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第15話

城の喧騒とは無縁の、深い静寂に包まれた魔王城大書庫。

そこは、エルピスの私的な領域であり、彼が仕掛ける壮大な「遊戯」の盤面を俯瞰する特等席でもあった。


「……」


無数の書架が迷宮のように連なるその奥。

超越者エルピスは黒曜石で作られた巨大な円卓の前に座していた。

卓上には、精巧な細工が施された魔界全土の勢力図がある。それは彼が「遊戯盤」と呼ぶものだった。

その上には象牙や黒檀で精緻に彫られた、魔王候補者たちを象徴する駒が配置されている。


エルピスは、その中の一つ、獅子と竜の特徴を併せ持つ異形の獣人を模った駒を、細く美しい指先でそっと摘み上げた。

その紫水晶の瞳には、何の感情も浮かんでいない。


「獣王グロム……魔界の中でも最も過酷な環境とされる、万獣荒野──パンデモニウム・ワイルドを、己の実力のみで統一した異形の魔獣人……」


エルピスは、駒を光に翳すようにしながら、独りごちる。


万獣荒野。


魔界の果て、魔跡未踏の峻険な山脈と、毒の瘴気立ち込める広大な密林、そして灼熱の溶岩地帯が複雑に入り組む、魔界でも屈指の魔境。

そこは、文明社会の恩恵など一切届かぬ弱肉強食の世界であり、数多の凶暴な魔獣や、原始的な生活を営む獣人族の小部族が、絶えず生存を賭けた闘争を繰り広げる土地であった。

その無法地帯とも言える万獣荒野に、彗星の如く現れたのが、グロム率いる「赤牙戦団」だ。彼らは、圧倒的な武力と、グロム自身のカリスマ性によって、瞬く間に他の部族や魔獣の群れを平定し、あるいはその支配下に組み込み、一代にして万獣荒野全域を掌握するに至った。

その戦いぶりは常に苛烈を極め、服従せぬ者には死あるのみ、という単純明快な掟が、赤牙戦団の結束をより強固なものにしている。

そして、そんな血と暴力が支配する万獣荒野の頂点に君臨し、「獣王」とまで呼ばれるようになったのが、獣王グロムであった。


「……」


エルピスは、グロムを模した駒から目を離すと、今度は盤上で孤高を保つかのように他の駒から距離を置いていた、漆黒の騎士を象った駒を、同じように細く美しい指先でそっと摘み上げた。


「沈黙の騎士・サイレス……高潔なる魔族の騎士」


エルピスは、駒をゆっくりと回転させながら、その紫水晶の瞳を細める。


「その声を聞いた者は、魔界広しといえども誰もいない。魔王ヴァレリウスでさえ……そう、この俺ですら」


沈黙の騎士。


その騎士は、ただ己の信じる「義」のために剣を振るう孤高の武人として知られる。

魔界の各地で、強大な魔獣が暴れればどこからともなく現れてそれを討伐し、あるいは領主の圧政に苦しむ民がいれば、その領主の前に立ちはだかり鉄槌を下す。

その行動は常に単独。一切の私欲を見せず、弱者には決してその刃を向けることは決してない。むしろ、自らが盾となり剣となり、圧倒的な力を持つ者の理不尽な暴虐から、声を持たぬ無辜の民を守り続けてきた。

