放課後の学校。廊下に西日が差し込み、床には長い影が伸びていた。昇降口へ向かう生徒たちの声や笑い声が、遠くで響いている。
私は教室の前で、なぜか足を止めていた。
本当は、ただの用事のはずだった。風紀委員の資料を机に置き忘れて、それを取りに戻ろうとしただけ。でも、教室の前まで来たとき、無意識に中をのぞいてしまっていた。
教室の中では、生徒たちが帰り支度をしていた。椅子を引く音、鞄を閉じる音、友人同士の何気ない会話。
その中に、瀬名紫音の姿があった。
鞄にプリントをしまっている。
少しだけ雑な手つき。でも、妙に整って見えた。
姿勢がまっすぐで、動きに無駄がない。
(なんなのかしら……あの動き)
転校生。まだ二日目。
それなのに、周囲の空気に馴染んでいないというよりは、“混ざっていない”ように見える。
私は人の挙動に敏感なほうだ。
ちょっとした癖とか、目線とか、間の取り方とか。
別に好きで観察しているわけじゃないけど、気づいたら目に入ってしまう。
紫音さんの動きは、ひとつひとつが精密だった。
立ち上がる角度、手の動き、呼吸のリズム。
それがすべて、“整えられている”というより、“崩せないようにできている”感じがした。
(礼儀じゃないわね。……規律?)
そう考えた瞬間、自分の中で何かがざわついた。
隣にいる結城さんと、楽しそうにパンの話をしている。でも、紫音さんの返事はどこか浮いていて、笑ってるのに目が笑っていなかった。
……いや、違う。そもそも“楽しそうにしてる”っていうのも、もしかしたら私の勘違いかもしれない。
彼女は、ちゃんと話を聞いているように見える。でも、実際にはどこか遠くを見ているみたいだった。
(演技……なのかしら。でも、誰に向けて? なんのために?)
わからない。
でも、気になって目を逸らせなかった。
それにしても、不思議な子だった。
ふと、転校初日の自己紹介を思い出す。
丁寧だったけど、どこか形式的。
教室に入ってくる足取りも、静かで揺れがなくて。
まるで、何かを“踏み越えないように”気をつけているみたいだった。
「無理をしてる」とは違う。
それは、無理を通り越して、もはや「それしかできない」状態。
彼女が何者なのか、どこから来たのかなんてどうでもいい。
でも、どこかで“ここじゃない何か”を背負ってるようにしか見えなかった。
私の立場からすれば、転校生の様子を見ておくのは当然の仕事。
でも、それだけじゃ説明がつかないくらいに、気になっていた。
そんなことを考えてると、彼女と目が合った。
ほんの一瞬。でも、その一瞬で、私の体がびくりと固まった。
彼女の視線には、はっきりと「拒絶」があった。
近づくな、という警告。
言葉にしなくても、それははっきりと伝わってきた。
私は反射的に目を逸らした。何をしているんだろう、私は。
資料を取りに来ただけなのに。
彼女が結城さんと並んで教室を出ていく。
背中はまっすぐで、振り返らない。
ただ歩いていくだけの後ろ姿に、どうしようもなく目が引き寄せられるのが悔しかった。
(どうして……気になるの)
理由なんて、本当に分からなかった。
でも、ずっと心のどこかが騒いでいる。
私は資料を取るのも忘れて、しばらくその場に立ち尽くしていた。
夕日が射し込む廊下の隅。
自分の影が、細く、長く伸びていた。
――夜。
風の音がしていた。
カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、部屋の天井をぼんやりと照らしている。窓を少し開けていたせいで、外気が冷たく入り込んでくるけれど、それすら今は都合が良かった。
暑くも寒くもない、ちょうどいい空気。
私はベッドの上で寝返りを打った。掛け布団がくしゃりと音を立てる。
眠れない。
目は重たいのに、脳だけが騒がしい。昼間の記憶が、必要もないのに何度も再生される。
あのとき、紫音さんと目が合った瞬間。
はっきりと“拒絶された”と感じた。
別に何かしたわけじゃない。
でも、あの目は私に向かって、確かに言っていた。
「見るな」って。
だけど、私は見ていた。
彼女の動きを、声のトーンを、呼吸の間さえも。
(いや……見てた、んじゃないわね。見ずにはいられなかった、の方が近い)
気づいたら、目で追っていた。
知りたかったのかもしれない。
彼女の中にある、あの静かすぎる空気の正体。
無駄のない動き。
隙のない姿勢。
どれも“育ちの良さ”とか“真面目さ”とか、そういうものじゃない。
もっと違う。もっと硬くて、深くて、痛いところから出てきてる感じ。
(なんでこんなに……気になるの)
私は布団をかぶり直し、目を閉じた。
頭の中ではまだ、彼女の声が残っていた。
「うん」「そうなんだ」
淡々とした返事。
けれど、どれも意味があるように聞こえてしまう。
私は彼女の“間”を、探していた。
それが無防備な瞬間だと思ったから。
でも、そんな瞬間はどこにもなかった。
(……疲れてるわね。寝よう)
目を閉じて、数を数える。
でも、紫音さんの声が、仕草が、気配が、消えてくれない。
私はそのまま、薄く息を吐いた。
そして、もう一度寝返りを打った。
外の風がまた、カーテンを揺らした。
それに合わせて、紫音の横顔が、脳裏にまた浮かんだ。
(……私、何してるのよ)
自分でも、自分の気持ちがわからなかった。