ゆるく細まっていた目がまん丸になり、誤魔化すように斜め上に視線を逃がしていく。
……あー、こういうことするよなぁ、猫。
普段から絶対人間の話を理解できてるはずなのに、いざ自分に都合の悪いことに話が及ぶと、あからさまに知らん顔をする。なんなら無知を装った可愛さアピールで話を煙に巻くところ、わりとよく見た。
が、オレは流されない!
丸いお手々がもじもじと虚空をふみふみしていても流されない!! イカ耳にも屈しない!!
黒目がちな目で機嫌を伺うようにチラッとこっちを見てきても、決して、流されたりは……!!
「いえ、怒ってるわけじゃないんです。オレはそこまで心の狭い人間じゃないですから。大丈夫です」
「ほんまに?」
「手土産に持参したカツオのたたきに誓って本当です」
……まぁ無理だよ。こんな可愛い銀花さんが上目遣いに見てくるのに、屈さないわけがない。オレは弱い人間だ。
今だってカツオのたたきをニコニコと奥に持っていく後ろ姿が可愛くて、思わずため息が出ている。
「ちゃんと銀花ん仕業やと分かったか」
「そりゃ分かりますよ」
番台に座っていたトラさんが、小上がりに座布団を出してくれる。遠慮なくそれに座り、なんとなく違和感の残る腹に手を当てた。
「加牟波理入道の話をしていたのは覚えてましたからね」
「そうやなか。見えた相手が加牟波理入道やと、よう分かったなってぇ話や」
「最初は分かりませんでしたけどね。一人暮らしの男の便所を覗く爺さんなんて、加牟波理入道でもなけりゃ気持ち悪いでしょ」
「それもそうやな」
ククと喉を揺らして、トラさんが笑う。
やがて店頭に戻ってきた銀花さんが、小上りの畳の上で、オレに深々と頭を下げた。
「お土産までもろぉて、ありがとうございました。お渡しした薬の具合、どうやったやろか」
「アレに関しちゃちょっとひどい目に遭いましたけど……。オレを便秘にしたのも、なにか考えがあってのことだったんじゃないんですか?」
「あら、そこまで分かってしまわはったん」
すごいなぁとふにゃっと褒められて、思わず照れてしまう。きっと銀花さんの雰囲気がそうさせるんだろう。
銀花さんはペコンと耳を寝かせて、トラさんの隣に座り直した。
「トラさんはなぁ、お客さんの症状がちゃんとよぉならんと、治るまで一生懸命、寝る間も惜しんでお薬作らはんの。それがいっつも心配やってなぁ。……今回の加牟波理入道さんのことも、なかなかうまくいかんやろぉて言ってはったし、こらあかん思たん。せやけど、うちにはなんとのぉ、加牟波理入道さんの不調の原因、分かるような気ぃがしたんや」
「不調の原因って……銀花さん、加牟波理入道の症状、詳しく聞いてたんですか?」
オレの質問に、銀花さんはフルフルと頭を振る。
「詳しぃなんて聞いてへんよ。せやけど昨日、トラさんが言うてはったやろぉ。加牟波理入道さん、喉からお腹の底にかけてなんか溜まっとる気がして気持ち悪いぃ言うてはったて。そのせいで、お口から鳥さん吐けんて」
言ってただろうか。……言ってたかもしれない。
「ウチそれな、お便秘なんかもしれんて思たん」
「え、便秘ですか!?」
「そうえ」
「でも加牟波理入道って……足がない妖怪なんじゃ」
「あんよはのぉても、お尻まではあらはるやろ。お腰のところに帯巻いてはったと思うんにゃけど」
巻いてただろうか。……そういえばオレ、顔しか見てないな。
もし本当に尻までは存在するんなら、妖怪が便秘になることも有り得るのか? そこはよく分からないが、妖怪の銀花さんがなるって言うんなら、なるんだろう。
「でもなんでオレまで便秘にしたんです……?」
「アハハ、ごめんえ。加牟波理入道さん、口から出した鳥でお尻なでて、便秘にしはる妖怪やろぉ。せやさかい、おんなじ症状の人見はったら……きっとなんか、分かりやすい反応してくれはるかいなぁと思て。で、どうやったやろ。なんか気づかはった?」
