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第7話

魔王城の西楼の一室。

豪奢ながらも華美に過ぎない調度品が供えられたその部屋は、歴代王女の住まいであった。

窓辺には、魔界では珍しい清楚な白い花が、小さな鉢の中で可憐に咲いている。


「……」


その窓辺に、一人の少女が物憂げな表情で佇み、移り変わる魔界の空を眺めていた。

長く艶やかな銀の髪は、月光を編み込んだかのようにきらめき、大きな碧眼は、深い森の泉を思わせる神秘的な色合いを湛えている。雪のように白い肌、華奢な肩、そして白いシンプルなドレスに身を包んだ姿は、およそ魔族とは思えぬほどの儚さと清らかさを感じさせた。

彼女こそ、アリア姫──数百年に渡り魔界を統べた先代魔王ヴァレリウスが、唯一残した直系の血を引く一人娘である。

その出自と、類まれなる美貌、そして何よりもその心優しい性格から、魔王城内でも彼女を慕う者は少なくない。


「ふぅ……」


アリアは何をするわけでもなく、ただ外を見ていた。その小さく美しい口から幾度となく、溜息が漏れる。

そんなアリアの背後で、静かに扉が開く気配がした。彼女付きの侍従である、年若いメイドの魔族が、銀の盆に載せた紅茶を手に、恭しく部屋へと入ってきた。


「アリア様、温かい薬草茶をお持ちいたしました。少しは、お心が休まればと……」


メイドは、アリアの傍らの小卓に紅茶を置きながら、心配そうに姫の顔を窺う。その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。


「ありがとう、リーネ」


アリアはメイドへ力なく微笑みかけると、再び窓の外へと視線を戻す。その横顔には、深い憂いが影を落としていた。


「アリア様……魔界は、一体どうなってしまうのでしょう。マルバス公爵様があのような無残な姿で発見されたと聞き、城内の者たちは皆、恐怖に震えております。それに……」


リーネは、声を潜めながらも、抑えきれないといった様子で言葉を続ける。


「公爵様の領地では、早くもボロク将軍やグロム様の軍勢が動き出しているとか……。このままでは、魔界全土が再び大きな戦乱に巻き込まれてしまうのではと……」


その言葉に、アリアの肩が小さく震えた。彼女の大きな瞳が、さらに悲しげに潤む。

父が守り、平和を願ったはずの魔界が、その死をきっかけに、再び血で血を洗う争いの渦へと引き戻されようとしている。その現実に、彼女はただ心を痛めることしかできなかった。

そもそも、アリアがこの魔王候補者という、血腥い争いの渦中にその名を連ねていること自体、彼女にとっては理解し難いことであった。

それは他ならぬ、父である先代魔王ヴァレリウスの遺言によるもの。魔王城の宰相が厳粛に読み上げた「次代の魔王候補者」のリストの最後に、確かにアリアの名は記されていたのだ。

他の候補者たちが、いずれも魔界に名だたる武勇や知略、あるいは広大な勢力を持つ者たちであるのに対し、自分は……。


(──お父様。力も、特別な才も持たぬ、ただの魔族の小娘であるこの私を、なぜ、魔王候補などという、身に余る立場にお選びになったのですか……? 私には、この混乱を収めることも、ましてや魔界を導くことなど、到底できはしないというのに……)


アリアは胸の中で、今は亡き父へと問いかける。

その声なき声は、誰に届くこともなく、彼女自身の深い悲しみと無力感を増幅させるだけだった。


「アリア様……お気を落とさずに。ヴァレリウス様には、きっと深いお考えがあったはずでございます」


リーネは、アリアの心中を察したかのように、慰めの言葉をかける。しかし、その言葉も、今の彼女の心にはなかなか届かない。


やがて、リーネが心配そうに一礼して部屋を辞すると、アリアは一人、窓辺に佇み続けた。

いつまでもこうして物思いに沈んでいても、何も変わらない。父が遺した謎めいた遺言の真意は分からないままだが、それでも、このまま手をこまねいているだけでは、魔界がさらなる混沌へと突き進んでしまうことだけは確かだった。


(……私にできることは、少ないかもしれない。でも、何もしないわけにはいきません……)


アリアは、きゅっと唇を結んだ。その碧眼に、微かではあるが、決意の光が宿る。

いつまでも悩んでいても仕方がない。自分にできることを、一つずつでも見つけていかなくては。

そう思うと、彼女の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。いつも静かで、博識で、そして何よりも、自分の話を辛抱強く聞いてくれる、あの人の顔が。


