古都シルヴァニアにおける獣王グロムと沈黙の騎士サイレスの激突。
魔界最強格の一角である獣王が深手を負い、撤退を余儀なくされたという衝撃的な報せは、ハーピィの伝令兵の翼に乗り、ギルダスの情報網を駆け巡り、リラの遠見の水晶に映し出され、瞬く間に魔王城に詰める他の候補者たちの耳にも届いていた。
魔王継承戦という盤面に投じられた、新たな波紋。
──ある者はそれを好機と捉え。
──ある者は脅威とみなし
──またある者は、その裏に潜む更なる混沌の予兆を嗅ぎ取る。
それぞれの思惑が、激しく交錯する時……再び、物語は大きく動く──
♢ ♢ ♢
魔王城の一角、ボロク将軍の作戦司令室。
重苦しい空気の中、大将軍ボロクは、巨大な戦況図を睨みつけ、その厳つい顔には苦渋と、しかし隠しきれない武人としての興奮が滲んでいた。周囲には、彼の腹心たる魔王軍の幹部たちが、固唾を飲んで主君の次の一手を待っている。
「サイレスめ、あの獣王を退けるとは! ……その武勇、認めぬわけにはいかぬな」
ボロクは、唸るようにそう言うと、拳で卓を強く叩いた。
「だが、シルヴァニアは最早自力ではやっていけまい! 弱り切った民と土地を、他のハイエナどもにこれ以上好きにさせてはならぬ! 全軍に告ぐ! 急ぎ先遣隊をシルヴァニアへ向かわせよ! 我ら魔王軍が彼らを保護し、揺るぎなき秩序をもたらすのだ! これは、ヴァレリウス陛下への忠義である!」
その声は、武力による秩序回復という、彼の揺るがぬ信念を改めて示すものであった。
♢ ♢ ♢
一方、魔王城の最上階に近い、宮廷魔術師筆頭リラの私室兼研究所。
壁一面の魔導書と、怪しげな光を放つ実験器具に囲まれ、リラは黒曜石の円卓に映し出されたシルヴァニアの光景……サイレスの圧倒的な戦闘と、グロムの敗走、そしてそれに歓喜する民衆の姿を、冷ややかに、しかし強い興味を宿した瞳で見つめていた。
その艶やかな唇には、いつものように妖艶な微笑みが浮かんでいる。
「沈黙の騎士……その力の源、興味深いわね。あの騎士には……何かがある」
リラは細い指先で水晶に触れ、サイレスの姿を拡大する。
「シルヴァニアは格好の実験場になりそうね。あの騎士が撒いた正義という名の種が、私の知識という名の土壌でどう育つか、あるいは……もっと別の花を咲かせることになるのか。コルネリウス、すぐにシルヴァニアへ調査隊を。あの騎士が残した魔力の痕跡、戦闘の記録、そして民衆の感情……全てを、詳細に記録してきなさい」
その声は、魔王の座よりも、世界の真理と禁断の知識を求める魔女のものだった。
♢ ♢ ♢
魔王城の、誰も知らない薄暗い回廊。
闇そのものから滲み出たかのように、仮面の道化師フェステが右腕である暗者キルザエルからの報告を受けていた。
「……以上が、シルヴァニアに潜んでいた『観客』からの報告でございます」
「くっくっく……沈黙の騎士様が大活躍とは!まさに絵本の中の英雄様だ。民衆はさぞや喝采を送っていることだろうねぇ」
フェステは、芝居がかった陽気さで肩をすくめる。だが、その仮面の奥の瞳は、一切笑っていない。
「だがねぇ、キルザエル……この世に、タダで現れる英雄なんていやしない。あの騎士様が一体『何』を望んでシルヴァニアを救ったのか……そして、あの獣王を『生かして』逃がしたのは何故なのか……」
フェステは、楽しげに指をくるくると回す。
「ああ、考えれば考えるほど、この舞台は面白くなってくるじゃないか!これで役者は出揃ったか、それともまだ隠し玉が……いや。……早速、シルヴァニアに新たな『観客』を送り込むんだ。英雄様の次の演目と、そして……あの街に集まるであろう、他の『役者』たちの動きを、特等席で見物させてもらおうじゃないか」
