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第6話

先代魔王ヴァレリウスの死、そして有力候補であったマルバス公爵の不可解な死──その二つの衝撃は、魔王城を中心に魔界全土へと急速に伝播し、新たな時代の幕開けを否応なく告げていた。

特に、広大な領地と莫大な富を誇ったマルバス公爵の突然の死は、力によって均衡を保っていた魔界の勢力図に、致命的な亀裂を生じさせる。

その亀裂……空白となった権力の座と利権を埋めんと、魔王城に詰める後継者候補たちからの指令を受け、各地の軍勢が色めき立ち、動き始めていた──。




♢   ♢   ♢




マルバス公爵領東部国境にて──『大将軍』ボロク麾下・第七魔王軍団




「──総員、進軍を開始せよ!目指すは公爵領都アルマゲスト!まずは、主要な街道を封鎖、制圧せよ!ボロク大将軍からの厳命である!この混乱に乗じて不埒な輩が領民を虐げることのなきよう、速やかに秩序を回復するのだ!」


歴戦の魔族兵士、百人隊長ザルガスは、騎乗した黒鱗の軍飛竜の上から、眼下に広がる自らの部隊へ向けて檄を飛ばした。

地上、黒金の鎧に身を固め、巨大な戦斧や長槍を携えたオーガやミノタウロスといった屈強な魔族兵たちが、整然と隊列を組んで続いている。

その行軍は、一糸乱れぬ規律と、大地を揺るがすような重厚さを伴っている。


「隊長、グロムの『赤牙戦団』の一部が南から迫っているとの報告が!」


傍らの副官が、そう報告する。


「……あの獣どもが動いたか。だが、所詮は烏合の衆よ。我ら魔王軍本隊の威光の前に、道を譲るか、あるいは塵となるか、選ばせてやればよかろう」


ザルガスは吐き捨てるように言ったが、その表情には隠せない緊張が滲んでいた。

マルバス公爵の死は、あまりにも突然で、そして不可解だった。この進軍が、新たな戦乱の火種となることは、彼のような百戦錬磨の兵士には痛いほど分かっていた。

彼の視線の先には、マルバス公爵領の豊かな穀倉地帯と、それを繋ぐ交通の要衝が見えている。

そこを抑えることが、何を意味するのか──。一介の百人隊長である彼にも、嫌というほど理解できているのだ。




♢   ♢   ♢




マルバス公爵領南部にて──『百獣王』グロム麾下・赤牙戦団先遣部隊




「グオオォォォォ!!」


血のように赤い満月が空に昇る頃、マルバス公爵領南部の広大な森林地帯に、獣の咆哮が木霊した。

率いるのは、狼の頭部を持つ屈強な魔獣人、赤牙戦団の千人長ウルガだ。彼の周囲には、熊や虎といった猛獣の特徴を持つ獣人兵や、牙を剥き出しにした巨大な魔獣たちが、殺気と野性を剥き出しにして集結している。


「聞いたか、野郎ども!あのデブマルバスがくたばったらしいぜ! あの豚が溜め込んでた財宝も、美味そうな肉も、そしてあの土地も、全部俺たちのモンだ!グロム様からのご命令だ、手当たり次第、喰らい尽くせ!」


ウルガが巨大な戦棍を振り上げると、呼応するように獣人兵たちが鬨の声を上げ、魔獣たちが唸り声を上げる。

彼らに複雑な戦略や大義名分などない。ただ、強き者が弱き者を喰らう、それだけが彼らの世界の絶対的な法則だった。

規律も何もない、まるで雪崩のような勢いで、彼らはマルバス領の村々へと牙を剥き、進撃を開始する──。




♢   ♢   ♢




マルバス公爵領中央商業都市にて──『金貨王』ギルダス麾下・黄金傭兵団及びギルダス大商会私兵団




「──よろしいですか、皆さん。我々の目的は『交渉』です。あくまでも、マルバス公爵亡き後の混乱から、この由緒正しき商業都市の『経済活動』と『市民の皆様の財産』を保護するために、ギルダス様のご命令により派遣されたのです。決して、略奪や破壊が目的ではありませんよ?あぁ、もちろん、抵抗する愚か者に対しては……『合理的な処置』もやむを得ませんがね」


