時は少し遡る──。
獣王グロムの大地を揺るがした最後の咆哮が遠のき、赤黒い闘気の残滓が風に霧散した、その直後。
古都シルヴァニアには、世界の終わりが過ぎ去ったかのような不気味なまでの静寂が訪れていた。
瓦礫の陰から煤に汚れ、傷ついたシルヴァニアの民たちが恐る恐る顔を出す。
彼らの視線は自然と街の中心……最も広く開けた広場へと集まっていく。
そこに、ただ一人。
漆黒の全身鎧に身を包んだ騎士が、静かに佇んでいた。
「……」
背には巨大な黒剣ノートゥングを負い、その姿からは一切の感情も、動きの気配すらも感じられない。
周囲に転がる無数の死体にも、破壊された街並みにも、そして生き残った民衆にも関心がないかのように、ただ虚空を見据えている。
「おぉ……」
別の誰かが、震える声で呟く。
その囁きはさざ波が広がるように、瞬く間に生き残った民衆の間へと伝播していった。
「『沈黙の騎士』様が勝った!」
「あの『獣王』グロムを、退けたんだ!」
恐怖は、安堵へ。絶望は、信じられないほどの歓喜へ。
次の瞬間、静寂は破られた。
「サイレス様!サイレス様!」
「我らは……我らは救われたんだ……!」
堰を切ったような、熱狂的な歓声がシルヴァニアの空に響き渡った。
民衆は涙を流しながら抱き合い、その場に膝から崩れ落ちて天を仰ぎ、ただただ、広場に立つ漆黒の騎士の名を叫び続けた。
恐怖からの解放、そして絶望の淵から引き上げられた安堵感。何よりも、あの獣王の軍勢の蹂躙をたった一人で覆した、圧倒的な力への畏敬と称賛。
それらが渾然一体となって、シルヴァニアの民を熱狂の渦へと巻き込んでいった。
「……」
だが、熱狂的な歓声の渦の中心にありながら、漆黒の騎士サイレスは静かに佇んでいた。
民衆の称賛も、感謝の涙も彼の鎧の下には届かない。面頬は固く閉ざされ、その奥にあるはずの瞳が何を映し、何を思っているのか、誰にも窺い知ることはできない。
彼は、英雄というにはあまりにも静かで、救世主というには無関心。
そうしているとサイレスを取り巻く人々の輪の中から、よろよろと、一人の幼い少女が飛び出してきた。
煤で汚れ、服はところどころ破れている。小さな手には、同じように泥にまみれ、片腕が取れかかった古い布製の人形が大切そうに握りしめられていた。
彼女は先ほどの獣たちの蹂躙で、両親を失った少女であった。しかし、サイレスの力により、魔獣に捕食されかかったところを救われた少女でもある。
瞳には、まだ怯えの色が残っていたが、それ以上に強い意志の光が宿っていた。
少女は巨大な漆黒の騎士を見上げ、その威圧感に一瞬怯むがすぐに意を決したように駆け寄り、サイレスの足元に辿り着いた。
そして、震える声でこう言った。
「き、騎士様……あ……ありがとう……」
少女は、その言葉と共に、持っていた古い人形を、壊れ物を扱うかのように、そっとサイレスへと差し出した。それは、彼女が持っている、唯一の宝物であった。
その瞬間、それまで石像のように微動だにしなかったサイレスが、ぴくりと、わずかに動く。
彼はゆっくりとその漆黒の面を下げ、足元の小さな少女と、彼女が差し出すみすぼらしい人形とを、しばし無言で見下ろしていた。
広場の熱狂が、一瞬だけ、その二人を中心に静まったかのような錯覚。
やがて、サイレスは音もなく漆黒の手甲に覆われた手を伸ばした。
そして少女が差し出す人形を、壊さぬようにそっと受け取った。
彼はその人形を一瞥すると、すぐに懐の鎧の隙間の見えない場所へと、音もなくしまい込んだ。
「あ……」
少女が安堵したような、嬉しそうな声を漏らす。
そして、サイレスは再び視線を前方へと戻した。
「お待ちください、サイレス様!」
「どうか、我らが街に……!」
民衆が英雄を引き留めようと、口々に叫び声を上げる。
しかし漆黒の騎士は声に耳を貸すことなく、ひらりとその身を翻した。
彼は、闇に溶けるかのように破壊された街並みの奥へと、音もなくその姿を消す。
後に残されたのは、熱狂と、そして一抹の戸惑いを抱えたシルヴァニアの民衆と、彼がもたらした希望だけ。
サイレスが幻のように去った後、シルヴァニアの広場には呆然とした空気が流れた。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかない。生き残った者たちは、互いに顔を見合わせ、力なく頷き合うと、重い足取りで動き始めた。
誰が指示するでもなく、自然と復興への作業が始まったのだ。
「こりゃあ酷い……」
「あぁ……たくさん死んじまって……家も壊れて……どうすればいいんだ……」
