先代魔王ヴァレリウスがその寿命を終えたことにより、魔界は新たな指導者を求める時代へと突入した。
しかしそれは、魔王が残した遺言の通りに、事が進んでいるだけである。
「魔界の未来を託すに足る者、全ての勢力が真に認め、頭を垂れる者こそが、次代の魔王たるべし」
その言葉は、候補者たちに血で血を洗う殺し合いを強要するものではなかった。
──だが同時に、それを禁じるものでも決して、ない。
故に、後継者たちは己の力を示し、他者を蹴落とし、あるいは懐柔し、自らが「認められる者」とならんがため、水面下で激しい駆け引きを繰り広げることとなった。
そして今、その均衡は一人の候補者の凄惨な死によって、あまりにも唐突に、そして決定的に破られた。
魔王継承戦は、有力候補の一角であったマルバス公爵の「排除」という形で、血塗られた本戦の幕を、静かに……しかし確実に上げたのである──。
♢ ♢ ♢
「な、なんだこれは……なんという惨い死に方だ……!」
魔王城の一角、薄暗い石造りの回廊。そこには、おびただしい血の匂いと、兵士たちの混乱した声で満たされていた。
発見されたのは、マルバス公爵と、その供回りの者たちだった者たちの、もはや原型を留めぬほどに破壊された亡骸。
ある者は胸部を吹き飛ばされ、ある者は黒い棘に貫かれ、またある者は原因不明の炎に焼かれたかのように炭化している。その中心には、首を失ったマルバス公爵の肥満体が、不気味な存在感を放って転がっていた。
「ひぃっ……!公爵様が……!」
「何が起こったのだ、一体……!?」
駆けつけた魔王城の兵士たちは、そのあまりにも凄惨な光景を目の当たりにし、蒼白な顔で右往左往している。
恐怖に声を引きつらせる者、吐き気をこらえて顔を背ける者、上官に報告のため慌ただしく走り去る者。
魔王後継者候補の一人が、しかもこれほど残忍な手口で殺害されたという衝撃的な報せは、疫病のように、瞬く間に魔王城の隅々まで広まっていった。
「……」
魔王城の兵士たちが、恐怖と混乱の中で右往左往している。その喧騒の中に、場違いなほど静かに佇む、ひときわ異彩を放つ魔族が一人いた。
色とりどりの道化服に、表情を隠す仮面……。
およそこのような凄惨な現場には似つかわしくないその男こそ、魔王候補者の一人、宮廷道化師フェステであった。
彼は、他の誰よりも早くこの現場に駆け付けたうちの一人だったが、ただ黙って、無残に転がるマルバスだったものと、その周囲の惨状を眺めている。
(マルバスが、殺された……?あの、マルバスが、こんなに、呆気なく?)
フェステの仮面の下で、唇が微かに震えたような気がした。それは驚愕か、あるいは別の何かもっと深い感情の発露か。
彼の胸の内には、突如としてぽっかりと空いた巨大な虚無感と、長年追い求めたものが不意に目の前から消え失せたことへの、行き場のない激情が渦巻いていた。
そのフェステの思考を遮ったのは、現場検証にあたっていた兵士たちの、ひそひそとした会話だった。
「おい、聞いたか? マルバス公爵の領地なんだが……」
「ああ、もう動きがあったらしいな。なんでも、ボロク将軍の直轄軍の一部が、国境線に向かっているとか」
「それだけじゃない。 グロム様の『赤牙戦団』も南から集結中、ギルダス様の『黄金傭兵団』に至っては、もういくつかの主要都市を『経済的保護』下に置いたって話だ」
「リリアナ様の『死屍兵』も、公爵領の古戦場跡で不気味な動きを見せてるらしいぜ……まだ公爵様が死んで半日も経ってねぇってのによ」
マルバス公爵は、その個人的な戦闘能力こそ他の候補者に劣るものの、魔界でも有数の広大で肥沃な領地をいくつも支配していた大貴族だ。
その彼が死に、魔王城からの正式な指示もない今、力によって生まれたその広大な空白地帯は、他の候補者たちにとって格好の「餌」以外の何物でもなかった。
(一人が欠ければ、残りがその肉を喰らい合う。実に分かりやすい、魔族らしいやり方だな……)
フェステは、仮面の奥でフッと自嘲とも感嘆ともつかぬ息を漏らした。
死を利用してまで、自らの勢力拡大に奔走する他の候補者たちの、その浅ましさ、そして魔族としての逞しさに、彼は一種の歪んだ面白さを感じずにはいられなかった。
(しかし、マルバスを殺したのは一体誰だ……?)
