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1-3 結婚式の波乱

第一章:政略結婚の罠


1-3 結婚式の波乱



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黒光りする馬車に揺られながら、アリエッタは手元に置かれた白い手袋をぎゅっと握りしめた。冷たい緊張が彼女の胸を締めつける。馬車の窓から見える景色は、どんどん変わっていく。生まれ育った伯爵家の領地を離れ、見たこともない広大な森と、北の厳しい風が彼女の頬をかすめた。


「……本当にここから始まるのね」


静かに呟くアリエッタの声は、馬車の中に沈んでいった。彼女の前には、まだ見ぬ夫――「氷の公爵」ヴィンセント・アルカナが待っている。冷酷無情、非情な男として噂される彼の元へ嫁ぐことが、果たして幸せに繋がるのだろうか。答えはどこにもない。


「アリエッタ様、公爵邸が見えてまいりました」


従者の声が馬車越しに響き、アリエッタははっと顔を上げた。遠くに見えるその邸宅は、まさに「氷の城」と呼ぶにふさわしい。白銀の外壁に飾られた重厚な装飾、冬の空にそびえ立つその姿は、気高くもどこか冷たさを漂わせている。


(これが……私の新しい家)


馬車が公爵邸の前で止まり、扉が静かに開かれる。外には数人の使用人が列を作って彼女を出迎えていた。


「ようこそ、アルカナ公爵家へ。アリエッタ様」


先頭に立つ執事が恭しく頭を下げる。その隣には、美しい漆黒の髪と鋭い金色の瞳を持つ青年が立っていた。


――ヴィンセント・アルカナ公爵。


彼の姿を見た瞬間、アリエッタの胸が一瞬だけ止まったように感じた。噂通りの冷たい瞳と無表情な顔立ち。しかし、その整った顔は絵画のように美しく、まるで彫刻のようだった。


「……はじめまして、公爵様。アリエッタ・アストリアと申します」


アリエッタは礼儀正しく頭を下げた。ヴィンセントは彼女を一瞥し、無言のまま数秒間、視線を向けた。そして低く落ち着いた声で言った。


「遠路ご苦労だった。今夜の式に備え、支度を整えるといい」


それだけを言い残し、彼は邸内へと向かっていった。


(……挨拶もこんなに冷たいなんて)


噂通りの無愛想な態度に、アリエッタの不安はさらに募った。だが彼の背中を見つめる中で、どこか孤独な影を感じたのも確かだった。



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そしてその夜――。


アリエッタとヴィンセントの結婚式が、邸内の広間で行われた。そこには近しい貴族や、王国の名士たちが集まり、式の進行を見守っている。


アリエッタは純白のドレスに身を包み、静かに立っていた。緊張と不安に手が震えそうになるのを、何とか堪える。


「……本当に、私で良いのかしら」


呟く彼女に、控えていた侍女が小さく微笑み、言葉をかける。


「アリエッタ様はとても美しいですわ。どうかご自信を」


その言葉に少しだけ救われ、アリエッタはゆっくりと顔を上げた。



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そして式が始まった。貴族たちの視線が彼女に集中する中、ヴィンセントが静かに立ち、彼女の前に手を差し出す。彼はやはり冷たい表情のままだったが、その手には迷いも震えもなかった。


(この人が……私の夫)


アリエッタは静かに手を取り、彼の隣に並んだ。司祭が二人の結婚を宣言し、祝福の言葉が広間に響く。


しかし――その瞬間だった。


「なんと!?」

「そんな……!」


突如、広間の一角で騒ぎが起こった。何事かと貴族たちがざわつき、アリエッタも目を見開いてその方向を見た。


「これが何だか分かるか?」


そこには、公爵家の使用人を名乗る男が立ち、手には何かの書類が握られていた。彼の顔には明らかな焦りと混乱が浮かんでいる。


「この手紙には、アリエッタ様が以前、他の男性と密会していたという記述が――」


「なんですって!?」


貴族たちが一斉に息を呑む。義姉クラリッサの仕掛けた罠――それはここで明らかになるはずだった。


アリエッタは驚き、ヴィンセントを見上げる。しかし彼は、男を一瞥しただけで冷静な声で言った。


「その手紙をよこせ」


男は震えながら手紙を差し出す。ヴィンセントは手紙を開き、冷たい視線で内容を一読する。そして、静かに書類を破り捨てた。


「そんなくだらない噂を、私が信じるとでも思ったか?」


その言葉に、広間の空気が一気に凍り付く。ヴィンセントはゆっくりと男に近づき、冷たい声で言った。


「私の妻を侮辱する者は、どうなるか覚悟しておけ」


男は怯え、震えながら後ずさる。そして、騒ぎを起こした彼は衛兵によって連れ出された。


ヴィンセントはアリエッタに向き直り、冷静なまま言葉を紡ぐ。


「何も心配することはない。お前は私の妻だ。それ以上でもそれ以下でもない」


その言葉に、アリエッタは涙が出そうになるのを堪え、ただ静かに頷いた。広間には再び静寂が戻り、式は何事もなかったかのように続けられる。


(この人は……冷たい人だと思っていたけれど)


アリエッタは初めて、ヴィンセントの中にある「揺るがぬ強さ」と「信頼」を感じた。彼は彼女を守った――それだけで、彼女の心の中の不安は少しだけ和らいだ。



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その夜、ヴィンセントとアリエッタの間に結ばれた小さな信頼の糸は、まだ細く弱いものだった。

だが、それは確かに未来への第一歩だった。


クラリッサの策略は失敗に終わり、新たな日々が幕を開ける――。



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