その声は、混沌を愉しむ、生まれながらの策略家のものだった。
♢ ♢ ♢
金貨王ギルダスの執務室。
ギルダスは純金製の巨大な椅子にその肥満した巨体を沈め、目の前の帳簿の山とパチパチと音を立てる算盤の音に、満足げに耳を傾けていた。
「──以上が、シルヴァニアの街で起こった出来事でございます」
「シルヴァニアにて、獣王と騎士が激突……獣王は敗走し、騎士は街を救った、と。ふむぅ……」
ギルダスは、腹心であるダークエルフの副会長からの報告を聞きながら、金貨の山をジャラジャラとかき混ぜる。
金色の瞳には、他の候補者たちのような驚きや警戒の色はなく、ただ冷徹な「算定」の光だけが宿っていた。
「して、その英雄譚によって、シルヴァニアの市場価値は、どれほど変動したかね?」
副会長は、手元の分厚い報告書をめくりながら、淀みなく答える。
「はっ。街の物的被害は甚大。復興には莫大な費用が見込まれます。しかし、沈黙の騎士による英雄譚という付加価値により、シルヴァニアへの民衆の注目度、及び『支援』への期待値は、戦闘前の三百パーセント増と試算されます。また、サイレス個人の『ブランド価値』も急上昇しており、彼を支持する声が各地で高まっている模様」
「ほぅ!?三百パーセント……! くくくっ、これは美味い!」
ギルダスは、黄金の歯を剥き出しにして笑った。
「獣王の破壊は、実に非効率でコストばかりがかさむ愚行じゃ。じゃが、沈黙の騎士のやり方は、なかなかどうして金になるわい! 破壊された街と、そこに生まれた英雄! これほど分かりやすく、民衆の購買意欲をそそる物語はないからのぅ!」
彼は、机の上に置かれた精巧な天秤を指で弾く。
「良いか? 直ちにシルヴァニアの有力者どもに接触し、ギルダス大商会による全面的な復興支援を提案せよ! もちろん、資材供給から労働力の派遣まで、全てを我が商会が独占する条件で、じゃ! 英雄には、その舞台を維持するための金が要る。民衆には、希望という名の商品が必要じゃ。そしてワシは、その両方から利益をいただく!」
ギルダスの金色の瞳が、いやらしい光を放つ。
「シルヴァニアという株は、今が買い時じゃ!ホッホッホ! 戦争も、英雄も、全てはワシの商売の種に過ぎんわい!」
高らかな、そして強欲な笑い声が、金貨の山に反響する。
彼にとって、魔界の混沌とは、すなわち巨大な利益を生み出す、またとないビジネスチャンスでしかなかった。
ボロクの秩序、リラの知識、フェステの策謀、ギルダスの金、グロムの力、サイレスの義……。
それぞれの思惑が、シルヴァニアという新たな焦点を巡り、再び動き出す。
──だが、彼らはまだ知らない。
この魔界に彼らの想像を、理解を遥かに超えた最も異質で最も根源的な『死』が足音を響かせ始めていたことを。
それは、やがて彼らの盤面そのものを根底から覆しかねない絶対的な終末の序曲。
『死』は、沈黙の騎士が救い、ボロクが保護しようとし、リラが観察し、フェステが注目し、ギルダスが投資しようとする古都シルヴァニアへと……歩みを進めている──。
♢ ♢ ♢
アリア姫の私室に隣接するバルコニー。
月光が、大理石の手すりに寄りかかる少女の銀髪を、幻想的に照らし出していた。
アリアは、眼下に広がる魔王城下の広大な街並みを見下ろしていた。そこには無数の灯りが宝石のように煌めき、魔界の民の営みが息づいている。
しかし、今の彼女の瞳には、その輝きはどこか空虚に映っていた。
「はぁ……」
小さく、そして重い溜息が、夜の静寂に溶けていく。
彼女の耳にも、古都シルヴァニアでの凄惨な戦いの報せは届いていた。沈黙の騎士サイレスが獣王グロムを退け、街を救った──表向きは英雄譚として語られるその出来事も、アリアにとっては、ただ心を深く抉る痛ましい報せでしかなかった。
