午後の授業が終わると同時に、教室の空気が一気に緩んだ。 椅子を引く音、ファスナーを開ける音、友達同士の声。どこか疲労を含んだ、けれど確かに生きた音たちが、夕方の教室を満たしていく。
俺はまだ、自分の席に座っていた。 動こうとする意志はあるのに、足が重たくてすぐに立ち上がれない。
(……疲れた。体の芯が重い)
午前中の確認テストは、思っていたよりずっと消耗するものだった。 国数英、三教科一気に。初見の問題。意味不明な物語文。やたら友達が多い設定の数学。
何より、「正解しなければいけない」という空気が重かった。 ここは戦場ではないけれど、あの沈黙と緊張感だけは、かつての訓練所を思い出させる。
そんな昔のことを頭から振り払い、俺は鞄に教科書をしまう。 ぐしゃぐしゃになったプリント。無理に詰め込んだノート。いつの間にか曲がっていたペンケースのファスナー。
そんな中で、隣の席から声がかかる。
「紫音ちゃん、今日はまっすぐ帰る?」
顔を上げると、結城が鞄を持って笑っていた。
「うん。……体力残ってないし」
「だよねー! 私も今日は、布団と合体したい」
「蒸発できるなら、そのほうが楽かも……」
「それだめだから!? 消えないでね!」
俺は、苦笑いする。 結城とは、初日の席が隣だったというだけの縁だ。 でもそれが、今は少しありがたくなっている。
朝にも思ったけど、彼女は空気を読まない。 けれど、それが逆に心地いい。 「壁を作られてる」と察することもなければ、「踏み込もう」ともしない。 ただ“隣にいる”。その距離感が、今の俺にはちょうどいい。
「甘いの、食べたい……脳が糖分を欲してる」
「回復アイテムだね! 購買行こ!」
そう言って先に立ち上がった結城の後を追おうと、俺は鞄の肩紐を掴んだ。 その瞬間、視界の端に影が差し込んできた。
(……ん?)
廊下側のドア付近。
誰かが立っている。
白雪紗月。
ただ立っているだけ。 声をかけるでもなく、手を振るでもなく。
けれど、その視線が、こちらを向いているのが分かった。
(……まただ)
何度かこういう視線を感じたことがある。 今日のテスト中にも。 そして今も、まっすぐに“見られている”という感覚が身体に突き刺さっていた。
(なんで……そんなに見てくるんだよ)
視線を合わせないように、鞄の中に無意味に手を入れてペンケースの位置を直す。 心の中では警戒音が鳴り響いている。
紗月は風紀委員長。 秩序の象徴。 でも、その目には秩序というより、もっと個人的な“興味”がにじんでいる気がした。
(……被害妄想か? いや、違う。あれはあの時の目だ)
呼吸が浅くなる。 胸の奥がぴりついて、肌がざわつく。それは、前の世界で何度も感じた“視線”と似ていた。
味方に擬態した裏切者。 銃口の先に立っていたときの、判断の一秒差が生死を分ける緊張。
意識的に体をリラックスさせようとするが、うまくいかない。
「紫音ちゃん?」
「……あ、うん。行こう」
結城に呼ばれて我に返る。 ファスナーを引く音がやけに大きく響く。
ドアへ向かう。 その途中で、紗月と視線が交わる。
一瞬だった。 でも、その一瞬で心臓が跳ねた。
彼女は何も言わない。 ただ、こっちを見てる。 感情の読めない瞳。整った顔。
それが、逆に怖かった。
(……構ってくるな。こっちはただでさえ平穏に生きるのに必死なんだ)
視線をそらし、結城の後ろに続く。
(……でも、何だろ......変だな。見られてるのが嫌なら、無視すればいいだけなのに。こっちが気にしなければいいだけの話なのに)
それなのに、気づけば“見られてないか”を意識している自分がいる。 あの視線がどこにあるか、確認せずにはいられなかった。
(まるで……気にしてるみたいじゃん。バカか、俺)
廊下にはまだ陽の名残があって、窓のガラスに夕焼けが映っていた。
購買の前に着くと、結城はパンの棚の前で迷っていた。
「メロンパンにするか、チョコにするか……この時間帯だと、あんま残ってないなあ」
「……その選択、そんなに重要?」
「人生の分岐点だよ。今日どっちを選ぶかで、未来が決まるかもしれない」
「パンで未来が決まったら、世の中もっと混乱してると思う」
「おお、冷静なツッコミ。助かる」
会話のテンポが、さっきまでの自分の緊張をゆっくり溶かしていく。
結城が手にしたメロンパンを見て、思う。
(こんなもんで……喜べるのか。すごいな)
「甘いものって、やっぱ元気出るよねー」と無邪気に笑う彼女に、返す言葉が見つからない。 喉まで出かかった「そんな感情どこから出るんだよ」という言葉を、ぐっと飲み込んだ。
(“同じ”感情になるには……あと何年かかるんだろうな)
未だにずっと笑ってる彼女を見ながら、俺はふと思った。
(……日常って、こんな感じだったっけ?)
少し前まで、俺は“笑う”という動作すら忘れていた気がする。
でも、だからといって——
(紗月のあの目だけは、なぜか忘れられない)