「──私は、思うのです。あなた方が、このような耐え難い苦しみを味わうのは、ひとえに……『生きている』からこそなのだと」
リリアナのその言葉は、静まり返った広場に突き刺さった。
民衆は、言葉の意味を理解できずに戸惑う。だが、リリアナは構わず説法を続けた。
その声は慈愛に満ちていたが、内容は常識を、そして生命そのものを根底から覆すものだった。
「生命とは、なんと儚く、そして苦痛に満ちたものでしょうか。喜びは束の間、愛する者との絆も、いつかは必ず死によって引き裂かれる。病の苦しみ、老いの恐怖、失うことへの怯え……。それら全てが、生きているが故の、逃れられぬ宿命……」
彼女は確かな説得力をもって語り続ける。
その言葉は、民衆がこれまで心の奥底で感じていたかもしれない、漠然とした不安や諦念を的確に言語化し、彼らの魂に直接響いていく。
「ですが、全ての苦しみには、終わりがあります。その先に絶対的な永遠の安らぎが、あなた方を待っているのです」
リリアナは一呼吸置いて、言った。
「──それこそが、『死』」
その瞬間、風すらも止まったかのように街が静寂に包まれた。
皆、動かない。いや、動けなかった。
「死こそが、全ての魂にとっての究極の解放であり、苦しみから解き放たれる、唯一の道」
民衆は彼女の言葉に聞き入っていた。最初は恐怖に似た感情を抱いていた者も、リリアナの揺るぎない確信と、その声が持つ不思議な力によって次第にその思想に引き込まれていく。
彼らの疲弊しきった心には、その「永遠の安らぎ」という言葉が、抗いがたい甘美な響きとなって届き始めていた。
そして、リリアナは……集まった全ての民の顔を再び見渡し、静かに宣言した。
「あなたたちの苦しみは、もう終わりです。私が、このリリアナが、あなたたち全てに、永遠の安らぎを与えましょう」
そう言うと、リリアナはふわりと純白のヴェールを優雅に靡かせ、その場にゆっくりと膝をつく。そして神に祈りを捧げるかのように敬虔な仕草で両手を胸の前で組んだ。
次に、彼女の唇から荘厳で、この世のものではない魔性の美しさを湛えた「鎮魂歌」が流れ始めた。
「 闇夜の帳 星影落ちて
汝らが魂 いざない誘う
苦の世の絆 断ち切り捨てて
永遠なる眠り 今こそ来たれ 」
その歌声はシルヴァニアの破壊された街並みに、そして傷ついた民衆の魂の奥深くにまで、清らかに、抗いがたく響き渡っていく。
人々は、歌声に魂を揺さぶられたかのように、茫然とその場に立ち尽くし、聞き入っていた。
先ほどまでの悲嘆の声は完全に消え去り、ただリリアナの歌声だけが世界を支配している。
「 涙の河も 今は涸れ果て
嘆きの風も 永久に止まん
母なる静寂 汝らを抱き
無窮の安らぎ ここに与えん 」
風が、その歌声をシルヴァニアの隅々へと運んでいく。
歌声に触れた者たちの顔から、絶望の色が消えていく。代わりに浮かび上がるのは、深い安らぎの表情。
長年背負ってきた重荷をようやく下ろすことができたかのような、穏やかな解放感。
──そして、抗いがたいほどの、心地よい眠気。
「ああ……なんて、安らかなんだろう……」
「もう……何も考えたくない……ただ、この歌声に……身を委ねて……眠りたい……」
民衆の中から、そんな言葉が夢うつつに漏れ始めた。
彼らはゆっくりと、その場に崩れるように座り込み、穏やかな表情のまま静かに目を閉じていく。
「そう、それでいいのです……」
民衆たちが、その歌声に導かれるように次々と安らかな眠りへと落ちていく様子を、リリアナは恍惚とした表情で見つめていた。
──迷える子羊たちの魂が、生命という名の苦しみから解放され、永遠の安らぎへと旅立とうとしている。
その光景は、彼女にとって至上の喜びなのだ。
リリアナは、おもむろに立ち上がると、彼らの魂一つ一つを優しく抱きしめるかのように、その両腕を天へと、シルヴァニアの都市全体へ向けるように大きく広げた。
そして、唇から厳かで熱に浮かされたような声が放たれた。
