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第2話

 冷や汗まじりの疑問ににっこりとした柔らかい笑みだけが返され、冷たいものが背中を流れ落ちていく。

 得体が知れない化け物を目の当たりにした──いや、得体の知れないものに取り囲まれている感覚に、彼女を化け猫と認識していながら、まったく警戒していなかったオレの迂闊さを後悔した。


「こら、答えぐらい教えちゃれ」

「あいたっ」


 そう言って、銀花さんの頭を叩いたのはトラさんだ。


「んもう、ちょっとくらい怖がらせてみたかてええやないの」

「きつか生活ばしとる相手にやるなて言いよぅだけや。そもそも、どうせタネは簡単なんやろう」


 銀花さんの抗議も、トラさんは聞き入れない。火鉢の横に置かれていた水差しから柄杓で水を飲むと、溜め息まじりに目を閉じた。その冷めた対応に、銀花さんのほっぺたがぷっくりと膨れる。

 タネが、あるのか。


「オレが陰陽師だって、なんで気づいたんですか?」

「そうやなぁ。なんか変やなぁと思ったんはウチが声かける前やけど、決定的やったんはこの町に来たときやろか」

「……鳥居をくぐってから、ですか」

「言うてはったやろ? 『もうこの時代、妖怪はいないもんだと思ってた』て」

「言った気がします。でもそれだけで──」

「『柳宿ぬりこぼし』言うたあとに、『ここじゃウミヘビの頭か』って言い直してはったやん? トラさんが物知りやよって、うみへび座の頭のこと、昔は柳宿ぬりこぼしぃ言うてたらしいと教えてもろたことがあってんけど……今日日そんな言い方する人、おらへんやろぉ。それにそんなこと言うん、学のあるお人だけやわ。あとはお星さんのことに詳しい学のある、昔の言い方する人って考えて──陰陽師さんってそんなん違ったかなぁて。もしかして神隠しにでも遭うて、この時代に来はった?」


 タネ明かしを進めるたびにニコニコとしていく銀花さんの表情に、こちらは呆気にとられてしまう。

 ──神隠しかどうかは知らない。そんなことは覚えもないが、確かにオレは陰陽寮に勤める人間で、この時代に産まれてもいなかった。


 夕刻、辻を曲がった瞬間に、ギラギラと騒がしいこの街に来ていただけだ。


 ぬるくなった葛湯が、それでもオレの手のひらを温める。

 ここまで指摘されればきちんと名乗るべきだと、湯呑みを持ったまま深々と頭を下げた。


賀茂光栄かものみつよしが二子、義行よしゆきといいまして……この街に来て三年になります。まさか妖怪に素性を当てられるとは、思ってもいませんでした」

「賀茂光栄? 安倍晴明と張り合うたて言わるぅ、あん大陰陽師か」

「トラさん、父をご存じで?」


 系譜を名乗るのはオレの習った礼儀ではあるが、まさか父の名に反応があるとは思わなかった。

 まさかそんなに長寿の大妖怪なのかと驚愕したが、トラさんはバツが悪そうに目を逸らす。


「俺は戦前生まれや。……やけん、直接知っとぉわけやなか」

「んふふ。トラさん、勉強家さんでなぁ。人間さんの読みモンが好きなんよ。せやからお父さんのことも、お話しで見たことあらはるんやと思うわ」

「……いたらんことは言わんでよか」


 照れくさそうなトラさんの仕草に、緊張していた肩から力が抜けるのを感じた。人間の読み物が好きな気持ちは、よくわかる。特にこの時代の読み物は。

 大きく共感できる部分があるというだけで、妙に安心できる。

 例えそれが、妖怪であってもだ。


 ようやく本当の自分のことを話してもいい相手に出会えたことで、ずっと喉の奥に引っかかっていたモヤついた物が、すべて言葉になって唇を割った。


「いやもう、突然まったく知らない場所に放り込まれて、最初は大混乱でしたよ。警察に連れて行かれて、陰陽寮に勤めてると言っただけで大笑いされて、作り話だと言われるし。オレからすれば、なにが作り話!? って感じですよ本当! でも警察経由でいろんなところを頼りまくって、この時代に合った装いを整えてから陰陽寮のことを調べたら、まぁ驚きましたね。まさか妖怪調伏の専門家みたいに扱われているとは思ってもなかったですから!」


