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第5話 視線の先と、気づかないふり

午後の授業が終わると同時に、教室の空気が一気に緩んだ。 椅子を引く音、ファスナーを開ける音、友達同士の声。どこか疲労を含んだ、けれど確かに生きた音たちが、夕方の教室を満たしていく。


俺はまだ、自分の席に座っていた。 動こうとする意志はあるのに、足が重たくてすぐに立ち上がれない。


(……疲れた。体の芯が重い)


午前中の確認テストは、思っていたよりずっと消耗するものだった。 国数英、三教科一気に。初見の問題。意味不明な物語文。やたら友達が多い設定の数学。

何より、「正解しなければいけない」という空気が重かった。 ここは戦場ではないけれど、あの沈黙と緊張感だけは、かつての訓練所を思い出させる。


そんな昔のことを頭から振り払い、俺は鞄に教科書をしまう。 ぐしゃぐしゃになったプリント。無理に詰め込んだノート。いつの間にか曲がっていたペンケースのファスナー。

そんな中で、隣の席から声がかかる。


「紫音ちゃん、今日はまっすぐ帰る?」


顔を上げると、結城が鞄を持って笑っていた。


「うん。……体力残ってないし」

「だよねー! 私も今日は、布団と合体したい」

「蒸発できるなら、そのほうが楽かも……」

「それだめだから!? 消えないでね!」


俺は、苦笑いする。 結城とは、初日の席が隣だったというだけの縁だ。 でもそれが、今は少しありがたくなっている。


朝にも思ったけど、彼女は空気を読まない。 けれど、それが逆に心地いい。 「壁を作られてる」と察することもなければ、「踏み込もう」ともしない。 ただ“隣にいる”。その距離感が、今の俺にはちょうどいい。


「甘いの、食べたい……脳が糖分を欲してる」

「回復アイテムだね! 購買行こ!」


そう言って先に立ち上がった結城の後を追おうと、俺は鞄の肩紐を掴んだ。 その瞬間、視界の端に影が差し込んできた。


(……ん?)


廊下側のドア付近。

誰かが立っている。

白雪紗月。


ただ立っているだけ。 声をかけるでもなく、手を振るでもなく。

けれど、その視線が、こちらを向いているのが分かった。


(……まただ)


何度かこういう視線を感じたことがある。 今日のテスト中にも。 そして今も、まっすぐに“見られている”という感覚が身体に突き刺さっていた。


(なんで……そんなに見てくるんだよ)


視線を合わせないように、鞄の中に無意味に手を入れてペンケースの位置を直す。 心の中では警戒音が鳴り響いている。

紗月は風紀委員長。 秩序の象徴。 でも、その目には秩序というより、もっと個人的な“興味”がにじんでいる気がした。


(……被害妄想か? いや、違う。あれはあの時の目だ)


呼吸が浅くなる。 胸の奥がぴりついて、肌がざわつく。それは、前の世界で何度も感じた“視線”と似ていた。


味方に擬態した裏切者。 銃口の先に立っていたときの、判断の一秒差が生死を分ける緊張。

意識的に体をリラックスさせようとするが、うまくいかない。


「紫音ちゃん?」

「……あ、うん。行こう」


結城に呼ばれて我に返る。 ファスナーを引く音がやけに大きく響く。

ドアへ向かう。 その途中で、紗月と視線が交わる。


一瞬だった。 でも、その一瞬で心臓が跳ねた。

彼女は何も言わない。 ただ、こっちを見てる。 感情の読めない瞳。整った顔。

それが、逆に怖かった。


(……構ってくるな。こっちはただでさえ平穏に生きるのに必死なんだ)


視線をそらし、結城の後ろに続く。


(……でも、何だろ......変だな。見られてるのが嫌なら、無視すればいいだけなのに。こっちが気にしなければいいだけの話なのに)


それなのに、気づけば“見られてないか”を意識している自分がいる。 あの視線がどこにあるか、確認せずにはいられなかった。


(まるで……気にしてるみたいじゃん。バカか、俺)


廊下にはまだ陽の名残があって、窓のガラスに夕焼けが映っていた。


購買の前に着くと、結城はパンの棚の前で迷っていた。


「メロンパンにするか、チョコにするか……この時間帯だと、あんま残ってないなあ」

「……その選択、そんなに重要?」

「人生の分岐点だよ。今日どっちを選ぶかで、未来が決まるかもしれない」

「パンで未来が決まったら、世の中もっと混乱してると思う」

「おお、冷静なツッコミ。助かる」


会話のテンポが、さっきまでの自分の緊張をゆっくり溶かしていく。


結城が手にしたメロンパンを見て、思う。 


(こんなもんで……喜べるのか。すごいな)


「甘いものって、やっぱ元気出るよねー」と無邪気に笑う彼女に、返す言葉が見つからない。 喉まで出かかった「そんな感情どこから出るんだよ」という言葉を、ぐっと飲み込んだ。


(“同じ”感情になるには……あと何年かかるんだろうな)


未だにずっと笑ってる彼女を見ながら、俺はふと思った。


(……日常って、こんな感じだったっけ?)


少し前まで、俺は“笑う”という動作すら忘れていた気がする。

でも、だからといって——


(紗月のあの目だけは、なぜか忘れられない)



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