「──来たれ、救済よ。聖なる嘆きの波動よ!」
その言葉が紡がれた瞬間、リリアナの全身から、青白い光の奔流が吹き出した。
光は瞬く間に天へと駆け上がり、シルヴァニアの街全体を、巨大な光で覆い尽くすかのように、幻想的に包み込んでいく。
聖なる嘆きの波動──ホーリー・ソロー・ウェーブ。
それは、彼女が生み出す、究極の救済魔法。
激しい破壊や苦痛を伴うものではない。ただ穏やかに、しかし何者にも抗うことのできない、絶対的な死の抱擁。
生命という名の楔に捕らわれた、哀れな魂をその苦痛から完全に解放し、永遠の静寂と調和の中へと導く、神聖にして終末の大魔法。
青白い光の波が、シルヴァニアの街を津波のように、しかしどこまでも静かに、優しく満たしていく。
半壊した家屋の中で、寄り添うように眠りについた親子が、その光に包まれる。母親が、夢うつつに呟いた。
「ああ……やっと、この子と……静かに……」
その言葉を最後に、二人はさらに深い安らぎへと沈んでいく。
瓦礫の撤去作業の途中で力尽き、道具を握りしめたまま眠りに落ちた若者が、その光に触れる。
「なんだか……すごく、眠い……お袋……今、俺もそっちに……」
怪我を負い、うめき声を上げていた者たちも、その光が撫でると、苦悶の表情が消え、安堵のため息を漏らす。
「痛みが……消えていく……ありがとう……ございます……聖女、様……」
彼らは、感謝の言葉と共に、穏やかな微笑みを浮かべたまま、動かなくなる。
逃げ惑っていた家畜たちも、鳴き声を上げることもなく、その場に静かに倒れ伏していく。
それは、一方的な虐殺ではない。リリアナにとっては、苦しみに満ちた生命からの、慈悲深き解放なのだ。
シルヴァニアの最も高い尖塔から、最も低い地下室まで、生きとし生けるものの痕跡が残る全ての場所へと、分け隔てなく降り注いでいく光。
街を覆う青白い光は、巨大な鎮魂の灯火のように、揺らめき続けた。
そして、数瞬の後──。
古都シルヴァニアは、全ての生命の息吹を完全に停止させ、聖なる嘆きの波動に満たされた、静謐なる死の都へと変貌を遂げた。
静寂。
完全な静寂が、かつて古都シルヴァニアと呼ばれた場所を支配していた。
人々の声も、獣の咆哮も、風の音すらも、存在を許されぬかのように消え失せ、リリアナが放った青白い「聖なる嘆きの波動」の残滓だけが、街全体を幻想的に、照らし出している。
その中心で、終末の聖女リリアナは、微かにその身を震わせていた。ヴェールに覆われた顔は、至上の法悦に歪んでいる。
「あぁ……これこそが救済。これこそが、万物への究極の慈悲……」
──そう。シルヴァニアに住まう生命体は皆、死んだ──
「あぁ……皆様……よかった、よかった!これで、皆様は救われたのです……!」
感動に打ち震える声が、彼女の唇から漏れ出す。それは自らが成し遂げた「偉業」に対する、純粋な達成感と、魂の救済という名の自己満足に満ちていた。
彼女にとって、この死に絶えた街は……自らが創造した完璧な「墓所」なのだ。
しかし、その時。
広場の隅、半壊した噴水の影に、僅かに動くものがあるのを、リリアナは見逃さなかった。
「あら……?」
ヴェールの奥の瞳が、その一点へと注がれる。
そこにいたのは、あの魔族の少女であった。先ほど、サイレスに人形を渡し、そして両親の無惨な亡骸の前で泣き崩れていた、哀れな少女。
「あっ……」
彼女は、奇跡的に「聖なる嘆きの波動」の影響を完全には受けていなかった。何かの偶然か、彼女の持つ何らかの特質が、リリアナの絶対的な死の抱擁を僅かに退けたのかもしれない。
その目は大きく見開かれ、身体は小刻みに震え、リリアナの姿を認めた瞬間、凍り付いたかのように動きを止めていた。
「あら……あらあらあら……」
リリアナは困ったような声を出すと、音もなく少女へと歩み寄っていく。
一歩、また一歩と、純白の聖女が近づいてくる。
少女は、それに合わせて、必死に後退った。足がもつれ、瓦礫に躓きそうになりながらも、ただただ、その恐ろしい存在から距離を取ろうとする。
