「いえ、おおよその見当は付くのですがね。まったく、新学期早々問題ですか。やれやれ、これから一年楽しくなりそうですよ」
男は顔面を顰めるが、その後気を取り直してから微笑に変えた。
「お二人とも大丈夫ですか? そんなに強く倒してはいないはずですが痛むようでしたら手を貸しましょう。ああ、加豪さんは琢磨追求でしたね。でしたらこれくらい慣れっこでしょうか」
男は笑っているが加豪は悔しそうに黙ったまま立ち上がる。
「ミルフィア、大丈夫か!?」
「はい、大丈夫です主」
すぐにミルフィアに駆け寄る。彼女も怪我はないようで自力で起き上がっていた。
この事態に当然他の生徒からはざわざわと話し声が漏れている。
「皆さん、戸惑うお気持ちは分かりますがまずはお静かにしてください。私はここのクラスを担任することになった、ヨハネ・ブルストと申します。神律学園特別進学クラスへの御入学おめでとうございます、……と挨拶を続けたいところですが、そうもいかないようですね」
見ればヨハネという男は苦笑するも、笑みを崩すことはしなかった。
「お二人ともも収めなさい。特に加豪さん、神託物を見せたい気持ちは分かりますがそう軽々に出すものではありませんよ。神の恩寵を日用品にでも失墜させるおつもりですか?」
「いえ、私はそんな……」
「では、すぐに収めなさい。それと、この場で言っても説得力は酔漢にも劣るでしょうが、立派な神託物でしたよ。今後も自身の信仰に精進なさい」
「はい、ありがとうございます……」
加豪は反省の色を浮かべ神託物を消した。出現時同様、雷刃(らいじん)は空へと消える。ヨハネから一応褒められるが表情は落ち込んでいた。
「それで宮司さん」
「ん?」
落ち込む加豪をやれやれと、けれど温かい眼差しで見つめた後教師ヨハネが俺に振り返る。
「怪我をしているようですね。大事ではないようですが念のために保健室へと行きましょう」
「別に、なんでもねえよこれくらい……」
顔を逸らし提案を跳ね除ける。どうやらロッカーとぶつかった際に頬を切っていたらしい。
「いえ、これは教師としての指示です。保健室への場所は分かりかねるでしょうから私が同行します。他の人たちは私が戻るまで待機していて下さい。それと」
ヨハネは俺から視線をミルフィアへと向けた。
「あなたも、ご同行願えますかな」
「はい、そのつもりです」
乗り気はしないがここにいても居心地が悪いだけだし他に行く宛もない。足取りは重いがここよりはマシだ。
収まらない苛立ちと不満を表情に浮かべつつ、俺たちは教室から出て行った。
*
「痛っ!」
保健室には俺とヨハネ、そしてミルフィアの三人がおり新学期初日とあって保健室の先生は不在だった。机のある椅子にはヨハネが座り、対面する患者用の丸椅子二つに俺とミルフィアが腰かけている。
切り傷に消毒液で濡らしたガーゼを当てられる。しみる痛みに顔を引き離そうとするがヨハネは笑顔で許さなかった。
「これこれ、逃げないでください。しっかり消毒しておかないと。雑菌でも入って腫れたらどうするのですか」
「もう十分だよ」
どうもこの男は笑っているのが普通らしく、俺は反抗的な態度で言うんだがヨハネはそよ風のように受け流しご満悦だ。そんな俺たちの様子をミルフィアは黙って見守っている。
「よし、これでいいですかね」
切り傷の上にガーゼを当てテープで固定される。無事に終えたことにヨハネは満足気に頷いた。
「いやー、やはり人のために働くのは気分がいい。相手が返してくれる笑顔と感謝はまるで自分のことのように嬉しい気持ちにしてくれる」
「笑ってねえよ! 感謝も一言たりとも言ってねえし! 傷口にグリグリ押しつけやがって、下手ならやるなよ痛ってえな」
「すみませんすみません。まあ、そう怒らないでください。あなたを手当てしたかったという私の気持ちだけでも、汲んでもらえませんかねえ、宮司さん」
「ちっ」
