先刻までの喧騒が嘘のように静まり返った、魔王城の大広間。
主を失った玉座が虚しく見下ろす中、広間の中央には、先代魔王ヴァレリウスの亡骸を納めた豪奢な棺が安置されている。
その静寂の中に、ふと、一つの影が動いた。
最初からそこにいたかのように、あるいは影そのものから滲み出たかのように、一人の青年が棺の傍らに佇んでいる。
彼は棺に寄り添い、親しい者に話しかけるような、親密な仕草でそっと口を開いた。
「ヴァレリウス」
その声の主は、魔王城の大書庫の管理人を任されている、常にフードを目深に被った魔族の青年。
──名を、エルピスと言った。
その存在はあまりにも影が薄く、普段は誰からもほとんど認識されることがない。
そんな青年エルピスは、今はフードを外し、その美しい顔を露わにしていた。
彼は、棺の中で眠る魔王ヴァレリウスの、蝋のように白い顔を、愛おしそうに指先でそっと撫でた。
「ゴミを一匹、取り除いておいた。ここからが、本番だな。お前と、俺が仕組んだ『遊戯』の……」
エルピスがそう囁くと、何もないはずの彼の掌に、軽い音を立てて一枚の羊皮紙が忽然と現れた。
広げられた羊皮紙には、いくつかの名前がインクで記されている。
エルピスは、先ほどマルバス公爵を葬った際に付着したであろう、まだ生々しい鮮血が残る自身の指先で、リストの中の「マルバス」という名を、こともなげに、ゆっくりと一本の線で消した。
「お前が本当に見たいのは、こんな凡俗で、ありきたりな椅子取りゲームではないだろう。俺が、最高の舞台を整えてやる。お前を超える『傑作』がこの手で生まれるのか、あるいは全てが愚かしい塵芥と帰すのか……ああ、久方ぶりに、この胸が躍る」
その言葉には、親愛の情とは似て非なる、歪んだ愉悦と、底知れぬ冷酷さが皮肉な響きとなって込められていた。
そして、エルピスの顔から、蠱惑的な美しさを残した笑みがすうっと消え、代わりに、飢えた獣のような、残忍な喜悦の光がその紫水晶の瞳に宿り始める。
口角が、人間ではありえないほどに吊り上がり、その美しい顔立ちを禍々しく歪ませていく。
「楽しいなぁ。愉しいなぁ」
──彼こそが、何人も語り継ぐことすら叶わぬ、太古の時代よりこの世に在り続ける伝説の大魔族。
魔王ヴァレリウスを育て、導き、弄び、その覇道を影から操っていた悠久の超越者。
誰も、彼を知らない。否、知ってはならないのだ。その名を呼んだが最後、魂までもが呪われ、その真の姿を見たが最後、逃れえぬ凄惨な死が確約されるという。
純粋な好奇心と、絶対的な力を持つが故の、無垢にして邪悪なる存在。
それこそが──エルピス!
美しい顔を歪め、エルピスが片腕をすっと振るう。
すると、何もないはずの大広間の空間に水鏡のように、八つの光景が魔法によって鮮明に映し出された。
そこにいるのは、それぞれの場所で、次の魔王の座を巡る策謀を巡らせ、あるいは力を蓄えんとする、残された八人の魔王候補者たちの姿であった。
苦虫を噛み潰したような顔で戦況図を睨む、武骨な老将軍。
艶然と微笑みながら、水晶玉を見つめる妖艶な宮廷魔術師。
仮面の奥の表情は窺い知れないが、裏路地で佇む道化師。
古びた塔の上で、魔界を見渡し、微動だにしない沈黙の騎士。
民を想うのか、どこか憂いを帯びた表情で窓の外を眺める、先代魔王の娘である優しき姫君。
帳簿をめくりながら、金貨の山を前に満足げな笑みを浮かべるゴブリンの大豪商。
巨大な戦斧を肩に担ぎ、配下であろう屈強な獣人たちに囲まれて咆哮する異形の獣王。
血塗られた祭壇の前で、世界の破滅を願う死の聖女。
八者八様。それぞれの欲望と戦略が、手に取るようにエルピスには見えていた。
その光景を見下ろしながら、エルピスは歪んだ唇で、愛しい玩具に語りかけるかのように、嘲り笑う。
「さあ、愛しき駒たちよ。この『偉大なる観客』たるエルピスの前で、せいぜい見苦しく、されど懸命に踊り狂え。お前たちが演じる滑稽な茶番こそが、我が永きに渡る虚無の、唯一の慰みなのだから──」
その言葉が紡がれると同時、エルピスの体から、邪悪で悍ましい魔力が立ち昇った。
ヴァレリウスの棺に手向けられていた純白の葬送花が、見るみるうちに輝きを失い、黒く変色し始めた。瑞々しかった花弁は萎びて縮れ、端から崩れ落ちていく。
美しい花々は腐臭を放つ汚泥へと変わり果て、死と腐敗の美しき光景が、そこに現出していた。
「──ひひ」
その光景を満足そうに見届け、エルピスの喉から獣のような、あるいは悪魔そのもののような低く歪んだ笑い声が漏れ出す。
「ひ……ひひ……ぎゃはははは!!」
甲高い、人のものとは思えぬ悍ましいその嗤い声。それは血塗られた遊戯の開始を宣言するファンファーレだった。
主を失い花々も朽ち果てた魔王城の大広間から、魔界全土を揺るがす壮絶な魔王継承戦が、静かに……そして確かに胎動を始めた──。