若い者たちは崩れた家屋の瓦礫を運び出し、道を開こうと声を掛け合う。僅かに残った薬師や治癒魔法の心得がある者たちは、負傷者の手当てに奔走し、その周囲では女たちが布を裂いて包帯を作っている。壮年の男たちは、まだ燻る炎を消し止めようと井戸から水を汲み始めた。
街のあちこちから、重い木材を動かす音、人々の指示の声、そして時折、痛みに呻く声や、すすり泣きが聞こえてくる。
絶望的な破壊の中で、それでも生きることを諦めない魔族たちの、か細いが、確かな意思がそこにはあった。
復興への動きが活発になる一方で、街の中心に近い広場の一角は、深い悲しみに支配されていた。
そこは、特に赤牙戦団の蹂躙が激しかった場所であり、多くの命が奪われた場所だった。
今は、見分けのつかぬほどに破壊された亡骸が、無造作に横たえられ、その傍らで生き残った家族や友人たちが、声を殺して泣き崩れている。
「あぁ……なぜ、お前が……!昨日まで、あんなに笑っていたではないか……!ワシのような老いぼれが生き残ってどうする……」
初老の男が、血に染まった若い兵士だった者に取りすがり、その肩を揺さぶって慟哭している。
「私の……私の坊やが……どこにもいないの……!誰か、私の子供を知りませんか……!?」
若い母親が、虚ろな目で周囲の人々に尋ねて回るが、誰も彼女に答えることはできない。
「こんなことになるなんて……魔王様がお隠れになった途端、この街は……うぅ……」
老婆が皺だらけの手で顔を覆い、嗚咽を漏らす。
希望の光が見えた直後だからこそ、失われたものの大きさが、より一層人々の心を打ちのめしていた。
「……」
その悲しみの輪の中に、先ほどサイレスに人形を渡した幼い少女の姿もあった。
彼女は広場の隅、半壊した屋台の傍らに力なく座り込んでいた。
目の前には、二つの亡骸が横たわっている。それは襲撃によって無惨に引き裂かれ、もはや元の姿を留めていない彼女の両親だった。
少女は両親の亡骸を見つめたまま、最初はただ小さく肩を震わせていた。だが、やがて抑えきれない悲しみが込み上げてきたのか、小さな喉から、痛々しい嗚咽が漏れ始める。
「う……うわぁ……おとう、さ……おかあ、さ……ん……」
泥に汚れた手で、亡骸に触れようとしては、そのあまりの惨状に怯えて手を引っ込める。
周囲の大人たちも、自らの悲しみに精一杯で、この小さな少女の絶望に気づく余裕すらない。
シルヴァニアの広場は救済の熱狂が去った後、癒しようのない悲しみと、失われた命への慟哭で満たされていた。
「うっ……ひっく……」
少女が、両親の亡骸の前でただただ涙に暮れていた、その時だった。
不意に背後から、澄み切った鈴を振るような、穏やかで優しい声がかけられた。
「──ご両親を、亡くされたのですね」
「……?」
少女が涙に濡れた顔を上げて振り返ると、そこにはいつの間にか一人の女性が静かに佇んでいた。
女性は、幾重にも重ねられた純白のヴェールで全身を覆い、その顔立ちは窺い知ることができない。
だが、ヴェールの隙間から僅かに覗く白い肌は病的なまでに透き通り、立ち姿はこの世のものとは思えぬほどの清らかさと、神秘的な気配を漂わせていた。
「お辛いでしょう。その深い悲しみ、この私……リリアナには痛いほどよく分かります」
女性──リリアナは、ゆっくりと少女の傍らに屈み込むと、ヴェールの奥から慈愛に満ちた眼差しを向けているかのように、優しく語りかけた。
その声には一切の偽りも感じられない、純粋な共感と憐憫の情が込められている。
「でも、もう大丈夫。私があなたと、そしてあなたの大切なご両親の魂に、真の安らぎをお届けしますから……」
少女は女性の言葉を、魔法にでもかかったかのようにじっと聞き入っていた。
彼女の存在そのものが、この世の苦しみ全てを包み込み、浄化してくれるかのような絶対的な安心感を放っていたのだ。
「もうちょっとだけ、待っててね。あなたの悲しみは、もうすぐ終わります」
やがて女性は静かに立ち上がる。そして、広場の中央へと夢の中を歩むかのように、幻想的な足取りで進んでいった。
不思議なことに、彼女が歩むたびに、その周囲にはどこからともなく青白い燐光を放つ蝶がふわりと舞い始め、足元には現実には存在しないはずの、清らかな白い百合の花弁が幻のように舞い散っては消えていく。
「……?」
「あれは……?」
広場で悲しみに暮れていた人々が、不可思議で、しかし神々しい光景に次々と顔を上げた。
絶望的な破壊と死の匂いが支配していたはずの広場に、突如として現れた清浄で、慈愛に満ちた聖職者然とした女性の姿。