その高潔なる振る舞いと、比類なき武勇は、一部の者たちからは熱狂的なまでの崇拝を集め、またある者たちからは、その行動原理の読めなさ故に深い警戒の対象となっている。


エルピスは、手に持つ二つの駒──異形の獣王グロムと、漆黒の騎士サイレスを、しばし無表情のまま見比べていた。

一方は、剥き出しの力と欲望の権化。もう一方は、沈黙と高潔を纏う謎の剣士。あまりにも対照的な、しかし共に規格外の「力」を持つ駒。


「くく……」


やがて、エルピスの薄い唇が、不意に三日月のように歪み、楽しげな、それでいてどこか底知れぬ深淵を覗かせるような笑みが浮かんだ。

その笑みと共に、彼が軽く手をかざすと、遊戯盤の上空の空間が、水面のように揺らぎ、そこに一つの光景が鮮明に映し出された。

それは、遠く離れた古都シルヴァニアで今まさに繰り広げられているであろう、二つの強大な「力」の激突。

赤黒い闘気を纏う獣王グロムの巨躯と、漆黒の鎧に身を包んだ沈黙の騎士サイレスの姿が、互いの得物を凄まじい速度で交錯させている。


「獣王と騎士の、『駒』の潰し合い……なんと愉快な光景か」


エルピスは、その壮絶な戦闘を、まるで極上の演劇でも鑑賞するかのように、薄い笑みを浮かべたまま眺めている。

その手元では、先ほどまで手にしていたグロムとサイレスを象徴する二つの駒が、まるで彼の心情を表すかのように、指先で弄ばれていた。


水晶や水鏡に映し出される光景は、まさに死闘と呼ぶにふさわしい。

グロムの戦斧「大地割り」が振るわれるたびに、シルヴァニアの石畳が砕け散り、周囲の建物が衝撃波で薙ぎ倒される。

対するサイレスは、その猛攻を、流れる水のように、風に舞う木の葉のように、紙一重で見切り、あるいは受け流し。その黒剣「ノートゥング」から繰り出される斬撃は、的確にグロムの鎧の隙間や、魔力の流れの僅かな乱れを捉えようとする。その剣技は、一切の無駄がなく、洗練され尽くした武の極致であった。


「さぁ、踊れ。無様に踊れ。そして、『我々』を愉しませてみせよ」


エルピスは、その激しい戦闘の行方よりも、二つの「駒」が互いにぶつかり合い、火花を散らし、そしていつかどちらかが壊れるであろうその過程そのものを、心底楽しんでいるようだった。


「満足か? ヴァレリウス。これが、お前の望んだ光景なのだろう?」


その言葉を口にした瞬間、エルピスの顔から、先ほどまでの愉悦に歪んでいた笑みが、ふっと消えた。

代わりに現れたのは、驚くほど穏やかで、静かな表情。

それは、彼がアリア姫の前で見せる「書庫番エルシー」の仮面とも異なる、太古の魔族・エルピスとしての、ありのままの面持ちであった。


「……」


その穏やかな表情の裏で、エルピスの脳裏に去来するのは、今、魔法の水晶に映し出されている二つの駒の壮絶な殺し合いではなかった。

彼の意識は、もっと遠い過去へ──今は亡き、魔王ヴァレリウスと過ごした、取り留めもない日々の記憶へと、静かに沈んでいく。


「……そうなんだろう? ヴァレリウス……」


すぐ傍らにいる旧友に同意を求めるかのように、エルピスは再びそう呟いた。その瞳が、現実の光景から焦点を外し、どこか遠くを見つめるように、ゆっくりと細められていく。

大書庫の静寂が、彼の意識を過去へと誘うかのように、一層深まった。




♢   ♢   ♢




それは、まだ先代魔王ヴァレリウスが健在であった頃。季節は、魔界にも珍しく穏やかな陽光が降り注ぐ、実りの時期。

魔王城の最奥、ヴァレリウスの私室。そこは、彼の執務室も兼ねており、壁一面には魔界の歴史や統治に関する書物が並び、巨大な机の上には、処理すべき書類の山が築かれていた。


その部屋の主である魔王ヴァレリウスは、今はその執務机に座り、書類から顔を上げていた。その表情は、魔王としての威厳を保ちつつも、どこか普段よりも砕けた雰囲気を漂わせている。