そりゃ人を助けようとする気持ちは高尚だろうよ。だが実害があったら余計なお世話だ! あー、いた。
「手当が終わったならもう帰るぜ」
カーゼの上から傷を擦りつつ席を立つ。用は終わったんだしここにいる理由はない。
「ああ、待って下さい。とりあえず座り直して」
とするのだが、帰ろうとするのを慌ててヨハネが呼び止める。いったいなんだよと向き直るが椅子を手で叩くだけだ。面倒臭い。そんな目で見下ろすが嫌な顔一つしない。
「……分かったよ」
嫌々だが再び席に座る。そんな俺にヨハネは「ありがとうございます」と言ってから話を始めた。
「それにしても入学初日から喧嘩ですか。遅かれ早かれ問題は起きるとは思っていましたが、まさか出会う前からとは。驚きましたよ」
「自己紹介の手間が省けて良かっただろ?」
「仕事が増えるのは止めて欲しいのですが……」
ヨハネが苦笑しながら頭を掻いている。きっと不良生徒にやれやれと思っているんだろう。
しかし普通の教師なら説教をしそうなものだが、ヨハネは引きつっていた頬を元に戻すだけだった。
「喧嘩はもちろんしてはいけないことです。教師としても起こったならば止めねばなりません。何事も仲が良いのが一番です。ですが、まあ、仕方がない喧嘩、というのもありますか」
声は穏やかで責める素振りは見られない。喧嘩すらもいいことのようにヨハネは明るく口にしていた。
「特に、青春には付き物ですからね」
「そんな爽やかなものじゃねえよ」
その言葉に視線を逸らす。青春ドラマみたいな理由じゃないんだ、他の連中と一緒にして欲しくない。
「あははは……、そうですね、申し訳ない。確かにそうだ。ただ、もし喧嘩の理由が神理の違いからでしたら、私にも経験がありますので少しは宮司さんの思いが分かるかもしれません」
「神理の違い?」
「はい、そうです」
ヨハネは困ったように肩を下げ弱気な笑みをしていた。
喧嘩の理由。おおざっぱに表せば神理の違い、ではあるか。俺と目の前の男では当然事情は違うが。だが俺みたいな無信仰者と信仰者ならともかく、信仰者同士でも喧嘩をするのか?
人間なんだから喧嘩くらいするだろう。でも俺にはそれが意外というか、新鮮だった。
神理を信仰してる連中は少なくともそうすることで幸せになれるから信仰してるんだろ? なのに信仰者同士でも争うことがある?
「この時期になりますとね、私はまだ自分が新米だった頃を思い出しますよ。皆さんと同じ、教師としての一年生です。ですがいやー、あまりいい思い出とは呼べませんねえ」
「あんたも喧嘩したのか?」
「喧嘩といいますか、失敗ですね」
ヨハネは当時の自分を思い出しているのか、残念そうに消沈し、もしくは困ったように眉を下げている。
「私が教師として働いてまだ日が浅い頃でした。初めは副担任、ということで職務をこなしていたのですが、廊下を歩いているとですね? 頬を押さえて座っている男の子がいたんですよ。どうやら喧嘩でもしたのか殴られたようでして」
ヨハネの話にいつしか惹かれ俺は体を正面に向けていた。信仰者の事情なんてそうそう聞けることじゃない。
しかし、聴いてみればこの話。無信仰の俺でも察しが付くぜ。
ヨハネの腕章を見れば分かるがこの男は慈愛連立だ。そして慈愛連立は人助けを掲げている神理。だから相手がたとえ赤の他人でも助けにいく人がほとんどだ。そのため慈愛連立には社交的であったり優しかったりする人が多い。まあ、さすがに無信仰者なんて究極の異端助ける奴はいないが。
ヨハネも慈愛連立の信仰者だから、ここで男子生徒を助けるのは不思議じゃない。
「彼が傷ついていましたから。私は慈愛連立の教えに従い手を差し伸べたわけですよ」
「やっぱりか」
「優しいでしょ私? えらいでしょ私?」
「押し付けがましく言うなよ」
「人助けっていうのは立派な行いだと思うんですよ」
「はいはい、分かったから」
「立派でしょ私?」
「次いけよ!」
なんだこいつ!?
