魔王ヴァレリウスの国葬の儀は、予定された進行を無視するかのように、混乱と不信の中でなし崩し的に終わりを迎えた。
いや、終わったというよりは、中断された、と言うべきか。後継者候補たちは、儀礼的な挨拶もそこそこに、それぞれの供回りを引き連れて大広間から散り始めていた。
誰もが、先ほどの不可解な現象と、剥き出しになった敵意を胸に、次の一手を巡らせているようだった。
「おのれ、おのれ……!」
その中でも、公爵マルバスの怒りは頂点に達していた。彼は、数人の供回りを引き連れ、自室へと続く薄暗く人気のない回廊を、大きな足音を立てて歩いている。
その肥え太った身体は、上等な黒衣の下で憤怒にわなわなと震えていた。頭から突き出た二本のねじれた黒い角が、怒りに任せて左右に揺れている。
「この魔公爵マルバスに、あのような衆人環視の中で恥をかかせおって……!」
マルバスは、低い声で呪詛のように繰り返す。その声は、回廊の石壁に反響し、供回りの者たちをますます萎縮させた。
魔界において、公爵位を持つマルバスの家は、古くからの名門であり、その影響力は魔界各地に及んでいる。
その血筋と、代々受け継がれてきた広大な領地、そして権力で築き上げた人脈こそが、彼を魔王後継者という有力な立場に押し上げていた。
「ワシを嵌めたであろう者……そして、笑った者ども……!必ずや、今日の屈辱、倍にして返してくれるわ!」
マルバスの頭の中では、すでに数人のライバル候補が、彼の考えうる限り最も残酷な方法で血祭りにあげられていた。
──だがその時。
「む……?」
不意に、マルバスの太い眉がピクリと動いた。
彼の進む先、薄暗い回廊の真ん中に、一人の青年がぼんやりと佇んでいたのだ。灰色の地味なローブをまとった、魔族。
魔力も何も感じない、取るに足りない存在。そんな青年が、回廊を塞ぐようにして佇んでいる。
マルバスは、不愉快そうに顔をしかめると、傍らの供回りの魔族に顎でしゃくって見せた。
「おい。そこの痴れ者が、わしの道を遮っておる。なんたる不遜か。……殺せ」
普段であれば、いかに傲慢なマルバスといえども、魔王城内で、しかもこれ見よがしにこのような殺生を命じることは躊躇われただろう。
だが、もはや先代魔王ヴァレリウスはいない。魔界の秩序は、絶対的な支配者の死と共に、急速に崩れ始めているのだ。
それに、ここで自身の残忍さと、逆らう者には容赦しないという姿勢を他の者たちに示しておけば、『継承戦』において後々有利に働くかもしれない──そんな浅ましい計算も、マルバスの頭にはあった。
「はっ!」
命じられた供の魔族たちは、主人の意図を即座に理解した。
彼らは腰の鞘から荒々しく刃を引き抜くと、その切っ先を書庫番の青年に向け、威圧するようにじりじりと近寄っていく。
そのうちの一人が、嘲るような声を上げた。
「おい、そこの下郎。貴様のような低級魔族風情が、偉大なるマルバス様の御前を塞ぐとは、身の程を知らぬにも程が……」
供の魔族が、侮蔑の言葉を最後まで言い終えようとした、その瞬間。
何の予兆もなかった。
フードの青年は、ただ静かに、侮蔑の言葉を向けてきた供の魔族へ右の手をすっと翳した。
詠唱も、魔力の高まりも、一切感じさせない、あまりにも自然な動作。
「──ぐぼっ!?」
彼に最も近づいていた供の魔族が、奇妙な音を喉から漏らした。次の瞬間、その屈強だったはずの胸部が、内側から爆ぜるように吹き飛んだ。
血肉と、砕けた骨片、歪んだ鎧の残骸が、赤い霧となって周囲に飛び散る。
巨体が、糸の切れた人形のように力なく後ろへ吹き飛ばされ、壁に叩きつけられて事切れる。
「「「――!?」」」
仲間が、理解不能な、そしてあまりにも無慈悲な死を迎えたことを認識した他の供の魔族たちは、一瞬、思考が停止した。
その凍り付いた一瞬──もし彼らが、本能のままに背を向けて逃げ出していれば、一人か二人は、命拾いできた者がいたかもしれない。
だが、そうはならなかった。あまりにも現実離れした出来事に、彼らの足は床に縫い付けられてしまっていたのだ。
「……」
青年が翳した右手の指先が、僅かに動く。指揮者がタクトを振るうように。
