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第12話

 この時代の人間は、死ぬという言葉を、あまりにも簡単に口にする。

 死が近い、とは違うんだろう。それを言ってしまえば、平安の時代のほうがよっぽど死は近かった。

 なんせ細い辻に入れば、人間や犬猫、鼠や蛇、なんらかの死体がある時代だ。都の道々だってこの時代のように清掃が行き届いているわけでもないし、ちょっとした疫病ですぐに衰弱死する。

 だからこそそんなけがれた言葉を使わないようにと、安易に死を招いたりしないようにと、誰もが口にしなかった。


 なのに死が遠くなった時代では、けがれを招くようにその言葉が氾濫している。

 あの頃には思いもしなかったすごい技術も、貧困者への支援も、誰もが好きなように道を選べる選択肢も用意されているのに、逃げ道が見えていない。


「死ぬ前に、もっと簡単にできることがあるだろ」


 ぼそりと呟いた声は、彼には届いていなかった。

 だけど、銀花さんの肉球に力が入る。


「──ウチなぁ、どうしても人間さんのその、希死念慮ってもんだけはよぉ分からんの。せやからウチが今からお渡ししようと思てるお薬、ホンマにこれでえぇんかちょっと悩んどったんやけどな」


 霧の中、ボンヤリと浮かんだ銀花さんの目が、ふんわり緩んだ。


「よっしゅきさんもそう思わはるんやったら、きっと正解やな」


 銀花さんの手が離れ、カサッという紙が擦れるような音がした。

 たぶん、トラさんの薬が入った紙袋かな。


「今からそっちににゃんこが行くよって、手に持っとるモン受け取ってくれはる?」


 そのまま、銀花さんは夢主の元に歩いていったらしい。

 ほんの少しだけ夢主が驚いた声がしたけど、すぐに、これは夢の中の出来事だからと思い直したようだ。夢も現実も、この蜃気楼の見える空間のことも。丸ごとすべてを夢だと思っているから、なにが起こっても受け入れるんだろう。

 理不尽に罵倒してくる人間の中に放り込まれ、我慢し続けて、こうなってしまった人だ。

 夢見心地で生きていると言えばなんとも楽観的に聞こえるけど、夢見心地でいることが、きっとこの人にとって、唯一の自衛手段と思ってるんだろう。


 見えないんだ。選択肢が。

 銀花さんはそれを、見えるようにしようとしている。


「ただいまぁ」


 薬を運び終わり、銀花さんのフワフワの手が、再度オレの指を握ってくれた。

 夢主の前では一言も話さずに戻ってきたようだ。あまり情報量が多いと、不要な混乱を招くと思ったのかもしれない。


 やがて向こう側から、紙袋を開く音がした。


「これは……」

「お薬え」


 戸惑いの声に、銀花さんが返す。


「薬? ……これが?」

「そう、おめめが覚めるお薬。お水なしで飲めるように、カリカリっと食べれるようにしてもろたん。苦ぁないから大丈夫え」

「……これを食べれば、本当に目が覚める? 本当に?」

「ほんまえ」

「もう、あんな目に遭わない?」

「ちゃあんと目ぇ覚めたら、遭わんと思う」

「食事も、味がするようになるかな」

「おいしいもん、いっぱい食べはったらええよ」

「見たかった映画とか、勝手ない本とか、そういうのも」

「せやね、楽しめはると──」


 カァと、苛立った声が銀花さんの向こう側から聞こえた。


「うだうだ言いよらんでさっさと食え、こんバカチンが! 悪か事なんて起こらんて言いよろう!!」

「ヒッ……!? え、誰……!?」

「これ、トラさん!!」


 ……いやぁ、これはトラさん悪くないよ。オレもだんだんイラついてきてたもん。

 でもまぁ、怒鳴られることを怖がってる人に、これはよくなかったんだろうなぁ。ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す声だけが聞こえて、明らかによくない方向に思考が進んでいることが、声色だけでも伝わってきた。


 これじゃ作戦が、と思った瞬間、銀花さんが走って行く。


「怖かったなぁ、ごめんえ!」


 ──まるで小さい子どもを心配する声だった。


 駆け寄った銀花さんの姿に、夢主もようやく、声の正体に気づいたらしい。


「あ、ぅ……君、さっきの……」

「そうえ、さっきからお話しさせてもろてたん、ウチやったん。いくら夢ん中でも、にゃんこがしゃべっとったら、お兄さんビックリしてまわはるやろと思てん。……堪忍かんにんえ」