 口が止まらない。ヘラヘラ笑いも止まらない。


「だけど誰にも、素の自分は見せられないじゃないですか。着ていた狩衣は売り飛ばして、まげを落として言葉だってこの時代に合わせて、そうじゃなきゃ仕事にすら就けないんですもん。それを三年ですよ、頑張ったと思いません!? そりゃそろそろ限界になるって言うか」


 ヘラヘラ笑いながら、喉の奥が引き攣ってくる。目のあたりが妙に熱くて、気がついたら、銀花さんが心配そうにオレの膝に手を乗せていた。

 にぁと、小さく鳴き声がする。

 その瞬間、耐えていた涙がボタボタと銀花さんの手に落ちた。


「あっ、すみませ……ッ」

「ええのよ、きにせんといて。……三年もよぉがんばらはったわ」


 こつんと、柔らかいおでこがオレの顎にぶつけられる。慰めてくれているのが嬉しかった。

 二度目の頭突きをしようとしたのか、ほんのわずかに離れた瞬間、トラさんの手がそれを遮った。


「それにしたっちゃ、平安時代ん京では化け猫はともかく、俺んような河童はあまり知られとらんやったはずや。一目見てよう河童やとわかったな」

「それは陰陽師モノのマンガや小説が……似ても似つかないのにめちゃくちゃ面白くて……」

「ああ、わかる。面白か物ば読むと、勝手に頭が内容ば覚えていく」


 きっとトラさんもオレと同じように、共通点だと思ってくれたんだろう。険しかった顔つきが、いきなり柔らかく緩んだ。

 それを銀花さんがニコニコと見守ってくれている。


 しばらくの間、オレはトラさんといろんな本の話をした。

 あれは読んだか、これはどうだ、それが好きならきっとこちらも好きだろう、この話ではこう書かれてたが実際にはどうなんだとか、とにかくいろんな話だ。

 手に提げていた弁当も、銀花さんが全部暖めてくれて──夕食の余り物だからと、ぶり大根ときゅうりの漬物も出してくれた。胸も腹もいっぱいだ。公園で泣き言を叫ぶような情けない真似はしたけど、結果としてこの出会いがあったんだから、無駄ではなかったんだろう。


「ああそうや。トラさん、加牟波理入道がんばりにゅうどうさんて今日お薬取りに来はるん?」

「ああ、日付が変わる頃に取りに来るて言いよった」

「ほしたら、もうちょいやねぇ」


 出入り口の上にかかっている振り子時計の針は、十一時半に差し掛かろうとしていた。話し込んでいて気づかなかったけど、ずいぶん長居してしまったらしい。これからお客さんが来るなら、オレが居座っているのは邪魔だろう。


「話を聞いてもらうばかりか、夕飯までお世話になってありがとうございました。もし可能なら、また今度お礼に──」

「あら嬉し。そしたらお礼、すぐにしてもろてもいい?」

「え、ええもちろん。と言っても、あまり持ち合わせもないんですけど」

「ややわぁ、お金なんていらんのよ。ただちょっとねぇ」


 着物の裾から覗いている長い尻尾の先が、楽しそうにふよんと揺れる。

 たぶん銀花さんはほかの猫より、口の端が高い位置にあるんだろう。そのせいでいつ見てもニコニコして見えるし、思わず顔面の筋肉が崩壊するほど見とれてしまう。つまりは可愛い。

 さすがは猫と言うべきか、音も立てずに二、三歩近づいてきた銀花さんがそっとオレの耳に口を寄せた。


「明日の朝、ちょっとお腹痛くなってもらえへん?」

「……それがお礼になるんですか?」

「うん、なるんよ。ちょっと考えとることがあってねぇ」

「ちなみに、毒を飲めとかそういうことでは……ないですよね?」

「なんや。うちが毒ば渡すような薬屋やて言いたかとか」

「あぁあ違いますトラさん! そういうことじゃなくて!!」


 機嫌を損ねてしまった様子のトラさんをフォローしつつ、オロオロと二人の顔を見比べる。くふくふと笑って見せた銀花さんは、ひょいと床に飛び降りたあと、いくつかの薬を取り出して紙袋に詰めた。