「分かりやすい反応……ですか」
そう言われても、ちょっとすぐには思いつかない。なんせあのときはオレも、自分の腹具合のことで精一杯だ。勝手に便所を覗いてくるジジイの反応に気を配っている余裕はない。
だけど言われてみれば、少し話した気がする。
「そういえば加牟波理入道、えらく心配そうな顔でオレを覗いてました。それから「辛そうだなぁ」とか、「そうだよなぁ」とか言って……肩身が狭そうな様子で、会釈して消えました」
「自分のお腹、触ってはった?」
「ほとんど顔しか見えてなかったと思うんですけど──腕が動くのは見えました。確かに、腹を触ってた気もします」
「そしたら、やっぱりそうかもしれんね」
ンフフと笑って、銀花さんの丸い手がポンと打ち合わされた。
「加牟波理入道さんはお便秘がしんどぉて、ほかの人にまでこんな目ぇ遭わせたないなぁて思わはったんやわ。せやから、お便秘にする鳥さん出せはらへん。──なぁトラさん、加牟波理入道さん、次いつ来はりそう?」
「試しに飲んでみぃて言うて、消化促進剤ば三日分出した。効果がなかったら、四日後には来るやろ」
「四日もしんどいの、かわいそうやなぁ……。トラさん、今からお薬作ってくれる? お届けしてくるわ」
「分かった」
銀花さんの提案に疑問を持つこともなく、トラさんは薬棚からいくつかの材料を取り出して、奥へと入っていく。それをなんとなく不思議な気分で見送って、銀花さんを振り返った。
「トラさん、なんか慣れてますね」
「そうやなぁ。うちん旦那さん、それが目的でウチをお嫁にしはったところもあるよって」
「え、なんですかそれ、どういうことですか」
「んー、よっしゅきさんがうちの常連さんになってくれはったら教えたげる」
いいように手のひらで転がされている気がするが、悪い気はしない。むしろこれは、人間のオレでもこの店の常連として迎え入れてやろうという許しなのかもと思えた。
銀花さんのふくよかまん丸お顔に癒されている身としては、非常にありがたい。
「あ、そういえば銀花さん。昨日もらった薬、あれヤバいですよ。確かによく寝られましたし、少し頭もすっきりしたんですけど、ひどかったです」
「あらぁ、そんなに?」
「女性のお耳に入れるようなことでもないんですけど……」
ぼそぼそと経過状況を報告すると、あまり大きくないお耳がぴるぴると動いて鼻に当たる。めっちゃ癒し。
しかもオレが長時間格闘したことを知ると、銀花さんは大きな目をしょんぼりと垂れさせて見上げてきた。
可愛すぎて目眩がしそう。
「堪忍え、そんなしんどいとは思わんかったん。今は? お腹の調子、今も気持ち悪い?」
「今は大丈夫です。平安貴族の端くれと言えど、現代と比べれば劣悪な環境で育った人間ですから、どうってことないですよ。ただまぁ」
小さいお顔を両手でモフッと掴むと、しょんぼりしていた目がぱっちりと見開いた。
「もう二度としたくないくらいしんどかったので、お顔をくちゃくちゃにさせてもらいます」
「んにゅっ!? むぅ、にゅわっ!」
両手を離さないまま、こねるようにお顔をモフる。ほっぺたのお肉や毛に押されて目が吊り目になったり口元が歪むのが可愛くて仕方ない。眉間にしわが寄ってるから嫌なんだろうけど、詳細を伏せたままオレをひどい目に遭わせたという負い目があるのか、これといった抵抗もなかった。
個人的には、猫パンチくらいはむしろご褒美なんだがなーなんて思いながらモフっていると、手の甲にぴしゃりと水がかかる。
「うにゃあっ!」
「わ、冷たっ!」
「
不愉快そうに紙袋を投げつけ、オレの手が離れた隙を突いて銀花さんを引っぱり寄せる。
……昨日もなんか、こんなことあったな。たぶんトラさんのほうが銀花さんに惚れてるに違いない。
自分にも水がかかったと文句を言う銀花さんの顔を、トラさんがサッと手布で整えている。ちょっとくらい文句言うなと言いながら、その表情は嬉しそうだ。