(サイレス様……グロム様……。お二人とも、お父様がご健在だった頃は、決して互いに刃を向けることなどなかったのに……)
彼女の脳裏に浮かぶのは、かつての魔王城の光景。
父ヴァレリウスの威光の下、時には意見をぶつけ合いながらも、一つの魔界のために力を合わせていたはずの、勇猛な将軍たちの姿。グロムの圧倒的な武勇も、サイレスの孤高の強さも、かつては魔界を守るための力として、同じ方向を向いていたはずだった。
それが今、父という絶対的な楔が失われた途端、その力は互いを傷つけ、民を巻き込み魔界を分断する牙と化している。
(どうして……どうして、こんなことになってしまったのでしょう。お父様が望んだのは、こんな未来ではなかったはずなのに……)
報せによればシルヴァニアでは多くの民が命を落とし、街は深く傷ついたという。たとえ獣王が退けられたとしても、そこに残されたのは深い悲しみと癒えぬ傷跡だけだろう。
その痛みが自分のことのようにアリアの胸を締め付け、碧眼が悲しげに潤む。
自分は魔王候補者でありながら何もできず、ただ遠くから悲劇の報せを聞くことしかできない。その無力感が、彼女を苛んでいた。
「アリア様……」
いつの間にか、背後に侍女のリーネが心配そうに立っていた。彼女は、主君のあまりにも痛々しい横顔に、自らも胸を痛めているようだった。
「どうか、ご自身を責めないでくださいませ。シルヴァニアでの出来事は、決して姫様のせいではございません」
リーネは、そっとアリアの肩に温かいショールをかけながら慰めるように囁いた。
「姫様は、誰よりも民を思い、平和を願っておられます。そのお心は、きっと……きっといつか、他の候補者の方々にも、魔界の民にも届くはずでございますから」
その優しい言葉に、アリアはかろうじて頷き、リーネへと力なく微笑みかけた。
だが、その微笑みはあまりにも儚く、魔王城下に広がる夜の闇のように、深い憂いを隠しきれてはいなかった。
彼女の心には、シルヴァニアで流されたであろう血と涙の重みが、そしてこれから魔界を覆うであろう更なる戦乱の予感が、鉛のように重くのしかかっていた。
「ありがとう、リーネ」
アリアは、侍女の温かい言葉に心からの感謝を伝えながらも、その瞳は再び窓の外、広大な魔界の街並みへと向けられていた。
リーネの言葉は慰めにはなったが、彼女の心の奥底で渦巻く無力感と焦燥感を完全に消し去ることはできない。
(私にできることは……本当に何もないのでしょうか……?)
脳裏で、エルシーの言葉と、ボロク将軍の厳しい問いかけが交錯する。
力はない。だが、民に寄り添うことはできるかもしれない。
しかし、どうやって? この魔王城という、安全だが閉ざされた鳥籠の中から、どうやって民の痛みに寄り添うというのか。
(……そうだ)
不意に、アリアの心に一つの考えが閃光のように走った。
それは単純だが、無謀とも思える考え。
(私自身が、シルヴァニアへ行けば……)
力なき自分が現地へ赴いたところで、どれほどの助けになるかは分からない。むしろ、足手まといになるかもしれない。
だが、それでも。ただここで祈り、心を痛めているだけよりは遥かにましではないか。
ヴァレリウスの娘である自分が……魔王候補者である自分が……!傷ついた民の元へ直接赴き、その手を取り慰めの言葉をかけるだけでも。もしかしたら、ほんの少しでも、彼らの心の支えになれるかもしれない。
そして、現地の惨状を自らの目で確かめることで、この継承戦を終わらせるための何か別の道が見つかるかもしれない。
(行こう。シルヴァニアへ……!)
