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第8話 静けさの中の呼吸

朝の教室は、まだ誰の声も満ちていない。 カーテンの隙間から差す淡い光が、机の端を少しだけ照らしていた。 窓の外では雲が流れ、風が木々を揺らしていた。 そんな静けさの中で、私は一人、ノートを開いたまま動けずにいた。


(……なんか、空気が昨日より重い気がする)


いや、気のせいじゃない。 昨日の放課後、白雪紗月と目が合ってから、ずっと頭のどこかで彼女の存在が居座っている。 まるで、背後から常に視線を感じているような、落ち着かない感覚。


それでも、私はあくまで平然を装う。


(大丈夫。別に、変なことしてない)


カリカリとノートにペンを走らせるふりをしながら、思考だけが落ち着かないまま教室の空気に溶けていた。


そんなとき、教室のドアが開く音がした。 無意識に顔を上げると、結城と紗月さんが並んで入ってきた。


一瞬、視線がぶつかる。


まっすぐな目。 澄んでいるけど、何かを測るような鋭さがある。


(……あ、やばい。見たってバレた?)


私は慌てて視線を下に落とした。 でも手元のノートには何も書かれていない。焦りのあまり、ペンを持つ手に力が入りすぎて芯が折れた。私は、何事もなかったかように平静を装った。


(バレたって何が?別に何もしてないし……っていうか、見られたの私の方なんだけど)


結城は紗月さんの席で小声で何かを話してる。内容はわからない。


「おはよ、紫音ちゃん」

「あ、おはよう」


結城は すぐ隣の席に座って、私の方をじっと見てくる。いつのまにか紗月さんとの話しは終わってたみたいだった。


「今日も早いね」

「……うん、まあ。習慣で」

「へえ。元からそうなの?」

「いや、違う。向こうの……じゃなくて、えっと、寮で早く起こされて……」

「ん? なになに、“向こう”? 今ちょっと気になる単語出たよ」

「比喩です。気にしないで」

「怪しい〜〜」


結城はニヤニヤしながらノートを開き始めた。私はそっと呼吸を整える。 けれど、平穏は長く続かなかった。


机の影からふわりと影が伸びてくる。 その気配に私は自然と硬直する。


「瀬名さん」


はい来ました。事務連絡系の音声。 聞こえ方が“お知らせ”っぽくて、無視できない。


「……はい」


顔を上げると、そこには予想通りの白雪紗月。 目線はまっすぐ、しかし声はいつも通り淡々としている。


「一昨日、職員室前に置いておいた過去問……見たかしら」

「見ました。……というか、見て、戦って、砕け散りました」

「……砕けたのは、問題じゃなくてあなたの理解力では?」

「えぐい。今の言い方、ダメージ直撃です」

「じゃあ、優しめに言い直すと……“まだ和解できてないのね”」

「そもそも最初から敵対してくるレベルの問題だった気が……」

「去年の平均点は七十二点よ」

「えっ、高くない? じゃあ私の戦果は……ほぼゼロ?」

「それ、もはや戦争じゃなくて虐殺」

「先生たち、情け容赦なさすぎ……」


隣で聞いていた結城さんが吹き出した。


「紫音ちゃん、ほんと反応が面白すぎ」

「……これでも本気で落ち込んでるんだけど」

「表情に出ないから余計面白いんだよ。口調が淡々としてるのに、内容がわりと深刻っていうか」

「……表情筋が機能してないだけです」


紗月さんはそんなやり取りに口を挟まず、ただ一言だけ残した。


「何か分からないところがあったら、相談しなさい。放課後でもいいわ」


え。


今、目の前で聞こえた“その一言”に、思考がわずかに止まった。


(……あれ? 今のって、最初のメモと同じ言葉のはずなのに……)


けれど全然違って聞こえた。 あのときは“風紀委員の配慮”として、紙に書かれたただの一文。 それを、私は「まだ頼る気はない」と無視した。


でも、目の前で言われると。 声に出されると。 何かがほんの少し、胸の奥で揺れる。


これは命令でも、義務でもない。 ただ、彼女自身の口から出た“許可”だった。


「......いいんですか? あの風紀委員長の時間をいただいていいんですか?」

「風紀委員長も勉強担当のひとりです。義務の範囲よ」

「それはそれでなんか距離を感じる……」

「じゃあ、あなたに合わせて“お勉強サポーター白雪”とでも名乗ればいい?」

「それはそれでキャラが濃すぎて近寄りづらいです」

「……あなた、言葉の引き出しが妙な方向に充実してるのね」

「前職の名残です」

「前職……」

「比喩です」


目をぱちぱちさせながら、紗月さんは少しだけ口元を緩めた。

ほんの少し。 だけど、その柔らかさは目に焼き付いた。


(……あれ。今の、ちょっと……いいかも)


心のどこかで、そんなことを思ってしまった。

教室の空気がゆるくなる。 緊張が少しずつほどけていく。


「……で、ちなみに一問目から分からなかったんですけど、どこから教わればいいと思います?」

「まず“算数の復習”からじゃないかしら」

「手厳しい! でも反論できない自分が悔しい!」


朝から、すでに情報量が多すぎる。 でも悪くない。


これは、“戦場”よりもややこしくて、でも少しだけ楽しい場所かもしれない。 そんな気が、少しだけした。


.......少しだけね?




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