そして彼の視線の先には……エルピスが、自室のように寛いで、何もないはずの宙空に、ふわりと身体を横たえて浮かんでいた。

その姿は、重力という概念すら彼には無関係であるかのように自然で、そして優雅である。


『エルピスよ。一つ、「賭け」をしてみないか?』


ヴァレリウスが、親しい友人にでも話しかけるような、穏やかで、しかしどこか悪戯っぽい響きを含んだ声色で、宙に浮くエルピスにそう切り出した。


『賭け?』


エルピスは、少しばかりの興味をそそられるのを感じた。彼が知る限り、この実直な魔王は、運否天賦に身を任せるような遊戯を好んだことは一度もない。

ましてや、この自分を相手に「賭け」を提案するなど、一体どのような風の吹き回しか。


『私が死んだ後、誰が魔王になるか……その「遊戯」の賭けだ』


ヴァレリウスの言葉が、エルピスの耳に届いた瞬間。

それまで宙に横たわり、どこか物憂げに、そして退屈そうにしていたエルピスの表情が、ぴくりと微かに動いた。

彼は滑るような動作で宙に浮いたまま上半身を起こすと、その紫水晶の瞳を真っ直ぐに、机に向かうヴァレリウスへと向けた。


『……お前が死んだ後、だと? 一体、何を言っている。お前は、まだ死ぬには早すぎるだろう。その身体も、その魂の輝きも、まだ死からは遠い』


エルピスの声には、純粋な疑問の色が混じっていた。

彼にとって、ヴァレリウスの「死」など、まだ遥か未来の、考慮にすら値しない事象のはずだった。

そのエルピスの言葉に、ヴァレリウスは、ふっと穏やかな、しかしどこか寂しげな微笑をその唇に浮かべた。


『さあ、どうだろうか。命というのは、存外あっけなく終わる時もあるものだよ……。悠久を生きる貴方とは違ってな、エルピス』


その言葉は、まるで遠い未来を予見しているかのようでもあり、何かエルピスの知らない覚悟を秘めているかのようでもあった。

エルピスには、ヴァレリウスの言葉の真意も、その瞳の奥に宿る複雑な色の意味も、正確には理解することができなかった。


『さあ、どう予想する? この私がいなくなった後、誰が魔界の頂点に立つことになるか。貴方のその慧眼で、見立てを聞かせてはくれまいか?』


ヴァレリウスの声が、どこか楽しむような響きを帯びて、再び私室の静寂を破る。

エルピスは、先ほどまでの僅かな動揺を仮面の奥に押し隠し、怪訝な表情を浮かべながらも、「ふむ……」と軽く顎に手を当て、思考するような素振りを見せた。


『次代の魔王、か』


その言葉を、エルピスは内心で反芻する。

悠久とも言える長き時を生きてきた彼にとって、この魔界の支配者などというものは、季節が巡るように、流行り病のように、幾度となく入れ替わっていくものを見てきている。

そのどれもが、彼にとっては些末な出来事の繰り返しに過ぎなかった。


ある時は、世界を血と炎で染め上げ、恐怖による支配で人間族を絶滅寸前にまで追いやった、苛烈なる魔王の時代を、彼は高みの見物を決め込んでいた。その魔王が、やがて自らの力の暴走によって滅びゆく様も、ただ淡々と眺めていただけだ。

またある時は、高貴な血統というだけで魔王に成り上がったものの、才覚も力も持たぬ愚かな魔王が、逆に人間に攻め込まれ、今度は魔族の方が絶滅しかかった時代もあった。その時は、あまりの滑稽さに、思わず声を上げて嘲笑った記憶すらある。

他にも、知略に長けた魔王、魔術の探求に生涯を捧げた魔王、美貌だけで国を傾けた女王、そして、あまりにも凡庸で、歴史に名を残すことすらなかった無数の魔王たち……。


ありとあらゆる魔王の勃興と衰亡を、舞台の上の演劇でも見るかのように傍観してきたエルピスにとって、このヴァレリウスの問い──「次代の魔王は誰か」などというものは、正直なところ、あまりにもありきたりで、退屈極まりない問いであった。