ワガママを言われるのも嬉しいくらいの溺愛らしい。まぁ銀花さんの可愛さを見ていれば納得はできるが、三年前まで平安貴族として生きてきた身としては、こういうのはもうちょっと人目をはばかってほしいと思う。
じゅうぶん水気を拭き取れたのか、銀花さんはニコニコと街へ繰り出していった。
案内してやるから一緒に行かないかとも誘われたが、妖怪だらけの街を人間が歩くのもなんだか怖かったので、次の機会にとお断りしている。
本当は銀花さんの外出と同時にオレも店を出ようかと思ってたんだけど、夕飯を一緒に、と誘われたので、お邪魔し続けているわけだ。
すぐに戻ると言われたけど、トラさんと二人きりの状況は、なんだか緊張する。
「ここいらん連中はもう、人間にひどか悪さはせんぞ。気兼ねせず見て回りゃあよかもんば」
そんなオレの内心を気遣ってくれたんだろうか。トラさんのほうから話題を振ってくれた。
「いやぁ、こう見えてもいわゆる平安貴族なもので。見知らぬ土地を女人と歩くのはちょっと」
「さっき銀ん顔ばもみくちゃにしとった男ん言うこととも思えんな」
「……怒ってます?」
「アレが許しとぉことば、俺が腹かいたっちゃしょんなかろう」
……あ、ちょっと分からない言葉だ。だけど銀花さんが許してるなら仕方ない、みたいな意味だろうか。
というかそれは、トラさん的には怒りたいってことなんじゃないか?
銀花さんをモフモフしたい気持ちはいつでもあるけど、実行するのは控えよう。なんせ既婚者だ。
「そういえばトラさん、九州のご出身ですか? 銀花さんは京言葉みたいですけど」
「分かるんか」
「そりゃあ。平安の世にだって、九国は帝の支配下ですから」
「それもそうか。──博多ん妖怪と、京ん妖怪が夫婦じゃおかしゅう見えるか?」
「全然おかしいとは思いませんけど、出会いは気になりますねぇ」
「下世話なやっちゃ」
「平和な平安貴族は、恋愛話が大好物ですから」
「そん内に話すこともあるかもしれん、それまで待ってろ。……ああ、そうや。これをお前に渡そうて思うとったんや」
取り出されたのは、昨日もらったのと同じ紙袋だ。
「腹薬が入っとる。もう腹具合は治っとぉやろうが、アレに付き合うてくれた礼や、持って行け」
「あ、ありがとうございます」
なんだかんだ、しっかり時間を潰せてしまった。ちょっと強面に見えるから緊張はするけど、こっちを気にかけてくれるいい
その内に銀花さんも帰ってきて、おいしい夕飯もいただいてしまった。化け猫だけに、特に塩分とかも気にしてないらしい。人間好みの味つけで、三回おかわりしてしまったのだけ、ちょっと申し訳ない。
そんなこともあって、しばらくきゅうりマタタビ堂から足を遠ざけようとした、数日後の夜だ。
ひそひそ、ひそひそと、囁くような声がした。
とっくに布団に入り、ヨダレにまみれて眠っている深夜のことだ。オレはてっきり、隣の部屋の人がテレビでもつけてるんだろうと思っていた。
どんな仕事をしているか知らないが迷惑な、と、頭まで布団に入ろうとしたとき、その布団を引き止める手があった。
「もし。陰陽師様、陰陽師様、お助けください。陰陽師様」
この声で、だんだん意識が浮上していく。
陰陽師って呼ばれるのはなんだか変な感じだが、まぁ間違ってはいない。ただし、オレの素性を知っているのは今のところ銀花さんたちだけだ。つまり声の主は妖怪なんだろう。
とはいえ、訪問マナーは守ってほしい。
「もうなんですかこんな夜中に……」
文句を言いつつ、重いまぶたを開く。頭上に見えるのは、紐を引っ張るタイプの照明だけのはずだった。
「陰陽師様」
そこに、毛むくじゃらのなにかがぶら下がっている。
銀花さんじゃない。決してそんな可愛い生き物じゃないソレが、巨大な目を爛々と輝かせ、オレの布団に手を伸ばして握りしめていた。