。


(違和感がない。あまりにも、なさすぎる。──それこそが、最大の違和感だ)


フェステの思考が、常人離れした速度で回転を始める。


──ボロク将軍の剣が抜けなかった現象。あれほどの歴戦の勇将が、自らの愛剣を抜けぬなど、あり得るだろうか。しかも、あの奇妙な音と魔力の乱れ。

──マルバス公爵が足を滑らせた床。あそこだけが都合よく濡れていたなどという偶然が、果たしてこのタイミングで起こるものか。

──そして、マルバス公爵の、あまりにも手際が良すぎる、まるで「神隠し」にでもあったかのような死に様。


(偶然……? いや、断じて違う。これら全てがただの偶然であるならば、それはもはや「奇跡」の領域だ。そして、魔界において奇跡とは、大抵の場合、誰かの強大な意志によって引き起こされる「必然」の別名に過ぎない)


フェステの仮面の下の瞳が、暗闇の中で怜悧な光を放った。


その時だった。

まるで床下から湧き出たかのように、あるいは天井の闇から音もなく降り立ったかのように、フェステの背後に一つの気配が現れた。


「──『クロウ様』」


低く、抑揚のない声だった。


「ん……? ああ、キルザエルか。早いね」


フェステは振り返ることなく、その声の主に答える。

キルザエルと呼ばれた魔族は、闇色の外套に身を包み、その顔も深いフードで窺い知れない。彼は、フェステが首魁を務める魔界最大の裏社会組織「奈落の劇場(アビス・シアター)」において、その右腕とされ、暗殺・諜報・破壊工作の全てにおいて魔界随一と謳われる暗者であった。

そして、「クロウ」とは、この奈落の劇場を支配する者、すなわちフェステの裏社会における忌み名。その名に逆らった者は、たとえどれほどの権力者であろうとも、一族郎党に至るまで、最も無残で、最も苦痛に満ちた死が確約されると噂される、恐怖の象徴。


キルザエルは、フェステの背後で音もなく跪き、深く首を垂れていた。


「そちらの様子はどうだい?」


フェステは、依然としてマルバスが滑った床を見つめたまま、静かに問う。


「はっ。ご指示通り、公爵領内の全ての主要都市、街道、港湾に、既に我らが『役者』どもを潜伏させております。また、ボロク、グロム、そしてギルダスの各軍勢の内部にも、複数の『観客』が紛れ込み、その動向を逐一こちらへと送っております」


キルザエルの報告は、淡々としていながらも、その内容は奈落の劇場の恐るべき浸透力と情報網の広さを示していた。

彼らは、マルバス公爵の死という「新たな演目」の幕開けと同時に、空白となったその領地で、既に次なる「舞台」の準備を始めていたのだ。

フェステは、その報告を黙って聞いていた。彼の仮面の下で、一体どのような算段が巡らされているのか、キルザエルですら正確に読み取ることはできない。


やがて、フェステは短く、しかし確かな意志を込めて命じた。


「『奈落の劇場』の全ての『役者』と『観客』に伝えろ。マルバス公爵を殺害した下手人の特定、及び、他の魔王候補者たちの全ての動向──特に、葬儀の日以来の不審な動きや、彼らが接触した人物、使用した魔術の痕跡など、些細なことでも見逃さず、全てを報告せよ、と」


その声には、いつものような軽薄な響きはなく、獲物を狙う獣のような、冷たく鋭い響きが宿っていた。


「御意。クロウ様の望むままに」


キルザエルは再び深く頭を垂れると、次の瞬間には、まるでその場に溶け込むように、音もなく姿を消していた。


一人残されたフェステは、キルザエルが消えた闇を一瞥することもなく、再び思考の海へと意識を沈めていく。

あまりにも不可解なことの連続。マルバスの死。葬儀での奇妙な現象。

そして、何よりも、これだけの事態が起こっていながら、その実行犯に繋がる確たる証拠が何一つ見つからないという事実。


「……」


フェステは、広間の冷たい石畳の上をゆっくりと歩きながら、無言で思案を続けていた。

だが、いくら思考を巡らせても、既存の候補者たちの誰かの犯行とは、どうしても思えなかった。


──何かが違う。何かが、決定的に欠けているか、あるいは、こちらの想定を遥かに超えているのだ。


不意に、フェステの足が止まった。

ある一つの思考が、彼の脳裏を稲妻のように貫いたのだ。


(この『魔王継承戦』……まさか、候補者たち以外にも……我々の誰もが認識していない、『何者』かが、この盤面に関与している──?)


