やめたやめた! 俺はやめた。もうプログラマはやめたんだ。
コードより人間関係で悩むのはこりごりなんだよ。炎上プロジェクトで、脳と胃袋を焼き切られるような日々はまっぴら御免だ。案件が片付く度に次の現場で顔合わせと称した面談が特に嫌いだ。何がコミュニケーション能力だ、何が論理的思考だ。笑わせやがる。そんなものばかり重視するから炎上するんだよ。
――少し落ち着こうか……ふぅ。
駅前の一等地の少し古い雑居ビルの一階にある「純喫茶スプートニク」、俺の店だ。
店名の由来か? 最初の人工衛星だ。皮肉なもんだろ、人工知能だのネットだのから逃げてきた俺が、システムのはしりみたいな名前の店をやってるなんて。
立地もこだわったし、豆も俺が毎朝グラインドしている。金は結構使っちまったが、今まで解決してきた炎上プロジェクトで散々稼がせてもらったからな。まぁ、なんとかなった。
今の悩みは、豆の焙煎具合と湿度のバランスくらいなもんで、平和ってやつを噛みしめてる。あの頃の脳と胃袋をヒリヒリさせていた頃に比べればな。
店内にはジャズ。俺はカウンターの奥で、ジーパンに黒のTシャツとラフな格好に黒いエプロンをして、モカ・イルガチェフェを淹れていた。
花のような香りがふわりと立ちのぼったとき、ドアが鳴った。
カラン……カランカラン。
「ウィザード! ウィザード篠原さん居るぅ!? ちょっと聞いてよ!」
いきなり声を張り上げながら入ってきたのは、旧知の現役エンジニア、ユカだった。
昔、一緒に炎上プロジェクトの火消しをやったことがある。あの頃は修羅場続きだったが、こいつは今でも現役で頑張ってるらしい。相変わらずの黒縁眼鏡に目の下のクマと、無造作に束ねた長い黒髪がそれを物語っていた。
「どうした? またプロジェクトが燃えてるのか?」
「……何を呑気なこと言ってんのよ。燃えてるどころじゃないわよ。人工知能が、勝手に進化を始めたの」
「ふーん」
「自己最適化とかじゃない。人間の理解を超えた『言語』を生成して人工知能同士が通信してるのよ。完全にブラックボックス。もう、誰にも止められないかもしれないの!」
「そりゃ、暗号通信くらいやるだろうさ……」
無関心を装いながら、俺はカップに湯を注ぎながら返事をした。モカ・イルガチェフェの香りがさらに深く広がる。
「で、官公庁がうちの会社に泣きついてきた。開発元が対応不能で、情報インフラへの影響も予測不能。あなた、かつて『炎上プロジェクト専門』って言われてたじゃない?」
あ、これはやばい流れだ……。
「ねえ(はぁと)、ユカちゃんのお願いッ! これ以上、誰にも頼れないの」
やれやれ、またか……こいつこの甘えた口調で、過去に何度も俺を爆発寸前の炎上案件にぶっこんできたんだよな。しかし! もうその手には乗らない……。
「……悪いな」
俺はコーヒーを一口すすった。
そしてちょうどその時だった。
店の前の通りで、ドォンッ、と鈍い音が響いた。
ガラス越しに、何かがひっくり返るような光景が見える。通行人が叫び声をあげて逃げ出す。車が、妙な動きで暴走している。ドライバーはいない。
……自律走行だ!。
「……始まったかも」ユカが顔を強ばらせる。
ユカが顔を強ばらせるのを横目に、俺はコーヒーをまた一口……まろやかな酸味。バランスは悪くない。
「おいおい、勘弁してくれよー、俺は嫌だからな。面倒事はお断りだっ!」
そう言いつつ、ポケットに手が伸びて、勝手にUSBキーを取り出してるのはなんでだ。篠原のノートPCが起動し画面上には人工知能エージェントが起動確認を読み上げている。
カメラアイ――OK
マイク――OK
ストレージ残量――OK
第三世代準天頂軌道衛星とのリンク――OK
システムオールグリーン
ポーン! 汎用人工知能支援メイド・ナギちゃん起動完了!
ポーン!「篠原さん、久しぶりですね。また炎上したんですか? やれやれ……」
ノートPCの画面の前に3Dホログラフィック映像が浮かび上がった。
そこには、可愛らしい中学生くらいのメイド服姿の女の子が、にこにこしくるくる回りながら俺に毒づく……メイドAIもいつも通りだ。
「うわキッモ! なんですかそれ?」
ユカの素早いツッコミが入ったがいつものことさ。
ウィザード篠原、再始動!
―― つづく ――