第一章:政略結婚の罠
1-1 結婚の命令
アリエッタ・アストリアは、父の硬い表情と母の悲しげな瞳を前に、ただ静かに座っていた。窓の外では穏やかな陽光が庭を照らし、白い花が風に揺れている。だが、今この部屋に漂う重苦しい空気は、その美しい光景を遠くに追いやっていた。
「……アリエッタ。お前は公爵家へ嫁ぐことになる」
父であるアストリア伯爵のその言葉は、彼女にとってまるで冬の冷たい風が吹きつけるような衝撃だった。
「えっ……公爵家、ですか?」
小さな声で聞き返すが、父は彼女の目を見ることなく、ただ冷たく頷くだけだった。
「ヴィンセント・アルカナ公爵だ。知っているだろう。王国屈指の名門で、資産も莫大。……お前が嫁ぐことで、我が家も救われる」
氷の公爵――その名前は誰もが知っている。彼は冷酷無情な男として有名であり、その威厳と非情さで周囲を震え上がらせる存在だ。王国の北の領地を治め、貴族社会では常に孤高を保ち、感情を表に出すことはないと噂されていた。
そんな男に嫁げと、父は言う。
「救われる、とはどういう意味でしょうか?」
アリエッタは震える声で問いかけた。父は彼女の声に苛立ったように、机を軽く叩く。
「我が家の財政は限界だ。お前も薄々気づいているだろう。公爵家との縁談は、我らにとって最後の希望なのだ」
「……そんな」
財政難――その言葉は彼女にとって初耳ではない。家の使用人の数は減り、母が贅沢品を控えるようになったのも知っていた。それでも、彼女は希望を持っていた。何かのきっかけで、この困難は乗り越えられるのだと。だが、その「希望」とは彼女自身が犠牲になることでしか得られないものだったのだ。
「アリエッタ、これもお前の務めだ」
父のその言葉に、アリエッタは絶句した。伯爵家の娘として、家を救うために政略結婚を受け入れる――それが当たり前だと、父は言いたいのだ。
「……分かりました。お受けいたします」
涙がこぼれそうになるのを堪えながら、アリエッタは静かに答えた。父は満足げに頷き、母は彼女の肩にそっと手を置いた。
「良い子ね、アリエッタ。あなたなら、きっと公爵にも気に入られるわ」
母の優しさが逆に胸を締め付ける。気に入られる――そんな簡単なものではない。公爵は冷酷で無情な男、彼がアリエッタをどう扱うのかなど想像もできない。
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義姉・クラリッサが、その様子を見下すように笑っているのに、アリエッタは気がついた。
「まあ、随分と良いご縁じゃない? アリエッタ。氷の公爵夫人だなんて、聞くだけで寒気がしそうだわ」
クラリッサはアリエッタと同じくアストリア伯爵家の娘だが、母が違う。美しく高慢な義姉は、いつもアリエッタに対して優位に立とうとする。今もその笑みに込められた侮蔑を、アリエッタは感じ取った。
「そうね、クラリッサ姉様。私に務まるか分かりませんが……努めさせていただきます」
「まあ、健気ねえ。でも公爵に捨てられないよう、せいぜい頑張ることね? 冷酷な男ですもの、飽きたらすぐに……ふふっ」
クラリッサの言葉は氷のように冷たく、刺すようだった。だが、アリエッタは反論しなかった。ただ俯き、静かにその言葉をやり過ごすことしかできない。
私が嫁ぐことで家が救われるなら、それでいい。
そう自分に言い聞かせるしかなかった。
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その夜、アリエッタは自室のベッドで小さな声で呟いた。
「ヴィンセント・アルカナ公爵……冷たい人、と噂されていますけれど、どんな方なのかしら……」
夜の闇は彼女の不安をさらに大きくする。明日には公爵邸へ向かう馬車が迎えに来ると聞いている。もう後戻りはできない。
(私は、無事にやっていけるのだろうか)
彼の冷たい瞳が、自分を見下す姿を想像し、震えが止まらない。だが、恐怖に屈している時間はないのだと、アリエッタは無理にでも目を閉じた。
「大丈夫……私なら、きっと……」
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翌朝、伯爵邸に豪奢な馬車が到着した。黒く磨き上げられた馬車は、まさに威圧的で、公爵家の権威を示していた。
「準備はいいか、アリエッタ」
父の言葉に、アリエッタはゆっくりと頷く。そして、彼女の目の前には執事らしき男性が恭しく立っていた。
「アリエッタ様、お迎えにあがりました。どうぞ、こちらへ」
アリエッタは少しだけ躊躇したが、深呼吸をして馬車に乗り込む。その瞬間、義姉クラリッサが嘲笑うように囁いた。
「お気をつけて、公爵夫人様。せいぜい冷たくされないようにね」
クラリッサのその言葉が耳に残ったまま、馬車はゆっくりと動き出す。
外の風景は次第に遠くなり、アリエッタの心も少しずつ離れていく。新たな生活、冷酷な夫、そして待ち受ける未来――彼女の運命が、今大きく動き出したのだ。
(私は、どうなってしまうの……?)
馬車の窓から差し込む陽光は冷たく、アリエッタの不安を少しも温めることはなかった。
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こうして、アリエッタの「政略結婚」の物語が始まる――。