マルバス公爵領最大の商業都市の城門前。金糸で彩られた豪奢な戦装束をまとった、ダークエルフ族の大商会副会長が、にこやかな笑みを浮かべながらも、その瞳の奥に冷たい光を宿して部下たちに指示を出していた。

彼の前には、ゴブリンやオークといった種族で構成されながらも、最新式の武具で統一されたギルダスの黄金傭兵団と、多種族で構成されたギルダス大商会の屈強な私兵たちが整然と並んでいる。

彼らは、武力で都市を制圧するのではなく、まずはギルダス商会の名で都市の有力商人や貴族たちに接触し、「保護契約」と称する実質的な支配権の譲渡を迫っていた。

拒否すればどうなるか──それを理解させるための「説得力」として、兵たちが睨みを利かせているのだ。


「ふん、魔王軍の筋肉馬鹿どもや万獣荒野の獣どもが土と血にまみれてる間に、俺たちは公爵の『金脈』をいただくってわけだ。ギルダス様のやり方は、いつだってスマートで最高に儲かるぜ」


商会私兵団隊長の、人間族の男が、ニヤリと笑いながら副会長に話しかける。

その隣にいた黄金傭兵団のゴブリンの管理官も、算盤や帳簿を手にしながら口を開いた。


「その通りでございますねぇ、隊長殿。商業都市の物流と市場を押さえれば、マルバス公爵領全体の富は、いずれ全てギルダス様のお手元に。ホッホッホ」


ゴブリンは、小さな金色の瞳をいやらしく細め、計算高い笑い声を上げた。

彼らにとって、この領土争奪戦は、血生臭い戦争ではなく、巨大な利益を生み出す「ビジネスチャンス」に他ならなかった。

両隣に佇む、二人の話を聞きながら、ダークエルフの副会長は満足げな笑みを浮かべ、そして宣言した。


「さぁ、これから『交渉』を始めましょう──」




♢   ♢   ♢




魔王城の最上階に近い一室。そこは、宮廷魔術師筆頭リラの私室兼研究所であった。壁一面を埋め尽くすのは、古今東西の魔導書がぎっしりと詰まった書架。

部屋の中央には黒曜石の大きな円卓があり、その上には複雑な魔法陣が刻まれ、微弱な光を放っている。


その円卓に置かれた水晶玉──否、それは魔力を注ぎ込むことで遠方の光景を鮮明に映し出す高度な魔道具「千里水晶」──を、リラは細められた瞳で覗き込んでいた。

水晶には、マルバス公爵領で繰り広げられる、ボロク軍、グロム軍、ギルダス軍の、それぞれの進軍の様子が、映し出されている。


「あぁ、なんて浅ましいの。獣は獣らしく牙を剥き、武人は武人らしく秩序という名の欺瞞を叫び、商人は商人らしく算盤を弾く。芸がないにも程があるわ」


リラは、水晶から目を離さずに、冷ややかな声で呟いた。

その声には、他の候補者たちの力任せで短絡的な戦略に対する、隠しようもない侮蔑の色が濃く滲んでいる。

それを聞き、傍らに控えていた、彼女の腹心である壮年の魔術師が、恐る恐る口を開いた。


「リラ様……しかし、奴らは侮れません。特にグロムの赤牙戦団は、既にいくつかの村落を蹂躙し、その勢力を拡大しつつあるとのこと……」

「……勢力?ふふっ。あのような野蛮な略奪で得たものが、真の勢力と呼べるかしら。土地も民も、恐怖や一時的な利益で縛ったところで、いずれ離反するわ。真の支配とは、もっと深く、もっと静かに、相手の魂そのものを掌握すること……」


リラはそう言うと、水晶に映る騒がしい戦場の光景からふいと顔を上げた。その深紫色の瞳は、腹心の魔術師の奥底まで見透かすように、怜悧な光をたたえている。


「力で都市を奪い、富を略奪する…そんなものは、子供の遊び。わたくしが求めるのは、そんな表層的なものではない。より深遠な、より絶対的な『力』…そして、それを可能にする『知識』。そのためには、このような非効率なやり方では百年かかっても辿り着けないわ」