「さっきの、男の声は?」

「あれはねぇ、神さんや」

「……神様?」

「神さん、お兄さんを心配してはるんよ。せやけどお口が上手やないよって、あんな言い方しかできはらへんのん。そのお薬作ってくれはったんも、あのこわそな声した神さんなんえ」


 ずいぶん大胆な嘘をつくなぁと思ったけど、さっきトラさんも水神の端くれだと聞いたばかりだ。それを考えれば、嘘ではないのか。


 霧の向こうからは、まだ不安そうな空気が漂っている。

 ゆっくり深呼吸してとうながす銀花さんの声が聞こえた。


「……ばあちゃんから聞いたことがある。神様には二種類いて──優しい神様が導いてくれる間に天国に進まないと、怒った顔の神様が、未練を断ち切ってくるって」


 それはオレも知ってる。神じゃなく──仏の教えだ。慈悲相じひそうと、憤怒相ふんぬそうを持つ仏の話。

 もっとも異国の祭をこれでもかと取り入れたこの時代、区別をつけている人間は少ないんだろう。なによりすがるものを見失った人間にしてみれば、差し出された手が神でも仏でも、きっと同じだ。


 いやでも、この流れだと必然的に──


「ということは──君も、女神様なんだな」

「……んにゃ?」


 そうだよな。トラさんが憤怒相だってんなら、優しく導こうとする銀花さんは慈悲相になるよな。

 女の子なんだから、女神様ってことになるよなぁ。


 わかる。


「え、ウチはねぇ」

「こんな可愛い女神様がオレを心配してくれるなら、飲みます。食います、この薬。絶対食います、夢から覚めます。み、見ててください。目が覚めて、きちんと自分の状況を確認できたら、きっとあなたのような、可愛い猫を飼って大事にします」

「あにゃあ……。そしたらお兄さんがちゃあんと目ぇ覚めはったなぁと思た頃、飼われてもええよーって子ぉが、お兄さんに会いに行くようにしたげよねぇ」


 まったく話を聞きそうにない夢主の言葉を、訂正するのはやめたらしい。

 ただ近い将来訪問するだろう猫のことを約束し、やがて霧が薄れていく。彼は霧が晴れるまで、ずっと銀花さんに、薬を食べると約束し続けていた。


 霧が晴れると、そこはいつもの、きゅうりマタタビ堂の店内だ。桶に入ったしんは一仕事終えた満足感からか、ぐっと水管と足を伸ばしていた。


「……あの人、薬、ちゃんと食べますかねぇ」

「食うやろう。あれだけ銀に誓うとったんや、これで食わんやったら俺が手ずから口に放り込んじゃる」

「食べはったら、きっと行動できはるわ。なんせトラさんのお薬なんやもの」


 くふくふと笑う銀花さんは、ご機嫌な様子だった。

 きっと、女神様と呼ばれたことも満更じゃないんだろうなぁ。しれっと惚気られたことも、今は聞き流そう。


「あの薬、どんな効果があるんですか?」

「気が強ぅなる薬や。あまり多量ば飲ませると暴力性が増しようばってん、あれだけ臆病になっとぉ人間やったら問題なか。退職ば決断でくる程度になるくらいや」

「……そうですか」


 そうだ。夢の中だと思い込まなくたって、死ななくたって、選択肢はある。


 それほど辛い仕事なら、やめてしまえばいい。


 簡単なことだ。簡単なことなのに、追い詰められたあの人にはその選択肢が見えていなかった。

 たぶん、そんなことを言い出せばまた上司から怒鳴られると思っていたんだろう。……獏からもらった飴で、オレも見た。根性なし、無能と罵る声を、オレも聞いた。

 きっとあの人は、仕事を辞めたいと思うことにすら罪悪感を持っていたんだと思う。


 そんなあの人の家に行ったとき──オレは一枚のチラシを入れるよう、銀花さんに言われていた。


 退職代行サービスのチラシだ。


 帰宅直後のあの人なら、無気力にあのチラシをゴミ箱に放り込んだかもしれない。だけどトラさんの薬を食べたあとなら……きっと、ゴミ箱から拾い上げてでも、退職依頼をできるだろう。


