神愛とメタトロンが戦う三日前――
洗練(せんれん)さと豪華さが見事に融和(ゆうわ)していた。白を基調(きちょう)としたガラス張りの部屋には縦長のテーブルが置かれ白のテーブルクロスが敷かれている。天井には煌(きら)びやかなシャンデリアが吊るされ豪華さを演出し、部屋の隅に置かれた芸術品たちはこの部屋全体に存在感を持たせている。どこにいてなにを見ても、この部屋はいる者に退屈は与えない。
ここは静かだが、いるだけで気が引き締まるそんな威容(いよう)に満ちていた。
サン・ジアイ大聖堂。慈愛連立(じあいれんりつ)を国教(こっきょう)とするゴルゴダ共和国の建物だ。政府の主要施設の一つであり、ガラスの向こう側には青空の下ゴルゴダ共和国の美しい街並みが広がっている。まるで建物一つ一つがパーツのように街という一つの芸術品を作り上げていた。近々開催される教皇誕生祭(きょうこうたんじょうさい)の準備も完成を見せ始め、いつにも増して華々(はなばな)しさを増している。
そんな街並みを俯瞰(ふかん)しながら、一人の男がガラスの前に立っていた。
四十代ほどの堅物を思わせる男性だった。背は高く髪は黒い。サン・ジアイ大聖堂の職員である白の制服を着ている。それも職位の高い者が着るものだ。男は手に持っていた聖書を開き、そこに目を下ろすと朗読(ろうどく)し始めた。
「とあるところに、百の羊と五十の牛、三百の鶏を飼う地主がいた。その者は土地を貸した者たちからことある毎に収穫の品を奪い、己の欲のみを満たしていた」
落ち着いた声が部屋の空気に馴染む。
「その町をイヤスが訪れると、その者はこう言った。ここを通りたくば一頭の牝牛か三頭の牡牛、もしくはここに居を構え五年の作物を収めよと」
彼の話すもの。それはかつて実在したという一人の男の物語だった。
「その時イヤスはおっしゃった。求める者よ、では、私の持てるものすべてを与えよう。私の服も、私の靴も、明日の食事のために残しておいたひと欠片のパンも。欲する者よ、見るがいい。私はすべてを失った。私が欲するものすべてを持つ者よ、なにゆえそなたはまだ欲するのか。私にはないものをそれだけ持っていて、なにゆえ欲するのかと」
男はパタンと聖書を閉じた。そして、聖書を見つめていた目を持ち上げる。
「来たか」
直後背後にある扉が開いた。足音から誰か一人が入室してきたのが分かる。男は正面にあるガラスを鋭く見つめながら背後から近づいてくる者に言う。
「そうまでして過去の使命を果たすのか?」
足音が近づいてくる。自分に向かって近づいているのが分かる。
「時代は変わった。争う必要などどこにある。二千年前とは違う。今や三つの信仰は共存している。ましてや」
男は一拍の間を置き、強く、悲しそうに告げた。
「同じ信仰で、同じ仲間で。これが我らのやることか?」
「ああ、その通りさ」
応える声は二十代ほどの男のものだった。この部屋には似合わない粗暴さを感じさせる口調だ。
「時代は変わらねえ。そして、俺たちもな」
男はそう言うと拳銃を取り出し、彼の頭へと突きつけた。
「じゃあな」
カチリと、撃鉄(げきてつ)が持ち上がる音がする。
聖書を持った男は振り返ることなく静かに瞼を閉じた。これから先に想いを馳せるように顔を天井へと向ける。彼がこの時なにを想ったのか、それを知る術はない。ただ、今から己の命が絶たれることを悟った者の心境が穏やかでないことは確かだろう。
けれど、彼は違った。
「ああ……。さらばだ、友よ」
声は穏やかで、自分を殺そうとする男を友と呼び、死を受け入れた。
そして、死の瞬間がやってくる。
銃声が鳴り響く。男は頭を撃ち抜かれ、割れたガラスと共に外へと落ちていった。
空から、羽を持つ者が落ちていくように。
ガラスの欠片は光を反射して、きらきらと落ちていく。男と共に、落ちていく。
失意(しつい)に沈んでいくように。
落ちていく。
人を愛した羽を持つ者のように。
男は地面に倒れた。住民から上がる悲鳴がここまで聞こえてくる。
けれど彼を殺(あや)めた男に反省の素振りはない。眼下(がんか)から聞こえる騒動を他人事のように聞きながら、血の付いた聖書を拾い上げる。
男は不気味な笑みを浮かべていた。
「なにゆえ欲するのかだと? ハァン?」
小馬鹿にしたように、かつて仲間だった男に言うのだ。
「欲しいからに決まってんだろ」
そして去っていく。拳銃をしまい、聖書を週刊雑誌の気軽さで持ち運び、男は扉へと向かって踵を返す。
これが始まり。
人と神と羽を持つ者が織り成す物語。
偽りの平和は仮面を外し、慈愛という名のメッキは崩れ去る。
喝采(かっさい)せよ、その時だ。
二千年前、果たされなかった使命と名誉の。
六十年前、守れなかった約束を。
男が部屋を去る時、その顔は笑っていた。
「さあ、いよいよだ。待ってろよウリエル」
その表情は、開戦の喜びに満ちていた。