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2-3 ふたりの距離

第二章:冷たさの裏の優しさ


2-3 ふたりの距離



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数日間続いたクラリッサの噂騒動は、公爵ヴィンセントの迅速な対応によって、少しずつ鎮静化していった。しかし、アリエッタの心にはまだわずかな不安が残っていた。


(公爵様が私を信じてくださった……それだけでも嬉しい。でも、私はまだ公爵様のことを何も知らない)


彼の冷たい視線の奥に何が隠されているのか――アリエッタは、少しでも彼に近づきたいと強く思うようになっていた。



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その日、公爵邸には珍しく穏やかな陽が差し込んでいた。冬の厳しい北の地において、こんな日和は滅多にない。使用人たちはその晴れ間に庭の整備や窓の掃除に忙しくしている。


アリエッタは、そんな賑やかな様子を見て微笑んだ。


「……私も、何かできることを」


彼女は筆頭侍女リリアに頼み込み、庭の手入れを少しだけ手伝わせてもらうことにした。


「アリエッタ様、こんなお仕事は我々がいたしますから、どうぞお休みを――」


「いいえ、私もこの庭が好きなのです。一緒にお手伝いさせてください」


リリアは困ったような顔をしつつも、アリエッタの強い意志を感じ取り、頭を下げた。


「かしこまりました。ただし、どうかお手を汚さない程度にお願いします」



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アリエッタは庭の花壇に膝をつき、小さなシャベルを使って土を耕し始めた。色とりどりの花が風に揺れ、その香りが心を落ち着かせる。


「……この庭、もっとたくさんの花が咲けばいいのに」


無意識に口にした彼女の言葉に、背後から低い声が返ってきた。


「何をしている」


「――!」


驚いて振り向くと、そこにはヴィンセントが立っていた。黒いコートをまとい、金色の瞳が彼女を見下ろしている。その姿はやはり威圧的で、アリエッタは慌てて立ち上がろうとした。


「公爵様、申し訳ありません! 私、少しだけ庭の手入れを――」


「お前がする必要はない」


ヴィンセントは冷静にそう言うと、アリエッタをじっと見つめた。その視線には怒りではなく、どこか呆れたような、そして少しだけ柔らかい光が含まれているように見えた。


「……ここは私の家でもありますから。少しでも手をかけたいのです」


アリエッタは恥ずかしそうにそう告げた。ヴィンセントは一瞬、何かを言おうとしたが、代わりに静かに息を吐いた。


「その花は、北の地では育てるのが難しい。寒さに弱いからな」


「えっ?」


ヴィンセントが視線を向けた先には、アリエッタが手入れをしていた白い花が咲いていた。


「公爵様は、この花がお好きなのですか?」


アリエッタの問いに、ヴィンセントは少しだけ目を伏せた。


「……子供の頃に、母が育てていた花だ。それだけだ」


その言葉に、アリエッタははっとした。普段の冷たい表情からは想像もつかない、過去の思い出を垣間見た気がした。


「素敵なお話ですね。お母様が大切にされていたのなら、私もこの花を守りたいです」


そう言いながらアリエッタは微笑んだ。その笑顔に、ヴィンセントの目が一瞬だけ揺れ動いた。


「……勝手にすればいい」


そう言い残し、彼は踵を返して邸内へ戻っていった。だが、彼の後ろ姿はどこかいつもより柔らかく見えた。



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その夜、アリエッタは食堂で一人夕食を取っていた。ヴィンセントは相変わらず書斎に籠もっているのだろう。


「公爵様も、少しはお食事を取れば良いのに……」


ふと呟いたその時、扉が開く音がした。振り向くと、なんとヴィンセントが立っていた。


「公爵様……!」


「遅くなったが、食事を取る」


彼は淡々とした声でそう言い、アリエッタの向かい側に静かに座った。使用人がすぐに食事を用意し始め、二人きりの静かな食卓が始まった。


普段なら黙々と食事を進めるヴィンセントだが、今夜は少しだけ違った。アリエッタが小さなパンを割りながら言葉を選ぶ。


「あの……公爵様、今日はありがとうございました」


「何のことだ」


「庭で、お花のことを教えてくださって……」


アリエッタが微笑むと、ヴィンセントはわずかに目を細めた。そして、静かに言葉を紡ぐ。


「お前が無理に何かをする必要はない。だが……その花を枯らさないようにしろ」


その言葉は、彼なりの優しさだと分かった。アリエッタの胸に、じんわりと温かさが広がる。


「はい、必ず守ります」


食卓に再び静寂が戻るが、それはいつもの冷たいものではなく、どこか穏やかで心地よい空気だった。



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その晩、アリエッタは寝室に戻り、ベッドに横たわりながら天井を見つめた。


(少しずつ……少しずつだけれど、公爵様との距離が縮まっている気がする)


彼の冷たさの裏にある過去や優しさ――それを知るたびに、彼女は彼にもっと近づきたいと願うようになっていた。


「公爵様……きっと、あなたの孤独を癒せる日が来るわ」


そう静かに呟き、アリエッタはそっと目を閉じた。


氷のように冷たい距離の中に、わずかな温もりが灯る――ふたりの物語は、少しずつ動き始めていた。



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