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第7話 朝っぱらから、誰があんな気まずい目に遭えって言った(紗月視点)

目が覚めたとき、まだ部屋の中は薄暗かった。 目覚ましのアラームが鳴るよりも先に、自然とまぶたが持ち上がったのは珍しい。枕元の時計を確認すると、まだ6時台だった。


(……早起きなんて、別に得意じゃないのに)


眠ったはずなのに、まるで休んだ感じがしなかった。妙に体が重たく、頭の奥がじんわりと熱を持っているような、けれど風邪というわけでもない、曖昧な不調。昨日の記憶が、まだ私の身体のどこかに絡みついて離れない。


私はゆっくりと体を起こし、カーテンを開けた。曇り空。ぼやけた空の色が、どこか気分と似ている。


制服を身につけながら、鏡越しに自分と目が合う。 目の奥に、ほんの少しのざわつきが残っていた。確かに眠ったのに、夢を見ていた気がするのに、その内容も思い出せない。


(……まだ、抜けてないのね)


昨日の放課後。目が合ったあの一瞬。 紫音さんは、私を見たあと、何事もなかったように目を逸らした。 ただそれだけ。それなのに、なぜかその感覚が、脳裏にしつこくこびりついている。


理由は、分からない。 でも、気になってしまったのは事実。


それがなぜなのか、私は自分に問いかけながら歯を磨いた。朝の支度がいつもより遅く感じた。


登校中、道の端を歩きながら、私は何度も足元を見た。 結城さんと顔を合わせれば、いつものように軽口を飛ばされる。けれど、そんな私を無視するように結城さんは話しかけてきた。


「うわ、今日の紗月ちゃん、テンション低〜」

「普段から高くはないわよ」

「でも今日は、なんか……“考えごとしてるときの顔”って感じする」

「あなた、私の顔をそんな分類してるの?」

「うん、表情データベースつくってる」

「奇怪な趣味ね」


言葉を交わしながらも、頭の片隅ではずっと昨日のことを考えていた。 あの視線。言葉を交わさずとも、たしかに感じた距離感。


教室の前に着く頃には、足取りが微妙に鈍っていた。 中をのぞくと、彼女はもう席についていた。


紫音さん。


静かにノートを広げ、視線を下ろしている。その姿は、昨日と何一つ変わらないはずなのに、私にはまるで違って見えた。


机の上に置かれた筆箱は真新しく、角ばった形がまるで文具店の棚からそのまま来たようだった。 ノートの表紙の字は几帳面すぎて、まるで何度も練習したような形。けれど、それが自然体には見えなかった。


(持ち物にも、生活感がない……やっぱり、どこか“普通”じゃない)


私は鞄を握る手に少しだけ力を入れた。


「おーい、紗月ちゃん?」

「え、なに?」

「フリーズしてる。入り口で石化するタイプの人?」

「違うわ。……ちょっと、考えごとしてただけ」

「やっぱ考えごとしてるじゃん」


結城さんの声に背中を押されるようにして、私は教室に足を踏み入れる。


その瞬間、また目が合った。


まっすぐ、静かに、だけど一瞬だけ——ほんのわずかに、まばたきのタイミングが遅れたように見えた。 それが迷いなのか、偶然なのか、判断がつかない。だけど私はなぜか、その“間”を見逃せなかった。


……けれど、やはりすぐに目を逸らされる。 まるで、何事もなかったかのように。


私は無言で席に向かい、鞄から筆箱を取り出そうとした。が、手がすべって床に落としてしまう。


コトン、という音。


一瞬、教室の空気が止まった気がした。周囲の雑談、椅子を引く音、黒板にチョークを走らせる音が、やけに耳に入ってくる。


紫音さんはほんのわずかに視線を向けたが、何も言わず、すぐにノートに目を戻した。 私は何も言えず、落とした筆箱を拾う手の指先が、わずかに冷えていた。


「昨日さ、なんか話したの? 紫音ちゃんと」

「話してないわよ」

「ふ〜ん……話してないのに、その反応?」

「うるさいわね」


「っていうか〜」 結城がにやっと笑う。


 「まだそんなに話したことないのに、そこまで気になるって逆にすごいよ」

「なっ……ち、違うわよ」

「だって、話したのって紫音ちゃんが転校してきた初日だけでしょ?それに何か事務的な用事で話してたし」

「……べ、別に、あの人のことを……」 


言いかけて、言葉が喉の奥で止まる。 鞄のファスナーを無意識にいじっていた手が止まり、私はため息をひとつ、小さく吐いた。


「まぁでも、そこから仲良くなってくのも悪くないんじゃない?」


結城の言葉は、軽いようでいて、どこか確信めいていた。 私は反応できず、ただノートを開くふりをした。


彼女は、今日も変わらない。 きっと、あの視線にも意味はない。でも、なぜか私は、それを簡単に信じられなかった。


“意味なんてなかった”と片づけてしまうには、心が落ち着かなかった。


(この気持ちは……何なのかしら)


言葉にするには遠すぎて、でも確かにそこにあるもの。 私は、まだその正体を知らない。

けれど、それでも確かに、目を逸らせなかった。




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