アリアは、そっと窓から離れると、部屋の扉へと足を向けた。向かう先は、古の知識が眠る場所──大書庫。そして、そこにいるはずの、彼女が唯一心を許せる相手の元へ。




♢   ♢   ♢




重厚な黒檀の扉を、アリアは自らの手でゆっくりと押し開けた。軋むような音と共に現れたのは、想像を絶するほど広大な空間だった。

魔王城にある大書庫。そこは、天井が見えないほど高く積み上げられた書架が、迷宮のようにどこまでも続いている場所。空気はひんやりと澄み渡り、古い羊皮紙と乾燥したインクの匂いが、静寂と共にアリアの鼻腔をくすぐる。

床に敷き詰められた分厚い絨毯が足音を吸い込み、ここでは世界の喧騒すらも届かないかのような、絶対的な静謐さが支配していた。

窓から差し込むのは、磨りガラスを通した柔らかな光だけで、それが無数の書物の背表紙に神秘的な陰影を落としている。

ここは、時の流れから切り離された、知識の聖域。アリアは、この場所の持つ独特の静けさと、そこにいるだけで心が落ち着くような不思議な雰囲気が好きだった。


「……」


彼女は、迷路のような書架の間を、慣れた足取りで進んでいく。目指すのは、大書庫の最も奥まった一角。そこに、いつも彼がいることを、アリアは知っていた。

高くそびえる書架の壁をいくつも抜け、ようやく開けた場所に辿り着く。そこは、他の場所よりも少しだけ明るく、大きな読書用の机と、いくつかの心地よさそうな椅子が置かれた、ささやかな空間だった。


アリアが、そこにいるはずの人物の名を呼ぼうとした、その時。


「──おや、アリア姫。どうされました?」


不意に、背後から穏やかで、どこか眠たげな、けれど聞き慣れた声がかけられた。

その声に、アリアははっと顔を上げた。先ほどまでの深い憂いを湛えていた彼女の碧眼が、明るい輝きを取り戻す。


「エルシーさん」


アリアが弾むような声で振り返った先には、書架の影から音もなく現れた一人の青年が、静かに立っていた。

彼は、この魔王城大書庫の番人、エルシー。

闇夜をそのまま切り取ったかのような、どこまでも深い艶のある黒髪。雪のように白い肌は、書庫の薄暗がりの中ですら微かに光を放っているように見える。


「その……お話がしたくて」


エルシーとアリアの関係は、彼女がまだ幼い少女だった頃にまで遡る。

父である先代魔王ヴァレリウスが、ある日「会わせたい魔族がいる」と、この大書庫へアリアを連れてきて引き合わせたのが最初だった。以来、アリアにとってエルシーは、年の離れた兄であり、何でも話せる親友であり、そして時には父以上に頼れる、家族のような存在となっていた。

この広大で、ほとんど誰も寄り付かない書庫は、アリアにとって心の避難所であり、エルシーはその管理人として、いつも変わらず彼女を迎え入れてくれるのだ。

アリアの言葉に、エルシーは常のように穏やかな笑みを浮かべると、柔らかく彼女を手招きし、奥の読書用の椅子に座るよう促した。

アリアが促されるままに腰を下ろすと、エルシーもまた、彼女の向かいの椅子に静かに腰を下ろす。


「私でよろしければ、喜んでお相手いたします。……先代魔王様がお亡くなりになり、姫様のご心中お察しするに余りありますので……」


エルシーの声は、書庫の静寂に溶け込むように優しく、アリアの強張っていた心をそっと解きほぐしていく。


「エルシーさん……」


アリアは、おずおずと顔を上げた。その碧眼は、頼れる相手を前にして、少しだけ潤んでいる。


「お父様が亡くなって、マルバス公爵まであんな形で……この魔界は、これからどうなってしまうのでしょう。私、魔王の後継者候補だなんて言われても、何をどうすればいいのか、さっぱり分からないのです。他の候補者の方々は、皆、力もあって、領地もあって……でも、私には、何も……」


言葉の最後は、消え入りそうなほどか弱かった。彼女の白い手が、不安げに膝の上で握りしめられる。

エルシーは、アリアの言葉を一つ一つ、静かに頷きながら聞いていた。彼女が話し終えるのを待って、彼はゆっくりと口を開く。


「確かに、今の魔界は混沌としており、先の見えぬ不安が満ちていることでしょう。──ですが、姫様」


エルシーは、アリアの瞳をまっすぐに見つめる。


「力だけが、魔王の資格ではございません。武勇や知略だけが、この魔界を導く術ではないはずです。ヴァレリウス様が姫様を候補者とされたのには、きっと深いお考えがあったのでしょう。


彼は、ふと窓の外に視線を移し、そして再びアリアへと向き直る。


「姫様には、姫様にしかお出来にならないことが、きっとあるはずです。その優しさ、その慈悲深さこそが、今の荒んだ魔界に最も必要とされている光だと、私はそう信じております」


