第二章:冷たさの裏の優しさ
2-2 クラリッサの偽りの噂
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公爵邸での生活が少しずつ落ち着いてきた頃、アリエッタにとって最も避けたい事態が起こり始めた。噂――それは小さな火種のように公爵領内を漂い、徐々に彼女を追い詰めていった。
「公爵夫人が以前、他の男性と密会していた――」
「彼女は家のために無理やり嫁いだらしい」
「公爵様の妻としてふさわしくないのでは?」
貴族や使用人たちの間で流れ始めたその噂は、間違いなくクラリッサが仕掛けたものだった。手紙や偽の証拠を密かに送りつけ、外部の者に流布させたのだろう。その目的はただ一つ――アリエッタを公爵家から追い出すため。
アリエッタ自身も、侍女たちのひそひそ話や不自然な視線に気づいていた。邸内に広がる冷たい空気が、彼女の居場所を少しずつ奪っていく。
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ある朝、アリエッタは庭で花に水をやりながら、心の整理をしていた。義姉クラリッサがどれほどの陰謀を巡らせても、彼女は屈するつもりはない。
(私がここにいる理由は、家のためだけではないわ。……公爵様との生活を、きちんと守りたいの)
しかし、その強い決意を打ち砕くように、一人の侍女が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「アリエッタ様、大変です!」
「どうしたの、リリア?」
筆頭侍女リリアの顔は青ざめており、何か重大なことが起きたのだと一目で分かった。
「公爵様の側近であるレオナード様が、アリエッタ様にご相談があると仰っています……」
「レオナード様が?」
ヴィンセントの側近として仕えるレオナードは、公爵邸の執務や領地の管理を支える有能な人物だ。そんな彼が突然、自分を呼び出すとは――。
(何か嫌な予感がする……)
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書斎に通されたアリエッタは、室内の空気がいつも以上に張り詰めていることを感じ取った。部屋の中央にはヴィンセントが立ち、その隣にはレオナードが控えている。
「……公爵様」
アリエッタが小さく声をかけると、ヴィンセントは無言のまま彼女を一瞥した。その金色の瞳は相変わらず冷たく、何を考えているのか読み取れない。
レオナードが前に進み出て、静かな声で言った。
「アリエッタ様、ご存じでしょうか。最近、貴女について不穏な噂が広がっております」
「……噂、ですか?」
「ええ。貴女が以前、他の男性と密会していたという話です。その真偽を確認するため、公爵様は私に調査を命じられました」
その瞬間、アリエッタの体が凍りついた。
――クラリッサの策略だ。
確信を持ったものの、彼女はすぐには言葉が出てこなかった。噂がここまで公爵様の耳にまで届いていたとは。
「私は――」
何かを言いかけたその時、ヴィンセントが静かに口を開いた。
「……答える必要はない」
その一言に、アリエッタとレオナードの視線がヴィンセントに向く。彼は机の上の書類を閉じ、ゆっくりとアリエッタに目を向けた。
「くだらない噂だ。いちいち相手にするな」
「ですが、公爵様――」
レオナードが抗議の声を上げようとしたが、ヴィンセントは手を軽く上げて制した。
「私が信じているのは、事実ではなく目の前にいる者だ」
その言葉は冷たくもあり、どこか温かくもあった。ヴィンセントの視線はまっすぐにアリエッタを見つめている。彼がアリエッタの弁明を求めず、ただ「信じる」と言ったことに、彼女は胸が熱くなった。
「公爵様……ありがとうございます」
アリエッタは頭を下げながらも、涙がこぼれそうになるのを必死に堪えた。ヴィンセントの言葉に救われたのだ――この邸内で、彼女の味方は確かに存在していた。
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その後、レオナードは書斎を後にし、アリエッタとヴィンセントだけが残された。
「……公爵様、どうして私を信じてくださるのですか?」
アリエッタは、震える声で問いかけた。ヴィンセントは彼女をじっと見つめ、静かに答えた。
「誰の言葉よりも、お前自身の姿を見て判断している」
その言葉に、アリエッタは胸が締め付けられた。ヴィンセントは冷酷な公爵と呼ばれているが、その裏には彼なりの誠実さと、揺るがぬ信念がある。
(この人は――本当に冷たいだけの人じゃない)
彼女はもう一度、彼のことを知りたいと強く思った。
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数日後、公爵邸に新たな動きがあった。ヴィンセントが「噂を広めた者を探し出せ」と命じ、徹底的に調査が行われたのだ。結果、クラリッサの仕組んだ罠は明るみに出ることになるのだが――その真実が暴かれるのは、もう少し先の話である。
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その夜、アリエッタは寝室で一人、窓の外に広がる月を見上げていた。
「私がここにいる限り、公爵様を支えることができるかしら……」
彼女の心には、少しずつ芽生え始めた信頼と、ヴィンセントへの新たな感情が宿り始めていた。
(きっと、彼の心の氷は溶けるはず……)
アリエッタは静かに目を閉じ、微かな笑みを浮かべた。クラリッサの仕掛けた罠は彼女の心を砕くことはなく、むしろアリエッタの中に強さを生んでいた。
冷たい噂の中で揺れる二人の距離――だが、そこには確かな絆の芽が根付いていた。