「なっ……んで……?みんな、死んじゃった……の……?」
──みんな、死んだ。
──街の人たちは……みんな、みんな、あの女の人が歌を歌ったら、眠るように死んでしまった。
その悍ましい事実が、幼い少女の心を、極限を超えた恐怖で満たしていた。
目の前の、聖女のような姿をした女性こそが、この街から全ての生命を奪った張本人なのだと、彼女の本能が絶叫していた。
「あなたは、聖なる嘆きの波動に『耐性』があったのですね……。それとも、何か特別な加護でもお持ちなのでしょうか。珍しいこともあるものですね」
少女の絶望的な恐怖など、気にも留めないかのように、リリアナは穏やかな声で語りかけながら、確実に距離を詰めてくる。
その声は、先ほどまで民衆を安らかな死へと誘っていた声と、何ら変わらない。優しく、慈愛に満ちていて……。
それ故に、今の少女にとっては、この世のどんな悪魔の囁きよりも恐ろしかった。
「ごめんなさいね、小さき迷い子。あなただけ、この苦しみの輪廻に取り残してしまうところでした。でも、もう大丈夫。すぐに、みんなのいる安らぎの世界へお連れしますから……」
リリアナが、そっと手を差し伸べようとする。
その指先は白く細く、雪の結晶のように美しかったが、少女の目には死神の鎌よりも鋭く、恐ろしく映った。
「……っ!!いやああああああっ!!」
堪らず、少女は甲高い悲鳴を上げると、リリアナに背を向け、もつれる足で全力で走り出した。
どこへ逃げるあてなどない。ただ、この恐怖の化身から、一刻も早く離れたい一心で。
背後からリリアナの、どこか悲しげな、そして諭すような声が追いかけてくる。
「あぁ待って……!走ると危ないですよ!怪我でもしたらどうするのです!」
だが、少女は振り返らない。ただ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、転がる死体を避け、崩れた瓦礫を飛び越え、必死に、必死に走り続ける。
静寂に包まれた死の都に、幼い少女の悲痛な叫びと、それを追いかける聖女の歪んだ慈愛の声だけが、虚しく響いていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
少女は、ただひたすらに走り続けた。
肺が張り裂けそうに痛み、足は鉛のように重い。それでも、足を止めることはできなかった。あの、聖女の皮を被った悪魔から、一刻も早く逃れるために。
街は、死んでいた。
先ほどまで、か細いながらも確かにあったはずの復興への息吹は完全に消え失せ、道端には、穏やかな表情で倒れ伏すおびただしい数の魔族たち。
男も、女も、老人も、そして自分と同じくらいの子供たちも……誰も彼もが、眠っているかのように動かない。
生きているものは、いない。
この、広大で、静まり返った死の都に、自分はたった一人で取り残されてしまったのだ。
どれくらい走っただろうか。
恐怖と絶望で満たされた小さな身体が、ついに限界を迎えようとしていた。視界が霞み、足がもつれ始める。
「……!?」
その時だった。
路地を曲がろうとした少女の目の前で、先ほどまで微動だにしなかったはずの、道端に倒れていた一体の魔族の亡骸が、ぎしり、と不気味な音を立てて、ゆっくりと起き上がり始めたのだ。
『オ……オォォ……』
その瞳は虚ろで、肌は生命の色を失っている。しかし、少女の方へと、よろよろとした、しかし確実な足取りで歩み寄ってくる。
一つではない。あちこちで、同じように亡骸が起き上がり、何かに引き寄せられるかのように、少女へとその手を伸ばし始めていた。
「い……いやああああああああっ!!」
少女は、喉が張り裂けんばかりの悲鳴を上げると、最後の力を振り絞って再び走り出した。
背後からは、ずるり、ずるり、という湿った足音と、何かが引きずられるような音が、無数に追いかけてくる。
──死体が、動いている。
その瞬間、少女は気づいた。
