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1-4 新たな生活の幕開け

第一章:政略結婚の罠


1-4 新たな生活の幕開け



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結婚式の翌朝、アリエッタは早くに目を覚ました。普段より硬いベッドに違和感を覚えながら、重厚な天蓋と見慣れぬ装飾に囲まれた自室をぼんやりと見渡す。


(ここが、公爵邸……私の新しい家)


昨夜の出来事を思い出すと、まだ胸の奥がざわつく。結婚式の最中、義姉クラリッサが仕掛けた罠――「アリエッタの浮気の噂」が突然暴露されかけた。だが、公爵ヴィンセントはその噂を一蹴し、彼女を守った。


(私の妻だ。それ以上でもそれ以下でもない――)


彼の冷たくも揺るがぬ言葉が、今も耳の奥に残っている。その一言にどれだけ救われたことか。アリエッタはため息をつき、小さく自分の頬を叩いた。


「……しっかりしなくちゃ」


ここからが本当の始まりだ。アリエッタ・アルカナとして、公爵夫人として、新たな生活を築いていかなければならない。



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支度を終えたアリエッタが自室を出ると、廊下の端で待っていた侍女たちが一斉に頭を下げた。昨日から彼女を担当することになった筆頭侍女のリリアが、優雅に微笑む。


「おはようございます、アリエッタ様。本日からこちらの邸宅でのお勤めが始まります。何かお困りごとがあれば、どうぞお申し付けください」


「ありがとうございます、リリアさん。……あの、公爵様は?」


アリエッタの問いに、リリアは一瞬ためらうような表情を見せた。


「ヴィンセント様は、朝早くから書斎に籠もっておられます。お忙しいご様子ですので、お会いになる機会はしばらくないかと」


やはり、とアリエッタは小さく頷いた。結婚式の際に彼が見せた強い言葉とは裏腹に、彼の態度は依然として冷たい。新婚の妻に対しての挨拶もなく、執務に籠もっているというのだから、やはり彼は噂通り「氷の公爵」なのだろう。


(でも……彼は私を守ってくれた。それだけで十分)


自分に言い聞かせ、アリエッタは邸内を案内してもらうことにした。



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アルカナ公爵邸は王国の北に位置し、厳しい冬が訪れる土地柄に合わせて設計されていた。白を基調とした壁と黒い装飾が施され、どこか冷たく荘厳な印象を与える。広い廊下には絵画や鎧が並び、無駄のない美しさが漂っている。


「こちらが食堂でございます。朝食はもうご用意しておりますが、アリエッタ様にはまだ召し上がっていただけておりませんでしたね」


「いえ、私は……あとで構いません」


アリエッタは遠慮がちに答えると、リリアが微笑んだ。


「どうぞ、気になさらないでくださいませ。ここはアリエッタ様の家なのですから」


その言葉に、アリエッタの心が少しだけ温かくなる。ここは自分の家――そう自分に言い聞かせても、まだ実感は湧かない。


食堂の扉が開くと、そこには思いがけない人物がいた。


「……公爵様?」


「……」


長いテーブルの端に座り、静かに紅茶を飲んでいるヴィンセントの姿が目に飛び込んできた。彼はアリエッタに気づくと、軽く視線を向け、静かに口を開いた。


「もう目が覚めたか」


それだけを言って、彼は再び紅茶に視線を落とす。まるで彼の世界にはアリエッタしか存在していないような、そんな冷たい空気に、アリエッタは少しだけ胸を締めつけられた。


「あの、昨日は……その、ありがとうございました」


恐る恐るお礼を伝えると、ヴィンセントは少しだけ目を細めた。


「礼を言うことはない。私の妻だと公にした以上、誰にもお前を侮辱させない。それだけだ」


冷たい言葉だったが、その中にはどこか誠実さが感じられた。アリエッタは小さく頷き、彼の隣ではなく、テーブルの少し離れた場所に座った。



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朝食の時間は静寂に包まれたまま過ぎていった。ヴィンセントは食事を終えると立ち上がり、部屋を出る間際に言葉を残す。


「今日から邸内のことはリリアに聞くといい。余計なことは考えるな」


「……はい、公爵様」


その背中を見送ると、アリエッタは深く息を吐いた。


(やはり、この人は冷たい……)


だが、不思議とその冷たさは彼の本質ではない気がする。彼の目の奥には、何か隠された孤独がある――アリエッタはそう感じずにはいられなかった。



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その日、アリエッタは邸内の仕事を覚えるため、リリアと共に使用人たちの様子を見て回った。公爵家の領地を管理する責務がある以上、公爵夫人としても邸内の状況を把握する必要がある。


「アリエッタ様、こちらが温室でございます」


案内された温室の中は、公爵邸とは打って変わって温かく、色とりどりの花が咲き誇っていた。白い花々が風に揺れ、優しい香りが漂っている。


「まあ……なんて綺麗なの」


アリエッタは思わず笑みを浮かべ、花に手を伸ばした。その表情を見たリリアが、少しだけ驚いたような顔をした。


「アリエッタ様は花がお好きなのですね」


「ええ。小さい頃から庭で花を育てるのが好きでした」


温室に咲く花々を愛おしそうに見つめながら、アリエッタはふと呟いた。


(いつか……この場所が本当の意味で私の家だと思える日が来るのかしら)


彼女の新しい生活はまだ始まったばかり。氷のように冷たい夫ヴィンセントと、冷たくも美しい公爵邸――だがその氷の中に、確かな温かさが隠されていることを、アリエッタはまだ知らなかった。


新たな生活が幕を開け、氷の中に秘められた真実が、少しずつ動き出そうとしていた――。



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