だが、目の前の男──ヴァレリウスは、そのエルピスの内心の冷笑など知る由もなく、ただ真摯な、それでいてどこか期待を込めたような眼差しで、彼の答えを待っている。


『……』


エルピスは、しばしの沈黙の後、気まぐれにサイコロでも振るかのように、目の前の男を少しからかってやろうという悪戯心からか、その美しい唇をゆっくりと開いた。


『そうだな、ヴァレリウス。お前が死んだ後、次の魔王の座に就くのは──』




♢   ♢   ♢




「……」


不意に、エルピスの意識が、深く沈んでいた過去の記憶の海から、現実へと急速に引き戻された。

目の前には、先ほどまでと同じ、魔王城大書庫の静寂がある。そして、彼が魔法で映し出していた、遠く離れた古都シルヴァニアでの壮絶な光景──赤黒い闘気を纏う獣王グロムと、漆黒の鎧に身を包んだ沈黙の騎士サイレスが、互いの全てを賭して死闘を繰り広げている映像だけが、音もなく揺らめいていた。

先ほどまで語りかけていたはずの、今は亡き魔王ヴァレリウスの姿は、どこにもない。


「ふむ」


エルピスは、先ほどの穏やかな表情から一転、再びその紫水晶の瞳に底知れぬ光を宿らせると、軽く顎に手をやって、面白そうに呟いた。


「あの時、俺はヴァレリウスになんと答えたかな……」


その声には、遠い過去を懐かしむような響きと、そして、これから始まるであろう「答え合わせ」を愉しむかのような、歪な期待感が込められていた。

エルピスは、再び視線を遊戯盤の上空に映し出された光景へと戻す。

そこでは、二つの強大な「駒」の死闘が、まさにクライマックスを迎えようとしていた。

エルピスが、ふと興味深そうに眉を上げる。


「……ほう?」


魔法の映像に映し出されたのは、漆黒の騎士サイレスの長大な剣が、獣王グロムの分厚い腹部を深々と貫いている光景だった。

グロムの巨躯が大きくのけぞり、その口からはおびただしい量の血が溢れ出している。


──どうやら。

此度の戦いは、「沈黙の騎士」が象徴する研ぎ澄まされた「技」と、あるいは「信義」のような何かが、獣王の「暴虐」なる力に勝った、ということらしい。


映像の中のグロムは、致命傷とも思える傷を負いながらも、まだその赤い瞳の闘志を失ってはいなかった。彼は、腹に突き刺さった剣を引き抜かせると、天を衝くような苦悶の滲む雄叫びを上げた。

今回は負けたが、死なない限りは真の負けではないとでも言っているのだろうか。グロムは、残存する赤牙戦団の兵士たちと共に、一時的であろう撤退を開始していく。

その背中は、深い傷を負いながらも、なお屈せぬ王者の風格を漂わせていた。


そして、首領であるグロムが戦場を離脱したことにより、古都シルヴァニアの戦いは、静寂に包まれていた。


獣王の脅威が去ったことを知ったシルヴァニアの民衆たちは、最初は何が起こったのか理解できない様子だったが、やがて、広場に一人静かに佇む沈黙の騎士サイレスの姿を認めると、堰を切ったような大歓声を上げたような素振りを見せている。

恐怖から解放された喜びと、街を守り抜いた英雄への称賛が、破壊された街並みに響き渡り、生き残った者たちは互いに抱き合い、涙を流して勝利を祝っていた。


「くく……そうか。こうなったのか」


大書庫でその光景を眺めていたエルピスは、指で弄んでいた二つの駒を、そっと遊戯盤の上に戻した。

そして、グロムを模した駒を、指で弾いて倒す。


「お前は、この展開を予想してたのかな?ヴァレリウス」


その声には満足とも、次なる展開への期待ともつかぬ、複雑な響きが込められていた。


「──だが、まだシルヴァニアには『死』の気配が近寄ってきている。今までよりも、遥かに強い『死』がな……」


エルピスの歪んだ口から放たれた愉悦の呟きは、静かに大書庫に溶けていった。

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