その思考に辿り着いた瞬間、フェステの全身に、まるで電流が奔るかのような、鋭い戦慄が襲った。

そうだ、それならば説明が付く。

確たる証拠は何もない。だが、この魔界の裏社会を牛耳り、あらゆる情報に通じているはずの自分──この「クロウ」が、これほどまでに何の証拠も掴めないこと、それこそが、逆に最大の証拠ではないのか。

通常であれば、どれほど巧妙に隠蔽しようとも、必ずどこかに痕跡が残る。情報の欠片が漏れる。


──だが、今回はそれがない。あまりにも綺麗すぎるのだ。


そして……もし、その『何者』かがいるとすれば、それは、我々魔族の常識や理解を、遥かに超えた存在である可能性が高い──。

フェステの仮面の下の瞳が、これまでに見せたことのないほど、深く、そして暗い光を宿した。それは恐怖か、あるいは、途方もない謎を前にしたことによる、歪んだ歓喜か。


「……ははっ」


不意に、フェステはまるで舞台役者が独白を始めるかのように、大袈裟な身振りで両手を広げた。


「ああ、なんと嘆かわしい!そして、なんと滑稽な悲喜劇でありましょうか!」


その声は、先ほどまでの内省的な呟きとは打って変わって、朗々と、しかし誰もいないはずの大広間に芝居がかって響き渡る。

彼は、ゆっくりと、観客の拍手を浴びる名優のように、中央に安置された魔王ヴァレリウスの棺へと歩み寄った。


「偉大なる魔王ヴァレリウス陛下。貴方様が築き上げたこの魔界も、貴方様の死という『閉幕』と共に、かくもあっけなく、新たな『舞台』へと様変わりいたしました」


フェステは、棺の縁に優雅に片手を置くと、芝居がかった溜息をつく。


「残された我々は、次の主役の座を巡って、醜くも健気に踊り続ける道化でございます。ええ、私めも、その一人として、この舞台を大いに盛り上げさせて頂く所存。貴方様も、さぞや高みから、この混沌を愉しんでおられることでしょう?」


その言葉には、故人への敬意など微塵も感じられない。ただ、この状況そのものを、一つの壮大な「演劇」として捉えているかのような、冷めた遊戯者の視線だけがあった。

フェステは、しばし棺の中の魔王に想いを馳せるかのように沈黙したが、やがて、仮面の奥から、くつくつと笑い声を漏らしながら、最後の言葉を投げかけた。

その声は、皮肉と、ほんの僅かな、しかし確かに感じられる複雑な感情の欠片を含んでいた。


「さようなら、偉大なる魔王陛下。貴方様がお亡くなりになったお陰で、この魔界の秩序は、実に綺麗さっぱりと、そして見事に壊れ果てましたよ。それはもう、芸術的なくらいにね」


そして、フェステはひらりと身を翻し、大広間の出口へと向かう。その背中は、大役を終えた役者のように、どこか満足げにさえ見えた。

闇に溶けるように、彼の姿がまさに消えようとする最後の瞬間、ほとんど独り言のような、それでいて確かな響きを持った言葉が、静寂の中にぽつりと落ちた。


「……でもね、陛下。俺は、貴方のことを……そう、嫌いじゃあ、なかったんだけどね──」


その言葉を最後に、仮面の道化師の気配は完全に消え失せた。

後に残されたのは、主を失った玉座と、静かに横たわる魔王の亡骸、そして、これから始まるであろう、さらに深く、そして予測不能な混沌の予感だけだった。


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