その言葉は、まるで温かい陽光のように、アリアの凍えそうな心に染み渡っていく。


「それに……」


エルシーは言葉を続ける。


「姫様は決して一人ではございません。例えば、ボロク将軍。彼はヴァレリウス様に絶対の忠誠を誓っていた武骨な方ですが、その忠誠心は本物です。あるいは、沈黙の騎士サイレス殿。彼もまた、独自の正義感と強大な力を持つ、信頼に値する騎士でしょう。彼らのような方々と、姫様の清らかな理想が手を結べば、それは大きな力となり得るかもしれません。一度、お話しされてみてはいかがでしょう?」


エルシーの具体的な助言は、暗闇の中で途方に暮れていたアリアにとって、確かな道筋を示してくれたように感じられた。

そうだ、自分は一人ではない。そして、自分にしかできないことがあるのかもしれない。

彼と話しているうちに、あれほど重く胸にのしかかっていた不安や恐怖が、少しずつ軽くなっていくのを感じた。

鉛色だった心に、再び柔らかな光が差し込み始めたような、そんな温かい気持ちになっていた。


「エルシーさん……ありがとうございます。少し、霧が晴れたような気がします。私、諦めずに、自分にできることを探してみます」


アリアの碧眼に、再び以前のような澄んだ輝きが戻っていた。

その顔には、まだ幼さを残しながらも、確かに前を向こうとする意志の力が浮かんでいる。


「それはようございました、姫様」


エルシーは、そんなアリアの言葉に満足そうに頷くと、ふと、彼女の銀色の髪にそっと手を伸ばし、優しくその頭を撫でた。

それは、彼女がまだ幼かった頃、悩んだり落ち込んだりしていると、彼がいつもしてくれた励ましの仕草だった。


「……!」


アリアは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに頬を緩ませる。昔と変わらないエルシーの温かい手に、彼女の心はさらに安らぎで満たされていった。


「頑張りすぎませんように、姫様。時には、この書庫で羽を休めることもお忘れなく」

「はい……!本当に、ありがとうございました、エルシーさん」


心からの感謝を述べると、アリアは名残惜しそうに、しかし先ほどよりもずっと確かな足取りで、広大な書庫を後にした。

彼女の白いドレスの裾が、迷宮のような書架の影へと消えていくのを、エルシーは静かに見送っていた。


「……」


やがて、アリアの足音が完全に聞こえなくなり、大書庫が再び絶対的な静寂に包まれる。

彼は書庫の奥、窓から射す陽光が作り出す光の円の中心へと歩を進める。


「──ぎゃは」


次の瞬間。


それまでアリアに向けていた、穏やかで慈愛に満ちた書庫番エルシーの顔は、どこにもなかった。

光に照らし出されたその貌は、愉悦と狂気に醜く歪み、その紫水晶の瞳は、まるで獲物を見つけた獣のように、あるいは全てを嘲笑う悪魔のように、爛々と輝く。


「あぁ、アリア姫。お前はなんと哀れで、惰弱で、そして…ああ、なんて儚く、愛おしい存在なんだ──」


──書庫番エルシー。それは、太古の超越者・エルピスの化身。


彼の喉から漏れ出たのは、先ほどまでの優しい声音とは似ても似つかぬ、低く、そしてどこか熱に浮かされたような、独白だった。

アリアの純真さ、その一点の曇りもない善意、そして力なき故の弱さ。

それらは、エルピスにとって嘲笑の対象であると同時に、なぜか彼の心を捉えて離さない、奇妙な愛着を抱かせるものだった。

かつて、己の「作品」であったヴァレリウスが時折見せた、愚かしいまでの青臭い理想論。あるいは、もっと遥かな昔、エルピスという存在に初めて「不可解な感情」を刻み付けた、あの人間の女の面影か。

その「愛しさ」の正体が何であるのか、エルピス自身にも判然としない。だが、その理解できない感情こそが、彼の悠久の退屈を紛らわす、最高の刺激であることもまた事実だった。


「お前は俺の最高の玩具だ。お前がこれからどんな顔で泣き叫び、どんな顔で絶望し、そして……どんな『傑作』へと成り果てるのか。それを思うだけで……俺の永劫の虚無が、鮮やかに彩られるのだから──」


エルピスの肩が、小さく震える。


「ひっ……」


エルシーを演じ、駒を動かし、盤面を支配する。その遊戯の中で、アリアという存在は、あまりにも不確定で、脆く、そしてそれ故に──最高の玩具。


「ひひっ……あはっ……ぎゃははははははは!!!!!」


美しい顔をさらに歪ませ、エルピスは腹の底から狂ったような哄笑を上げた。

それは、アリアの運命を弄ぶことへの期待か。彼女がこれから見せるであろう、絶望か、あるいは予想外の抵抗か。その全てが、彼にとってはたまらない娯楽なのだ。

悍ましい笑い声だけが、古の知識と共に静寂を守ってきたはずの大書庫に、そしてアリア姫の運命を暗示するかのように、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。

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