一度そう決意すると、アリアの心から迷いは急速に消え去り、代わりに確かな意志の光が宿った。
彼女は驚く侍女リーネに「少し、ボロク将軍のところへ行ってまいります」とだけ告げると、衝動に突き動かされるように部屋の扉を開け、足早に廊下へと歩き出した。
シルヴァニアへ向かうには、ボロク将軍の魔王軍の力が必要だ。彼ならば、きっと自分の真意を理解し、助力をしてくれるだろう。中庭で行われた会談で、彼女はそう確信していた。
重厚な絨毯が敷かれた、薄暗い廊下を進んでいく。目指すは、魔王軍の司令機能が集約された、ボロク将軍の執務室。
角を曲がり、その扉が見え始めた時だった。
アリアは、前方に立つ二人の魔族の姿を認め、思わず足を止めた。
(あの御方は……)
一人はボロク将軍の片腕であり、武勇で知られるオーガ族の副官。その岩のような巨躯が、今は信じられないほど小さく見えた。
そして彼と向き合っているのは、魔王城の伝令兵らしき軽装の魔族。その顔は土気色で、何か恐ろしいものを見てきたかのように引きつっている。
アリアが気づいた時には、彼らの会話は既に佳境にあったようだった。
伝令兵が、震える声で何かを報告し終えた、その直後──。
「……な、なん……だと……?そ、それは……本当、なのか……?」
オーガの副官の声が、信じられない、という響きと共に、乾いた音を立てて廊下に響いた。
普段は雷鳴のように轟くはずのその声が、今はか細く恐怖に歪んでいる。
伝令兵は、ただ力なく頷いた。
「……残念ながら。複数の偵察兵からの、同一の報告にございます……。シルヴァニアは……シルヴァニアは、もはや……」
オーガの副官の、鋼の如きはずの巨躯が、ぐらりと大きく揺れた。厳つい顔からは血の気が失せ、悪夢でも見ているかのように、その目は虚空を見つめている。
信じられないといった様子で数歩よろめくと、背後の壁に手をつかなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうなほどだった。
(……一体、何が?)
ただならぬ雰囲気に、アリアは胸騒ぎを覚えた。侵略者は退けられたはずではなかったのか。それ以上の、一体何が起こりうるというのだろう。
疑問は尽きなかったが、今はまずボロク将軍に会うのが先決だ。
アリアは、動揺する副官に気づかれないよう、静かに彼らへと歩み寄り、意を決して声をかけた。
「あの、副官さま……。ボロク将軍に、お目通りを願いたいのですが」
その声に、オーガの副官は、初めてアリアの存在に気づいたかのように、ゆっくりと、そしてどこか焦点の合わない目で、彼女の方を振り返った。
「アリア姫……?」
アリアの声に、オーガの副官は、はっと我に返ったようだった。
彼は慌てて姿勢を正し、先ほどまでの動揺を何とか押し隠そうと努めるが、その顔色は依然として土気色のままだ。
「も、申し訳ございませぬ、姫様。ですが、今は少々取り込んでおりまして……後ほど、改めて……」
副官が何とか言葉を繕い、この場を取りなそうとする。
だが、言葉を遮るように、アリアは一歩前に踏み出した。その瞳には先ほどまでの憂いとは違う強い意志の光が宿っている。
「いいえ、副官殿。今、お話しさせていただきたいのです。シルヴァニアの報せを聞きました。破壊された街、傷ついた民……私、いてもたってもいられないのです。どうか、ボロク将軍にお伝えください。私も、シルヴァニアへ向かいます。そのためには、どうしてもボロク将軍の、魔王軍のお力をお貸しいただく必要がございます!」
アリアの、真っ直ぐで純粋な言葉。それは、平時であれば、多くの者の心を打ったかもしれない。
しかし、「シルヴァニア」という単語を聞いた瞬間、オーガの副官の顔は、先ほどよりもさらに色を失い、恐怖に引きつった。
「ひ、姫様ッ! 何を仰せられるのですか!シルヴァニアには……今のシルヴァニアには、絶対に、絶対に行ってはなりませぬ!」
副官は、ほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。その剣幕に、アリアは思わず息を飲む。
彼は、何か恐ろしい言葉を続けようとして、しかし、アリアの純真な瞳を前にして、一瞬、言葉を詰まらせた。
「これを貴女さまに、お伝えしたくはないが……!!」
だが、この姫君を、この地獄へと行かせるわけにはいかない。その一心で、彼は意を決したように、震える唇を開いた。
「あの場所は、シルヴァニアはもはや──」
副官の絶叫にも似た言葉が、静かな廊下に響き渡った。