 そうなれば、終わらない悪夢も終わる。


「……よっしゅきさん、お疲れさんどした。結果は明日やよって、今日はお家で、ゆっくりお休みやす」

「そうですね、そうします。──あ、そうだ。渡し忘れてた」


 小上りに置いたままにしていた刺身と漬物を手渡す。


「値引き品で申し訳ないんですが、これ、よければ夜食にしてください。銀花さんとトラさんも、お疲れ様でした」


 一つだけ胸に秘めたまま、店を後にする。


 もしかしたら、銀花さんはなにか勘づいていたかもしれない。だけどなにも言わずに見送ってくれた。

 一応これでも、本職の陰陽師だ。

 今回の案件なら、名目上だけじゃなくきちんと陰陽師として、できることが思いついていた。



   ◆   ◇   ◆



 翌日の昼、オレはあの人の家に行った。

 理由とかそういうのは、全部口からデマカセを言うつもりだ。だけどこれまでのことを夢だと思っているあの人なら、もしかしたらそんな現実も受け入れてくれるんじゃないかと思って──不審者として通報されるのを覚悟で、インターホンを押す。


 古びたボタンの感触と共に、りんごん、鳴った。


「はいー?」

「すみません、あの。……夢で、ここに行けって言われて」


 バタバタと、奥から音がする。

 慌てたように扉を開けてくれたのは、少しスッキリした顔の彼だった。

 正面から顔を見るのは初めてだ。


「突然押しかけて申し訳ないです。賀茂義行かものよしゆきといいます。猫の夢、ご存じですか?」


 その言葉に、彼が息を飲むのが分かった。

 どうぞと招かれ、部屋に上がる。

 出し忘れたゴミ袋の山は詰まれているが、殺風景で、物が少ない。なんだか物寂しさを覚える部屋だ。だけど窓が開け放たれているからか、陰気な感じはまったく受けなかった。


「義行さんとおっしゃいましたか。……実は私も、今朝まで夢を見ていたんです。悪い悪い夢でね。もうこの夢から逃げるには、死ぬしかないとも思っていました」

「今朝まで、ということは──」

「夜、不意に目が覚めましてね。行動したら、あっという間に」


 蜃の霧が晴れたすぐ後、退職代行サービスを利用したのか。

 照れくさそうに笑う彼の顔からは、陰鬱とした雰囲気はないし、罪悪感も見えない。トラさんの薬がちゃんと効いているんだろう。


「目が覚める直前、女神様の夢を見ましてね。着物を着て人の言葉を話す、可愛い猫の女神様なんです。……義行さんも、猫の夢をご覧になったと?」

「はい。私の夢に出てきた猫も、そんな猫でした。その子が言うんです。あなたの夢を買っておいでと」

「夢を、買う──?」


 夢買いは、平安の世ではごく一般的な行為だ。

 あの頃、夢は現実と異界を繋ぐものと考えられていた。気にかかる夢を見ると夢解ゆめときに頼んで吉凶を占い、いい夢を見た人から、その夢を買うことも多かったわけだ。


 当然、陰陽師だって夢占いはできる。


「上司から電話で怒られる夢を見たことは?」

「っ、あります!」

「どうもそれ、吉夢らしいんですよ。五百円くらいで売っていただけますか?」

「え、夢で五百円!? そんな、お金なんて!」

「買わなきゃ自分のものにならないらしいんです。だからお願いします」

「じゃ、じゃあ十円! 十円で充分ですよ!!」


 彼は十円をもの凄く恐縮しながら受け取った。今の時代、夢を売るなんて考えもしなかったんだろう。


「あと、あなたに伝言があって──」

「伝言ですか」

「今後悪い夢を見たら、『悪夢は草木、吉夢は宝物に』と唱えろと。これで、悪い夢はいい夢に変わるそうですよ」


 これは、夢違ゆめたがえというしゅ。これもきっと、今の時代にはほとんど残っていないだろう。へぇ、と目を丸めた彼を前にして、オレは休日に押しかけた謝罪を口にし、席を立った。

 玄関まで見送りに出てくれた彼に、靴を履きつつ聞いてみる。


「夢から覚めて、なにか心境の変化はありました?」

「そうですね。しばらくゆっくりしようかと思うんですが……ちょっと猫を飼う目標ができてしまったので、無理のない範囲で現実を生きようと思えてます」


 いい笑顔だった。これなら、彼のところを猫が訪問する日も遠くなさそうだ。

 それではと、今度こそ別れを告げる。


 これがオレ、陰陽師の賀茂義行。令和に来て初めての仕事だった。

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