「ですが、彼は琢磨追求の子だったんですよ」
「ん?」
それがなにか問題なのか? 分からず小首を傾げる。
「私は善意で接しただけなのに、彼は怒りの形相を露わにしてですよ? 『琢磨追求の者に情けなど不要! 僕のことを馬鹿にしているんですか先生!』と拒絶されたんですよ~」
「あー……」
なるほど。納得すると同時に同情する。
琢磨追求という神理は己を鍛える神理だ。そのため自分に厳しい、また他人にも厳しい人が多い。また強さを求める神理だからか他者から助けられる、というのは嬉しいというよりも恥、見下されていると感じるんだろう。
「そんな気はなかったとはいえ、これも神理の違いですからねえ。仕方がないと受け入れ謝ったんですよ私。助けようとしただけなのに」
ヨハネはこれ見よがしに肩を落とす。神理の違いから生まれる食い違い。仕方がないのは仕方がないが、とはいえ不幸だ。だが話は終わらなかった。
「そしたら後日、彼の母親が職員室にやって来てですよ? 『ヨハネという教師はどこですか!? 私の息子を甘やかさないでください、軟弱者になったらどうするんですか!?』と怒鳴って来たわけですよ。もうねえ、私、心中でえ~と思いながらも平謝りしたわけですよ。その後先輩教師であり担当の先生にその件を相談したんですがね、彼は無我無心の信仰者だったんです。まだ若輩で経験の浅い私に向かって、『何事も経験だ。俺に頼るな』って、無表情で! 無関心に! そう言うんですよぉ~?」
「まー、そうなるわな」
泣き面に蜂とはこういうことを言うんだろうな。てか、あんたも運悪いな。
無我無心は心を無にすることを目指す神理だ。感情も表に出さないし、何事にも平常心を保とうとする。そうやって苦しいと感じる心を消そうとするためか、奴らは他人の痛みにも希薄になりがちだ。大人しくて消極的、というのが無我無心の典型的な人物像だろう。
連続して災難を経験したヨハネとしてはいろいろ思うところがあるようで、身体が前に傾いている。
「そりゃ経験は大事ですしごもっともだと思いますよ。ですがね? 教師という役職の身、指導する者が指導しないなんて怠慢の正当化ですよね!? あなたもそう思いますでしょう宮司さん!?」
「ま、まあ」
「ですよねえええ!」
すると急に手を握ってきた。ちょ、お前なに握ってんだ!
「やはり宮司さんは素晴らしい人だ。私の痛みに、きっとあなたは理解を示して下さると信じていましたよ。私かわいそうでしょ? もうあの時は途方に暮れて涙ちょちょ切れましたよお~」
「は、ははは……」
ちょっと待て、なんで俺が慰める形になってんだ? お前が教師だろうが。
するとヨハネはいきなり泣き顔から笑顔へと変わった。
「やはり、あなたは怒っているよりも、笑っている時の方が素敵ですよ?」
「!?」
ヨハネはニッコリと笑いそう言った。慌てて手を振り解く。
「べ、別にッ!」
「おやおや、照れてしまいましたか。ですが私はそう思いますよ」
しまった。ヨハネは俺から笑顔を引きずり出すためにわざと自分の失敗談を話したんだ。愛想笑いとはいえ笑顔を見られたこと。それが無性に悔しいというか、恥ずかしい。あーくそ!