内心で、フェステは改めて思考を巡らせる。
自分ではない。それは確かだ。長年追い求めた獲物を、こんな形で横取りされるとは──そう、残念ながら、『先を越されて』しまった、というのが正しい。
あの無様な男に、自ら引導を渡すという長年の愉悦を奪われたことに対する、底冷えのするような悔しさが、仮面の下でフツフツと煮え滾る。
(将軍や沈黙の騎士、獣王ではあるまい。奴らは、正面からのぶつかり合いを『誇り』だの『戦士の流儀』だのと、くだらない美学で塗り固めた、俺には到底理解できぬ愚か者どもだからな……)
だとすれば、残るは──。フェステの脳裏に、他の候補者たちの顔が次々と浮かぶ。
魔王ヴァレリウスの血を引くというだけで候補者面をしている、お花畑の姫君。
妖艶な笑みの下に底知れぬ野心を隠す、腹黒い宮廷魔術師筆頭。
金のことしか頭にない、強欲な守銭奴ゴブリン。
死こそ救済と嘯く、狂ったアンデッドの聖女。
(あの姫にこんな芸当ができるとは思えん。リラならばやりかねないが、これほど手際が良いか? ギルダスは金で暗殺者を雇えば可能だろうが、これほどの腕利きを雇えるか?リリアナ……あの異常者が一番犯人の可能性が高いが、あの女の纏う悍ましい死の気配が、此処にはあまりにも希薄すぎる……)
一人一人可能性を吟味してみるが、どうにも腑に落ちない。
そこまで考えた時、傍らから声をかけられた。
「フェステ様! 大変恐縮ではございますが、公爵様のご遺体を、そろそろ運び出してもよろしいでしょうか……?」
おずおずと、しかし業務的な口調で尋ねてきたのは、現場の指揮を任されているらしい魔王城の兵士の一人だった。
その声に、フェステの意識は、深い思考の海から現実へと引き戻された。
彼は仮面をわずかに兵士へ向け、芝居がかった陽気さで答えた。
「ああ、勿論だとも。お仕事ご苦労様だねぇ。なにしろ、マルバス公爵閣下は見ての通り、余分な贅肉をたっぷりと蓄えていらっしゃったから、運び出すのもさぞ骨が折れるだろう?」
フェステは、わざとらしくマルバスの首無し死体に視線を送り、楽しげに言葉を続ける。
「もっとも、頭部が綺麗さっぱり無くなったぶん、少しは軽くなっているかもしれないねぇ。……いや、待てよ? あの御仁のことだ、脳味噌なんてものは最初から詰まっていなかったかもしれないし、だとすれば重さなんて殆ど変わりないか。くくっ」
フェステの、死者への冒涜とも取れる痛烈な、そして一切の容赦もない皮肉に、目の前の兵士の表情がみるみる引き攣っていくのが、仮面越しにも手に取るように分かった。
他の兵士たちも、先ほどまでの恐怖とは別の、気まずさと畏怖の入り混じった表情で凍りついている。
「?」
──はて、どうしたのだろうか? この場の重苦しい雰囲気を和ませようと、『素晴らしいジョーク』を披露したつもりだった。
しかし彼らは腹を抱えて爆笑するどころか、悪魔でも見たかのように恐怖に慄いているようだ。
フェステは心の中で小首をかしげる。
だが、すぐに合点がいった。
「──あぁ。なるほど、そういうことかぁ」
兵士たちの視線に宿る、恐怖と、そして何よりも濃密な「疑い」。
彼らが、この凄惨な殺戮の犯人として、自分を見ていることに、フェステは思い至ったのだ。
確かに、自分ならばこれくらいの暗殺は朝飯前だ。魔界の裏社会を支配し、千の顔を持つと言われる、この『サウザンドフェイス・ジェスター』フェステであれば、マルバス公爵一人をこれほど鮮やかに、凄惨に殺すことなど赤子の手をひねるより容易い。
「ふふっ……僕が犯人じゃない、と言ったところで、君たちは信じたりしないのだろうねぇ? ましてや、僕が『彼を殺すはずがない』なんて言ったら、腹を抱えて笑うのかな?」
楽しそうに肩を揺らし、フェステは再びクツクツと喉を鳴らした。その声は、兵士たちの耳には、悪魔の囁きのようにしか聞こえなかっただろう。
そして彼は、舞台俳優が観客に一礼するかのように軽く身をかがめると、何でもないことのように歩き出した。
その足取りは、わざと選んだかのように、床に飛び散った血糊や、転がる肉片を踏みしめていく。ミシミシと骨の砕けるような音や、ぐちゃりという湿った音が、静かな回廊に不気味に響いた。
「……」
その異様な光景と、仮面の道化師から放たれる得体の知れない圧に、周囲の兵士たちは息を飲んだ。
彼らは、この道化師がただの道化師ではなく、魔界の奥深く、裏社会にまで通じる強大な権力と、個としても尋常ならざる実力を持っていることを知っている。
決して、彼の機嫌を損ねてはならない。本能的な恐怖が、彼らの足を自然と左右に開かせ、道化師のための道を作った。誰もが顔を青ざめさせ、震えを隠せないでいた。
「ふん……♪ ふふん……♪」
そんな兵士たちの恐怖を、まるで心地よい音楽でも聴くかのように一身に浴びながら、フェステは鼻歌交じりに回廊を歩き続ける。
その仮面の下で、一体どんな表情を浮かべているのか、誰にも想像はできない。
(……それにしても、だ。マルバスを殺したのは、一体どこのどなた様だろうねぇ?)
フェステの内心は、しかし、その陽気な振る舞いとは裏腹に、冷徹な思考と複雑な感情が渦巻いていた。
(俺の長年の「お楽しみ」を横取りしてくれたことには、正直、反吐が出るほど腹が立っているし、悔しくてたまらないけれど……ふふっ)
仮面の奥で、その唇が歪んだ笑みを形作る。
(だが、そのおかげで、この魔王継承戦という盤面は、当初の予想を遥かに超えて、複雑で、予測不能で、そして何よりも──面白くなってきたじゃないか!)
マルバス公爵という分かりやすい「悪役」が一人消えたことで、残る候補者たちの疑心暗鬼は更に深まり、彼らの行動はより一層、計算高く、そして大胆になるだろう。
公爵を殺したのが一体どの候補者で、何を目的としているのか。
それを探り当てるという、フェステの新たな「遊戯」が始まったのだ。
「ふふっ」
悔しさと、それ以上の期待が綯い交ぜになった奇妙な笑みが、再びフェステの仮面の下に浮かんだ。
道化師は、新たな獲物を見つけた狩人のように、その答えを見つけ出すことを心に誓いながら、闇の中へとその姿を消していった。
一人の公爵の死は、多くの者たちの運命を狂わせ、魔界の歴史を大きく揺るがす、壮大な狂騒曲の序章に過ぎなかったのである。