彼女の言葉には、魔王の座すらも単なる手段と見なすかのような、底知れぬ渇望が込められていた。


宮廷魔術師筆頭リラ──。


彼女は、魔族の中でも特に精気や魔力を糧とし、他者を魅了する術に長けたサキュバス族に属する。

しかし、彼女はその中でも特異な存在であった。通常のサキュバスが持つ魅了の力や、精気を吸収する能力に加え、リラは生まれながらにして規格外の膨大な魔力と、魔術という体系への異常なまでの探求心と適性を持ってこの世に生を受けたのだ。

その魔力は、熟練の大魔術師数百人分にも匹敵すると言われ、魔術の複雑な理論を瞬時に理解し、新たな術式を編み出すその才能は、魔界広しといえども彼女の右に出る者はいないとまで囁かれる。

背中に広がる、夜空の色を映したかのようなサキュバスの翼は、ただ美しいだけでなく、彼女の膨大な魔力を効率的に集束させ、増幅させる器官でもある。

妖艶な美貌と、魔術師としての冷徹な知性、そしてサキュバスとしての本能的な狡猾さを併せ持つ彼女は、まさに魔界一の魔術師。

それが、リラという存在の本質であった。


リラは、水晶に映る騒がしい戦場の光景からふいと顔を上げた。その深紫色の瞳は、傍らに控える腹心の壮年の魔術師を射抜くように見据える。


「コルネリウス」

「はっ」

「マルバス公領内の全ての魔術ギルドに伝令を。『領内の情報網の一切を掌握し、逐一こちらへ報告せよ』と。抵抗する者は……そうね、『処理』なさい。物理的な抵抗が予想される場合は、『影の針』を使っても構いません」


『影の針』とは、リラ直属の魔術師からなる少数精鋭の暗殺・工作部隊のことだ。

その言葉に、コルネリウスは微かに息を飲んだが、表情を変えずに恭しく頭を垂れた。


「次に、公領内の主要三都市……アルマゲスト、シルヴァニア、ダグザ。それぞれの都市の有力貴族、大商人たちに我が『親愛の情』を伝えなさい。言葉で理解できぬ者には、ささやかな『夢』を見せて差し上げるといいわ。彼らが自ら、わたくしへの協力を申し出るような、そんな心地よい夢をね」


それは、精神干渉系の上級魔術による懐柔を示唆していた。

相手の深層心理に潜り込み、最も効果的な「説得」を行うのだ。


「それから……」


リラは水晶に視線を戻し、ボロクやグロム、そしてギルダスの軍勢が映っている箇所を細い指先でなぞる。


「あの老将軍や、野蛮な獣、それと金狂いの豚の軍勢が、これ以上無駄に勢力を拡大するのは目障りね。彼らの補給線に、いくつか『小さな事故』が起きるよう手配してちょうだい。あくまで自然現象に見えるように、ね。例えば、崖崩れとか、沼の毒気とか……そういったものが『偶然』彼らの通り道で発生するように」


その指示は、直接的な戦闘を避けつつも、確実に敵の力を削ぐための、陰湿かつ効果的な妨害工作だった。

コルネリウスが全ての指示を復唱し、退出の許可を求めようとした時、リラはふと何かを思い出したように、水晶の隅に映る、ある光景に眉をひそめた。

そこには、古戦場跡らしき場所で、無数のアンデッドが蠢き、新たな死体を掘り起こしている様子が映っていた。


「……あのイカれ聖女も相変わらずね。死体を弄んで、悦に入っているのかしら。まあ、いいわ。あれは関わると厄介なだけ。今のところは放置しておきましょう。下手に刺激して、こちらに牙を剥かれても面倒くさいもの」


アンデッドの集団、死屍兵の不気味な動きを一瞥すると、リラは再び水晶の中央、マルバス領を巡る混沌とした情勢へと意識を戻した。

全ての指示を出し終え、コルネリウスも部屋を辞去すると、室内には再び静寂が戻る。

リラは一人、水晶玉に映し出される、力と力、欲望と欲望がぶつかり合う愚直なまでの争いを眺めながら、その美しい唇に、静かで、しかし絶対的な確信に満ちた妖艶な微笑みを浮かべた。


「……愚かね。本当の『力』が何たるかも知らずに、ただ吠え、ただ奪い合うだけだなんて」


その独白は、誰に聞かせるでもなく、彼女自身の冷徹な野望を再確認するかのように、静かな部屋に溶けていった。

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