「疲れてはるみたいやから、ゆっくり寝られるお薬と、気持ちをゆっくりさせてくれるお薬。ただ両方、翌朝お通じが出にくぅなるの」

「腹痛になってもいいかって、そういう……? でもそれがなんでお礼に?」

「この二つの組み合わせ、今まで出したことないんよ。変な副作用は出んと思うけど、飲んでみてどんな感じか、教えてほしいん」


 なるほど、ちょっとした実験に付き合ってほしいってことか。そういうことなら納得だ。


「よっしゅきさんの負担にならへんかったらでええんやけど……」

「いやぁ、薬を飲むだけでしょ? 負担になんてなりませんよ」


 へらりと笑って、薬を受け取る。よしゆき、と発音しにくいんだろう。どう頑張っても「よっしゅき」と聞こえたそれが、可愛くて仕方なかった。

 ほっぺたに触りたい。モフモフさせてほしい。なんなら肉球も触りたい。


「今はショップカードぉ言うみたいやけど、このお店のお名刺渡しとくわ。これ持って鳥居の前で『通りゃんせ』歌たら、いつでもここに来れるよって」

「そんな大事なもの、いいんですか?」

「せやなかったら、薬の効果とか聞かれへんやないの」


 ころころと笑う銀花さんに見送られ、店を出る。

 体が温かくて、腹もいっぱい、気持ちも満たされていた。手土産にオレを癒してくれる薬まである。むしろあんなに可愛い猫さんと、人間の言葉でたくさん話すことができた。満足どころの話じゃない。

 鼻歌交じりに自宅に戻り、薬を飲んで幸せな気持ちのまま布団に潜る。翌朝腹が痛くなることくらい、いくらでも許せる気がした。



   ◆  ◇  ◆



「……と思っていたんだけどなぁ」


 安アパートの狭い便所は、うずくまっているだけで膝が当たる。そのせいでいつも扉を全開にして用を足しているわけだけど、今回に限ってはそれが足せていないせいで、扉を閉めることすらできない。

 ──詳しい描写は控えよう。あっさり言えばどうにも中途半端な具合に、オレは脂汗を掻きながら膝上で指を組んでいる状況だった。


「いや、腹が痛くなるとは聞いた……。聞いたし、出にくくなるとも聞いたけども……!! こんっな痛くて出ないなんて思わないだろ普通……!!」


 幸い、オレのバイトシフトはいつも夕方から夜にかけてだ。どんなに苦戦したとしても、その頃には復活しているはず……と思いたい。

 が、あくまで希望的観測というやつだ。


「今占ったら、オレの運勢どうなってるんだろう……」


 ため息を吐きながら不意に視線を上げる。

 ……心配そうな顔で覗いている、爺さんと目が合った。


 当然、この時代にオレの身内なんているわけがない。さらに言えば一人暮らしだ。


 誰だこのジジイ。


「……つらそうじゃなぁ」

「そう……っすね」


 誰だと問う前に同情されたせいで、思わず同意してしまう。辛いのは辛い。


「じゃよなぁ……」


 そう言って、爺さんは自分の腹のあたりに手をやって、申し訳なさそうに会釈してから掻き消えた。

 残されたのは、腹痛に唸るオレだけだ。


 便所を覗くジジイ。なんか引っかかるソレに、はたと気づく。


「あ。もしかしてさっきの爺さん、加牟波理入道か!?」


 加牟波理入道は確か、便所を覗く坊さんの妖怪だ。意味が分からない妖怪だけど、ほとんどの妖怪がそんなもんだから仕方ない。

 ついでに言うと、口から吐きだしたホトトギスで尻を撫でて、ひどい便秘にさせるとかだったはずだ。

 なおさら意味が分からないけど──今オレがひどい状態だから見逃してもらえたんだろうか。

 というよりも。


「やってくれたな、銀花さん……!」


 いっこうにスッキリしてくれない腹を抱えながら、オレはふにゃふにゃ毛玉のようなあの笑顔を、両手で挟んでくちゃくちゃにしてから整えてやろうと心に決めた。


 ──オレがきゅうりマタタビ堂を再訪したのは、バイトを終えてからだ。


「銀花さん。加牟波理入道をオレの家にけしかけましたね!?」


 入店するなりそう叫んだオレの言葉に、機嫌良く出迎えてくれようとしていたらしい銀花さんがピタッと止まった。

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