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2-1 孤独な公爵

第二章:冷たさの裏の優しさ


2-1 孤独な公爵



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結婚から数日が過ぎたが、公爵邸は静寂に包まれたままだった。アリエッタは新しい生活に慣れるため、日々邸内を巡り、使用人たちと話を交わしていた。だが、肝心の夫ヴィンセントとはほとんど顔を合わせることがない。


彼はいつも書斎に籠もり、朝食の席以外では姿を見せない。まるで妻という存在に興味がないかのように。


「……やはり、噂通りの方なのね」


アリエッタは一人、広大な庭のベンチに腰掛け、ぼんやりと空を見上げた。灰色の雲が低く垂れ込め、北の冷たい風が花壇の花を揺らしている。


氷の公爵――ヴィンセント・アルカナ。

その名前の通り、彼は感情を見せず、冷徹に人々と距離を置いてきた。公爵家の権威を守るためには当然の態度だと言われているが、彼のその姿はどこか孤独に見えた。


(でも、あの時……私を守ってくれた)


結婚式の騒動で、ヴィンセントはアリエッタを侮辱する男を冷然と退けた。あの瞬間の彼の姿は、噂の「冷酷な公爵」ではなく、彼女を確かに守る「夫」だった。


「……どうして私にあそこまでしてくれたのかしら」


考え込んでいると、後ろから声がした。


「アリエッタ様、こちらにいらしたのですね」


振り返ると、筆頭侍女のリリアが立っていた。その手には、温かい紅茶の乗った銀のトレイがある。


「少し冷え込んでおりますので、温かいお茶をお持ちいたしました」


「あら、ありがとうございます」


アリエッタは微笑んで紅茶を受け取った。湯気の立つ香りに心が少し落ち着く。リリアは彼女の隣に立ち、静かに尋ねた。


「アリエッタ様、公爵様との生活には慣れましたでしょうか?」


「……ええ、何とか。でも、公爵様とはまだほとんどお話ができなくて……」


言葉を濁すアリエッタに、リリアは穏やかな表情で続けた。


「どうかお気を悪くなさらないでくださいませ。公爵様は、昔から感情を表に出すことが苦手なお方なのです」


「苦手……?」


アリエッタは意外そうにリリアを見つめた。彼女の中で、ヴィンセントは「冷たさ」と「無関心」の象徴のように思えていたからだ。


「はい。幼い頃から、公爵様は人を信じることが難しい環境で育ってこられました」


リリアの語る言葉には、どこかヴィンセントへの敬意と哀れみが含まれているように思えた。アリエッタは耳を傾ける。


「……何か、理由があるのですか?」


リリアは一瞬、言葉を飲み込むような表情を見せたが、やがて静かに口を開いた。


「以前、公爵様はご自身の側近や親族に裏切られたことがありました。それ以来、公爵様は誰にも心を許さず、孤独の中で生きることを選ばれたのです」


「裏切り……」


「それでも公爵様は、領地のため、そして民のために尽くしておられます。誰よりも責務に忠実でありながら、ご自身を犠牲にしていらっしゃる……それが公爵様のお姿なのです」


アリエッタは静かに息を飲んだ。リリアの言葉を通して見えたのは、孤独と責務を背負い続けるヴィンセントの姿だった。


(公爵様も、誰にも頼れないままここまで……)


アリエッタの心の中に、冷たい人だと思っていた彼への印象が少しずつ変わり始める。彼の冷たさの裏にある孤独と、不器用な優しさ――それを知ったことで、彼女はほんの少しだけヴィンセントに近づけたような気がした。



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その日の夕暮れ時、アリエッタは邸内を歩いていると、書斎の前で立ち止まった。扉の向こうからは、かすかに羽ペンを走らせる音が聞こえる。


(……話してみようかしら)


ためらいながらも、アリエッタは扉を軽くノックした。


「公爵様、少しよろしいでしょうか?」


数秒の沈黙の後、扉の向こうから低い声が返ってきた。


「入れ」


アリエッタは深呼吸をして、静かに扉を開けた。書斎の中には、大きな机と高く積まれた書類が並んでいる。その中心に座るヴィンセントは、淡々と書類に目を落としていた。


「どうした」


彼の視線は書類から動かず、無関心なようにも見える。しかし、アリエッタは勇気を振り絞り、彼に向かって歩み寄った。


「あの……お疲れではありませんか? 少し休まれたほうが良いのでは……」


ヴィンセントは手を止め、初めて彼女に目を向けた。その金色の瞳は鋭く、少しだけ驚いたように見える。


「私に休息は必要ない」


「……でも、公爵様が倒れてしまったら、領地はどうなるのですか?」


その言葉に、ヴィンセントの表情が僅かに揺れた。アリエッタはその瞬間を逃さず、続けた。


「私は、公爵様の妻です。何かお手伝いができるなら……」


「……余計なことを考えるな」


ヴィンセントは短くそう告げると、再び書類に目を落とした。その姿は冷たく、遠い――それでも、アリエッタはその背中がどこか寂しそうに見えた。


「分かりました。でも、何かあればお知らせくださいね」


そう言ってアリエッタは書斎を出た。その瞬間、ヴィンセントはふと手を止め、静かに呟いた。


「……余計なことを」


だが彼の声には、いつもの冷たさではなく、どこか戸惑いが混ざっていた。



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書斎を後にしたアリエッタは、自分の胸に手を当てた。


(やっぱり、公爵様は冷たいだけの人ではないわ)


彼の心の扉は固く閉ざされている――でも、その扉の向こうにはきっと、優しさが隠れている。アリエッタはそう信じずにはいられなかった。


(少しずつでいいから……私は彼の心に寄り添いたい)


新たな決意を胸に、アリエッタの瞳には小さな光が宿っていた。


冷たさの裏に隠れた孤独。その氷の中に眠る心を、アリエッタは少しずつ見つけ始めた――。



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