第一章:政略結婚の罠
1-2 義姉クラリッサの策略
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公爵家への嫁入りが決まって数日後、アリエッタは荷造りを終え、自室の窓から庭をぼんやりと眺めていた。視線の先には、花壇で咲き誇る美しい白い花々が風に揺れている。
「これで本当に良かったのかしら……」
彼女の呟きは誰に聞かれることもなく、部屋に溶けていく。自分の気持ちとは裏腹に、政略結婚は既に決定事項であり、家族の命令には逆らえない立場だった。それでも、彼女の胸の中には、冷酷と噂される「氷の公爵」との未来への不安が広がっていた。
その時――。
「おや、まだ部屋に引きこもっているの?」
ドアがノックされることもなく開き、義姉クラリッサが高いヒールの音を響かせながら入ってきた。
「クラリッサ姉様……」
アリエッタは反射的に振り返った。義姉クラリッサは、アリエッタと同じ伯爵家の娘でありながら、正室の子として生まれ、幼い頃から常に自分を「上」と見せつけてきた人物だ。
今日もクラリッサは派手な宝石を散りばめた豪華なドレスを纏い、完璧な笑みを浮かべていた。しかし、その笑みの奥には、薄く冷たい悪意が滲んでいる。
「さすがね、アリエッタ。公爵夫人ともなれば、控えめで健気なふりをしていなければいけないものね」
「……私なりに、務めを果たそうと思っています」
アリエッタは微かな震えを隠し、静かに答えた。しかし、その控えめな態度がクラリッサの癇に障ったのか、彼女は唇を歪ませる。
「ふふっ、可哀想に。あんな冷血な公爵に嫁ぐだなんて、考えただけで凍りつきそうだわ。きっとあなたは、冷たい床で一人泣くことになるのよ」
「……!」
アリエッタはクラリッサの残酷な言葉に息を呑んだ。だが、口を挟むことはできなかった。彼女が反論しようものなら、それをさらに嘲笑うのがクラリッサだからだ。
「まあ、いいわ。今のうちにせいぜい自由を楽しんでおくことね、公爵夫人様」
クラリッサは最後に「ごきげんよう」とわざとらしく言い残し、音を立てて扉を閉めた。
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クラリッサが部屋を出た後、アリエッタはベッドに座り込み、大きく息を吐いた。姉の言葉はいつだって鋭い棘のように彼女の心を傷つける。それでも、アリエッタは泣かなかった。
(負けてはいけない。私が公爵家で失敗すれば、それは私だけではなく、家全体の恥になる……)
そう自分に言い聞かせながらも、胸の中の不安は消えない。父の期待、母の悲しげな眼差し、義姉の冷笑……すべてが重くのしかかっていた。
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一方その頃、クラリッサは自室に戻り、侍女ベアトリスに指示を出していた。彼女の表情は、先ほどの優雅な笑顔とは打って変わり、冷たく歪んでいた。
「ベアトリス、あの件は準備できているでしょうね?」
「はい、お嬢様。結婚式の最中に手を回す手筈は整っております」
「いいわ。どうせ公爵も、あの小娘を見れば幻滅するでしょうけど、念には念を入れておくべきよ」
クラリッサは満足げに頷くと、窓際に立って庭を見下ろした。彼女の視線の先には、部屋の窓から外を見つめるアリエッタの姿があった。
「あの子が私よりも幸せになるなんて、絶対に許せないわ」
クラリッサにとって、アリエッタの存在は疎ましいものでしかなかった。自分こそが父の誇りであり、伯爵家を支えるべき存在だという自負がある。しかし、アリエッタが公爵家の夫人として名声を得れば、その立場が揺らぐ――それがクラリッサには許せなかった。
「氷の公爵とやら、あなたが本当に冷酷なら、あの子を早々に捨ててしまえばいいのにね」
クラリッサの瞳には冷たい光が宿り、彼女の心の奥底には暗い嫉妬と憎悪が渦巻いていた。
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翌日、アリエッタが公爵邸へ向かう日。
玄関前には黒光りする立派な馬車が止まり、数人の公爵家の使用人が控えていた。荷物が積み込まれる中、アリエッタは家族と別れの挨拶を交わした。
「行ってまいります、お父様、お母様」
「頼んだぞ、アリエッタ。我が家の名誉を守るのだ」
父は重々しく言い、母は涙ぐみながら彼女を抱きしめる。クラリッサはその光景を少し離れた場所から眺め、冷たく微笑んでいた。
「お気をつけてね、アリエッタ。あなたがどれほどの公爵夫人になるのか、楽しみにしているわ」
その言葉に込められた嘲笑を感じながらも、アリエッタは微笑んでみせた。
「ありがとうございます、クラリッサ姉様。頑張りますわ」
アリエッタは毅然とした態度で馬車に乗り込んだ。その姿を見届けると、クラリッサは静かに呟いた。
「さあ、どうなることかしらね。ふふっ……」
馬車がゆっくりと動き出し、アリエッタの新しい人生への旅が始まった。その未来に待つのは、公爵の冷たい瞳か、それとも――。
クラリッサの策略が渦巻く中、アリエッタの運命は動き始めた――。