街のみんなは、ただ安らかに死んだだけではないのだ、と。
彼らは、『アンデッド』と呼ばれる、魔界の種族の中でも最も不浄で、忌むべき存在へと、あの女の手によって変貌させられてしまったのだ──
「あっ……!」
恐怖に思考が追いつかず、足元への注意が散漫になったのだろうか。少女は、不運にも瓦礫に足を取られ、派手に転んでしまった。
受け身も取れず、顔から地面に叩きつけられる。
すぐに起き上がろうとするが、その小さな身体の上に、ずしりとした重みがのしかかってきた。
先ほどまで追いかけてきていたアンデッドの一体が、少女を押さえつけていたのだ。
「やだっ、やだぁ……!!離して!こないでぇぇっ!!」
少女は、必死にもがき、アンデッドを突き放そうとする。だが、死体の腕力は恐ろしく強く、幼い少女の力では到底振り払うことはできない。
死体の手が、少女の顔へと伸びてくる。絶望が、再び彼女の心を黒く塗りつぶそうとしていた。
そんな、万事休すかと思われた時。
背後から、恐ろしいほどに穏やかで、慈愛に満ちた声が聞こえてきた。
「あぁ、良かった。皆さま、手伝ってくださってありがとう。哀れな子羊が、救済から逃れてしまわぬように、しっかりと『見守って』いてくれたのですね」
女の──リリアナの声が、悪夢の続きを告げるかのように、少女の耳に届いた。
彼女は、アンデッドに押さえつけられ、もはや抵抗する力も残っていないかのように喘ぐ少女へと、ゆっくりと、慈愛に満ちた歩みで近づいてくる。
その背後では、アンデッドと化したシルヴァニアの元住民たちが、虚ろな呻き声を上げながら、主人の命令を待つかのように佇んでいる。
「いや……いやぁ……!来ないで……!あっち行ってぇっ!」
少女は最後の抵抗を試みるが、その声はリリアナの耳には届いていない。
リリアナは、少女のすぐ傍らで再び屈み込むと、そのヴェールの奥から、心底心配するような、優しい声をかけた。
「あらあら、転んでしまわれたのですね。こんなに可愛いお顔が、泥で汚れてしまって……。それに、擦りむいて血も出ています。……いけませんよ、そんなに危ないことをしては」
庭で転んだ幼子を諭す母親のような口調。
だが周囲からは、アンデッドと化したシルヴァニアの民たちの、意味をなさない呻き声や、骨の軋む音が絶え間なく聞こえてくる。そんな地獄のような状況で、リリアナの言葉は、あまりにも場違いで、それ故に狂気に満ちていた。
そうして、リリアナの白い、死体のように血の気の失せた手が、そっと少女へと伸ばされる。
「ひっ……!」
手が頬に触れようとした瞬間、少女は息を飲む。あまりの悍ましさと、理解を超えた状況に、ただただ震えることしかできない。
リリアナは、そんな少女の恐怖を、慈しむかのように、微笑ましげに見つめている。
「可愛い子羊……こんなに怯えて、可哀そうに……」
その言葉と共に、リリアナの白い指が、少女の腕を優しく掴んだ。
瞬間、魂までもが凍り付くような、耐え難い冷たさが、少女の全身を駆け巡った。
その時だった。
どこからともなく、強い風が吹き抜け、リリアナの顔を覆っていた純白のヴェールが、ふわりと大きく舞い上がった。
「──」
そして、少女は見てしまった。
聖女のヴェールの下に隠されていた、リリアナの真の顔を。
そこにあったのは、神々しいまでの美しさとは程遠い、おぞましいまでの腐敗の貌。
かつて絶世の美女であったことを僅かに偲ばせる輪郭は残しつつも、その白い肌には死斑のような紫黒の痣が浮かび上がり、皮膚の一部は腐り落ちて骨が覗いている。
そして何よりも、その眼窩──かつて慈愛に満ちた瞳があったであろう場所は、完全に腐り落ち、そこにはただ、全てを吸い込むかのような、底なしの闇だけが広がっていた。
「安心シテ。苦シミハ、モウ終ワルカラ──」
それはまさしく、死そのものを具現化したかのような、悍ましき絶望の顔。
少女の小さな瞳におぞましい光景が焼き付いたのを最後に、彼女の意識はぷつりと糸が切れたように途絶えた。