次の瞬間、一人の供の魔族の足元から、音もなく黒い棘が幾本も突き出し、瞬く間にその体を串刺しにした。断末魔の悲鳴すら上げさせない、静かで残忍な処刑。
また別の供は、突如として全身を透明な炎に包まれ、骨も残さず燃え尽きていく。その炎は熱も音も発さず、ただ対象だけを静かに消滅させていった。
さらに別の者は、見えない力に首を絞めあげられたかのように宙に吊り上げられ、苦悶の表情のまま絶命し、床に叩きつけられた。
抵抗も、駆け引きも、一切存在しない。ただ、一方的な力の行使があるだけだ。
数秒と経たずに、マルバス公爵の供回りは、様々な形で凄惨な死を迎え、回廊には血の匂いと、いくつかの黒い染みだけが残された。
そして、その全てを目の当たりにしていたマルバス公爵は──
「……え?」
子供が、信じられない手品でも見せられたかのような、間の抜けた声を発した。
その顔からは血の気が失せ、大きく見開かれた瞳は、目の前で起こった惨劇と、静かに手を下ろす灰色のローブの青年とを、交互に映している。
何が起こったのか、理解が追いついていないようだった。
先ほどまでの怒号や悲鳴は嘘のように消え去り、ただ、滴り落ちる血の音だけが、時折微かに聞こえるのみ。
「あっ……」
その静寂の中を、灰色のローブをまとった青年が、ゆっくりとマルバスに向かって歩いてくる。
床に転がる、まだ温かいだろう死体も、飛び散った臓腑や血の海も、彼は一切意に介する様子がない。庭を散策するかのように、平然と、一歩、また一歩と。
その姿に、マルバスは腰が抜けそうになるのを必死で堪え、震える足で数歩下がるのが精一杯だった。
やがて、青年がマルバスの目と鼻の先まで近づいた時、彼が深く被っていたフードの影から、その顔がはっきりと露わになった。
──ぞっとするほど、美しい男であった。
夜闇をそのまま溶かし込んだかのような、艶やかな黒髪。陶器のように滑らかで白い肌。長く切れ長の目は、どこか中性的な印象を与える。
およそ魔族とは思えぬ、神々しさすら感じさせるほどの、完璧な造形美。
だが、その青年の瞳と視線が合った瞬間、マルバスはこれまでの人生で味わったことのない、本能的な恐怖に全身を貫かれた。
硝子玉のように透き通った紫水晶の瞳。それは、悠久の時を生きてきた何かが、目の前の矮小な存在を「観察」しているかのような、絶対的な隔絶を感じさせる瞳だったのだ。
(な、なんだ、こいつは……!?暗殺者……!?誰かが放った、刺客……?)
マルバスの内心は、恐怖で叫びを上げていた。
──逃げろ、逃げなくては!
しかし、足が鉛のように重く、動かない。声も出ない。全身が金縛りにあったかのように、指一本動かすことすらできなかった。
不意に、その美しい青年が、薄い唇をわずかに開いた。
「魔公爵マルバス。その血筋と一族の威光のみで候補者の列に加わった、玉座には最も相応しくない男。──貴様に、この『継承戦』に参加する資格は……ない」
鈴を振るような、しかし感情の温度を一切感じさせない声が、マルバスの耳朶を打つ。
青年が、ゆっくりと右の手を伸ばし、その華奢な指先をマルバスへと向けた。
「た、助け──」
マルバスの震える唇から、か細い命乞いの言葉が漏れ出そうとした、その瞬間。
──パァンッ!と。何かが破裂する、湿った音。マルバス公爵の頭部が、内側から弾け飛んだ。
数瞬前まで傲慢な言葉を吐き、恐怖に歪んでいた顔は、もはや存在しない。首から上を失った肥満した胴体だけが、がくりと膝から崩れ落ち、重い音を立てて床に倒れ伏した。
その様を、青年は、しばし無言で見下ろしていた。やがて、その完璧なまでに美しい顔に、奇妙な音が漏れた。
「くっ……くくっ……」
押し殺したような、微かな笑い声。彼の薄い唇が、ゆっくりと弧を描く。
その笑みが深まるのとほぼ同時に、エルピスの姿が、陽炎のように揺らぎ始めた。
実体があったはずの灰色のローブが、周囲の薄闇に溶け込むように希薄になっていく。何の魔術的な兆候も、移動の気配もなく、彼はただ、そこにいたはずの場所から、消え失せた。
全てが嘘だったかのように、回廊には絶対的な死の光景だけが残された。