そんな俺とは反対に、ヨハネは笑顔のまま声は穏やかだった。
「誰しも、笑っている時が一番です。宮司さん。それはあなたもだと私は思っています。そして、それが許されない、ということはあってはならない。私はあなたにも笑って過ごして欲しいですし、それが出来ると思っています」
それから数秒の間を置いて、ヨハネは聞いてきた。
「教室の皆とは、馴染めないですか?」
「……フン」
ヨハネからの問いに俺は答えない。答えは出すまでもないと、鼻を鳴らした後は黙り込む。そんな態度にヨハネは困ったように苦笑した。その後、真剣な面持ちに変わる。
「宮司さん。確かにあなたは無信仰者かもしれない。そして周りは信仰者ばかりです。ですが私は思うのです。そんなあなたでも笑って過ごして欲しいと。実は、あなたを特別進学クラスに編入したのは私の提案でしてね。一つの信仰に縛られるのではなく、多くの人と知り合えるこのクラスなら、あるいは変われると思ったのです。自分一人だと決めつけず、友人ができれば人生が今とは違って見えるでしょう。私はそう、強く思います」
ヨハネは祈るように願いを口にする。会ってまだ間もない男だがヨハネが本心でそう言っていることはなんとなくだが分かった。
だが、俺は知っている。
誰もが恐れていること。嫌な物を見る目を向け、神を信仰しない不届き者だと中傷してくる。
記憶を探れば、反吐が出る思い出ばかりだ。
「あんたが、俺の何を知ってる?」
胸の中で沈殿していた怨念が、ゆっくりと顔を上げてくる。
「……いえ、私には思いも付きません」
「なら勝手言うなよ」
自分でも分かるほど、俺の言葉は冷たい針のようだった。
「仲良くなる?」
怒気が上昇していく。苛立ちが弾けた。
「俺を敵視しているのは周りの連中だろうが! 仲良くなるだあ? なりたいんなら変わるのはあいつらの方だ。俺を怖がって内心では馬鹿にしてやがる、そんな奴らと仲良くなんてしてられるか!」
怒りのあまり声が荒げる。体が前に出てヨハネに叫んだ。内容は決めつけだが、俺を咎める資格なんて誰にもない。
それを聞いて、ヨハネは寂しそうに顔を暗くした。
「すみません。どうやら私が急ぎ過ぎてしまったようです。押し付けがましく、申し訳ありません」
「…………ん」
それで、俺も怒鳴るのを止めた。収まらない怒りはあったが、この男が優しさで俺を心配してくれたのは分かるんだ。ただ、納得出来なかっただけで……。
沈黙ができた。途端に空気が重くなる。丸椅子がギシリと軋み、顔を下げる。ふとミルフィアに視線を向けてみても彼女は不動のまま動く気配を見せない。
気まずい空気だ。そう思っていると恐る恐るといった様子でヨハネから声が聞こえてきた。
「宮司さん。大きなお世話だというのは重々承知しています。ですが私は慈愛連立の信者です。困っている人を見かけたら助けてあげるのが私の信仰なのです。どうか最後にもう一度だけ、おせっかいをさせてはいただけませんか?」
俺はゆっくりと顔を上げる。視線の先ではヨハネが真っ直ぐ俺を見つめていた。
「答えは求めません。宮司さんは黙って聞いているだけで結構ですし、聞き入れなくても大丈夫です。ただ、私は伝えておくことだけはしておきたいのです。私に信仰を行なえる機会を与えてはもらえませんか?」
彼からのお願い。人助けをするのは自分なのに。本来ならば立場は逆なのに。
おかしなやつだと思う。お人好しにもほどがあるってもんだ。
ただ、そこまでして頼むのを、拒もうとはさすがに思わなかった。
「……ああ、好きにしなよ。ただ俺の気持ちは変わらないぜ?」
「はい、ありがとうございます」
返事にヨハネはパッと表情が明るくなる。まるで自分が救われたような反応がなんだかおかしくて、ついフッと笑ってしまった。