その場にいた全ての者が、一瞬にして言葉を失い、非現実的なまでに美しい存在に目を奪われていた。
そう。見ただけで、彼らの心に説明のつかない期待と、畏敬の念が静かに広がり始めていた。
それが異常なことだというのを、誰もが気付かない──。
「──皆さま」
広場の中央に立った女性──リリアナは、ヴェールに覆われた顔を天に仰ぐように静かに掲げると、そっと両手を広げた。
彼女の薄い唇から、言葉が紡がれ始める。
「愛する者を失うということが、どれほど胸を裂くような悲しみであるか……その痛み、この私には、我がことのように痛いほどに分かります。温もりを交わした手が、もう二度と握りしめることができない絶望。優しい声が、もう聞こえないのだという現実。その喪失感は、魂を内側から焼き焦がすような、耐え難い苦しみでございましょう……」
その声は決して大きくはない。しかし、不思議なほどに澄み渡り、広場の隅々にまで……いや、破壊されたシルヴァニアの街の瓦礫の奥深くにまで、染み入るように響き渡った。
広場で亡骸に取りすがっていた人々が、ふと顔を上げる。
「なんだ……?」
「分からん……でも、なんだか懐かしい声だ……」
復興作業に手を動かしていた者たちが、その動きを止める。
絶望に沈み、家屋の残骸の中でただ虚空を見つめていた者たちも、何かに誘われるようにゆっくりと立ち上がり、声のする方へと歩き始めた。
乾いた大地が慈雨を求めるように。傷ついた魂が救済の響きに引かれるように。シルヴァニアの生き残った民衆が、次々と広場へと集まってくる。
「なんと酷い有様……獣王の暴挙に、家屋も希望も壊れ、絶望の身が残るこの街の惨状、見ているだけで心が痛みます……」
リリアナは、集まってきた人々一人一人の顔を、ヴェールの奥から見渡すかのように、ゆっくりと、そして優しく語り続ける。
「あなた方が流した涙も、その胸を締め付ける苦悩も、このリリアナは全て受け止めましょう。あなた方は決して一人ではございません。私が、ここにいます。あなた方の悲しみに、この身が砕けるまで寄り添いましょう」
その言葉は、巧みな弁舌や計算された慰めなどではなかった。純粋なまでの共感と、底なしの慈愛に満ちている。
絶望の淵にいた民衆の心に、その言葉は乾いた地面が水を吸い込むように、深く、速やかに染み渡っていった。
「なんだろう……彼女の声を聞いていると、安らいで……」
「うん……なんか……ぽかぽかする……」
張り詰めていた緊張の糸が切れ、張り裂けそうだった悲しみが、温かい何かに包まれて溶けていくような感覚。
広場には、先ほどまでの絶叫や慟哭とは違う、静かで深い嗚咽が響き始めた。それは悲しみが、純粋な慈悲によって、ようやく解き放たれたかのような涙。
人々はただただ、リリアナの言葉に聞き入り、その存在に魂を委ねるかのように静かに涙を流し続けていた。
気づけば、広場は、生き残った民衆で埋め尽くされていた。誰もが、そのヴェールに包まれた女性の言葉に、最後の望みを託すかのように聞き入っている。
すすり泣く声、愛する者の名を呼ぶ声、運命を呪う声……それらの悲痛な音が満ちる中で、リリアナは静かに演説を続けた。
「あなた方の涙は、決して無駄ではございません。その一滴一滴が、この世界の不条理を、生命の儚さを、そして生きることの苦しみを、私に教えてくれます。私は、あなた方の痛みと共にあります」
その言葉は単なる慰めではなかった。それは、苦しむ者全てを救済するという、絶対的な宣言。
「彼女の話を聞いてると……涙が……」
「あぁ……心に染み渡る……」
一人、また一人と民衆は涙ながらにその場に膝をつき、リリアナへと手を差し伸べ、祈りを捧げ始めた。
藁にもすがるような、必死の祈り。この絶望的な状況から救い出してくれる唯一の存在だと、彼らは本能的に感じ取っていた。──感じ取って、しまっていた。
その光景を、リリアナはヴェールの奥から静かに見下ろしていた。やがて、彼女は満足げに一つ頷くと、それまで流れるように紡がれていた説法を、ぴたりと止めた。
「……」
不思議なことに、彼女が言葉を止めると同時に。あれほど騒がしかった民衆のざわめきも、水を打ったように静まり返った。
広場には、風の音と、遠くで何かが崩れる音だけが微かに聞こえるのみ。
絶対的な静寂の中、リリアナはゆっくりと周囲を見渡し、集った数えきれないほどの民の顔を一人一人確かめるように見つめた。
そして静かに、全ての者の魂に直接語りかけるかのような、明瞭な声で言った。
「──私は、思うのです。あなた方が、このような耐え難い苦しみを味わうのは、ひとえに……『生きている』からこそなのだと」