儀式の詠唱はなおも続いていたが、広間の空気は張り詰めていた。表面上は皆、悲しみに沈んでいるか、厳粛さを保っている。
だが、その水面下では、見えない火花が絶えず散っていた。視線が絡み合い、一瞬で意味を交換し、また逸らされる。それは、同意か、脅迫か、あるいは裏切りの合図か。
そんな張り詰めた空気の中、一人の候補者が動いた。常に仮面をつけ、掴み所のない態度をとる男、宮廷道化師のフェステだ。
彼は、いまだに涙を流しているボロク将軍に、わざとらしいほど陽気な声で話しかけた。
「おやおや、ボロク将軍。いやはや、素晴らしい涙ですな。これにはヴァレリウス陛下も、あの世でさぞ感涙しておられることでしょう」
フェステは、仮面の奥で目を細めているのが分かるような、ねっとりとした口調で続ける。
「しかし……感涙ついでに申し上げますが、その腰の物騒な『長物』、この場には少々……いえ、かなり場違いに見えますねぇ。陛下への忠誠を示すために、この場で『試し斬り』でもご所望で?」
その言葉に。今まで悲嘆にくれていたボロク将軍の動きが、ピタリと止まる。
涙は一瞬で乾き、その巨躯がゆっくりと、軋むような音を立ててフェステの方を向いた。
「──道化師風情が。陛下より賜った、この我が忠義の証たる剣を揶揄うか」
言葉と共に、歴戦の老将軍が放つ凄まじいまでの殺気が、大広間全体に叩きつけられるように広がった。
弱小な魔族ならば、その圧倒的な圧だけで意識を失うか、あるいは心臓が止まって死に至るだろう。広間の隅々から、恐怖に引きつったような息をのむ音が聞こえた。
だが、その殺気を真正面から浴びているはずの仮面の道化師フェステは、肩をすくめるような仕草を見せただけだった。その声色は、先ほどと変わらず、どこか弾んでいる。
「いえいえ、滅相もない! 素晴らしい剣だと、感心しておりますよ。──あぁ、ところで将軍」
フェステは、わざとらしく首をかしげる。
「せっかくの大粒の涙が、すっかり止まっているようですが……陛下へ悲しみを向ける『フリ』は、もうおしまいですかぁ?」
挑発は続く。ボロク将軍の指が、ギリギリと音を立てて腰の剣の柄を握りしめた。今にも抜き放ち、道化師を両断しかねない。
一触即発。参列者たちは蒼白になり、この場で魔界屈指の実力者二人が衝突すればどうなるかを想像して震え上がった。
儀式どころではない。この広間そのものが、彼らの力の衝突で吹き飛びかねないのだ。
張り詰めた沈黙。誰もが固唾を飲んで、将軍の次の一手を待っていた、その時──
「──ふぁ~~あ。まったく、なんたる茶番だ」
場違いなほど大きな、退屈しきった欠伸の声が響いた。
声の主は、柱に寄りかかっていたマルバス公爵だった。彼は、目の前の一触即発の状況すら馬鹿馬鹿しいと、隠そうともせずに言い放ったのだ。
「いつまで続ける気だ、この猿芝居を。さっさと次へ……」
マルバスが、他の候補者たちをも嘲笑うかのように言葉を続けようとした、その瞬間。
ツルッと。
何の前触れもなく、彼の足元の一部分だけに水たまりが現れた。
体勢を崩したマルバスは、「おわっ!?」と間の抜けた声を上げ、無様にバランスを崩してよろめく。
広間に、一瞬の静寂。
そして、次の瞬間には、あちこちから必死に堪えるような「ククッ……」という押し殺した笑い声が漏れ始めた。
「っ……!?」
顔を真っ赤にしたマルバスは、何とか体勢を立て直すと、血走った目で周囲を睨みつけた。
「き、貴様か!?誰だ、今、我にこのような真似を……!」
しかし、誰も彼に答える者はいない。ただ、向けられる視線には、恐怖よりも好奇と、隠しきれない嘲笑の色が浮かんでいた。
床に手をつきそうになりながらも、何とか踏みとどまったマルバス公爵は真っ赤な顔で周囲を睨みつけ、怒りに打ち震えている。
そんな彼を見て、例の仮面の道化師フェステが、わざとらしく手を叩いて喝采した。
「おやおや、これは見事な『転び芸』で! マルバス公爵、足元がお留守でしたかな? それとも、その溢れんばかりの傲慢さに、床の方から愛想を尽かされてしまいましたかな?」
クツクツと喉を鳴らして笑うフェステは、すぐさまその矛先を、再び殺気を放つボロク将軍へと向けた。
「おっと失礼。足元の話で思い出しましたが、ボロク将軍。やはりその物騒な剣は、腰に下げたままの方がよろしいですねぇ。下手に抜こうとして、その立派な『忠義』に足を取られて、公爵のように転んでしまっては、あまりにも無様ですから」
「──貴様ッ!!」
二度目の、そしてあまりにも直接的な侮辱。もはやボロク将軍の我慢は限界を超えた。
先代魔王より賜った、歴戦の魔将軍の愛剣。それが今、不遜な道化師を断罪せんと、鞘から抜き放たれようとした──。
──だが。
ガキン、と。奇妙な、硬い音が響いた。
将軍が渾身の力で柄を引いているにも関わらず、剣は鞘に張り付いたように、一寸たりとも動かないのだ。
鞘の中でカタカタと、何かが噛み合っていないような、あるいは内部で砕けているような、不快な異音を立て始めた。
柄に刻まれた魔力回路を示すルーン文字が、制御を失ったように不規則に明滅する。
「……なに?」
ボロク将軍の腕が止まる。怒りの表情に、当惑の色が浮かんだ。何度か力を込めて引いてみるが、結果は同じだった。
そして、その異常な現象に、挑発していたはずのフェステまでもが、仮面の奥でわずかに目を見開いたような気配を見せた。
「ほう?」
その反応を見たボロク将軍は、この怪奇現象がフェステの仕業ではないことを直感的に悟った。
──何かがおかしい。
マルバス公爵が不自然に滑ったこと。そして今度は、ボロク将軍の剣が抜けないこと。偶然にしては出来すぎている。
広間の空気は、先ほどとは違う種類の緊張感で満たされた。互いへの不信感が、毒のように急速に広がっていく。
「誰だ!? 今のは誰の仕業だ!お前か!」
マルバス公爵は、最早見境なく近くの貴族を怒鳴りつけている。
「魔術か……!」
ボロク将軍は、剣が抜けないのは魔術による妨害だと判断したのか、宮廷魔術師リラ女史や、他の魔術を得意とする者たちを睨みつけた。
リラ女史は優雅に肩をすくめてみせるが、その瞳の奥には探るような光が宿っていた。
漆黒の騎士は、相変わらず微動だにしないが、その周囲の威圧感はさらに増したように感じられる。
「おいおい、どうなってるんだこれは……」
「魔王様の葬儀が……」
もはや、儀式の荘厳さなど欠片も残っていない。
そこにあるのは、剥き出しの敵意と疑心暗鬼、そして得体の知れない現象への怯えだけだった。
魔王ヴァレリウスの死によって蓋が外れた魔界の混沌は、こうして誰にも止められぬまま、深まっていった。