閉店後の疑念
店の掃除をしながら、忍が弥生に話しかける。
「何か違和感を感じない?」
「何のこと?」と弥生が振り向く。
忍は少し考え込んでから言葉を続けた。
「月様は雪乃様直伝って言ってるけどさ……最初のオペラ、ザッハトルテ、タルトタタン……どれも工程が多くて難易度が高いし、一言で言えば作るのが面倒なスイーツばかりじゃない?」
弥生は驚いたように手を止める。
「確かに……でも、月様は雪乃様のレシピを知っているはずでしょう?お店で提供しないとしても、教わっていたのでは?」
忍は首を振りながら、微妙な表情を浮かべた。
「それはそうかもしれない。でも、月様は雪乃様のことをよくご存じなはずよ?雪乃様なら絶対にお店で提供しなさそうなスイーツばかりを選んでいる気がするの。」
弥生は困惑しながら言う。
「……それは、月様が自分の独自性を出そうとしているだけなんじゃない?」
「それだけかしら?」忍は鋭い目で厨房の中を見つめた。
弥生もつられて月がいる厨房のほうに目を向けた。
月はエプロン姿で、軽やかな手つきで明日の準備をしている。その姿は一見、いつもの月らしく、明るく楽しそうだったが、どこか意図的なものを感じる。
「……雪乃様がこんなに面倒なスイーツを毎日出すなんて想像もできないわね。」弥生が呟くように言った。
「ね?」忍が頷く。
「それに、月様のやり方には何か違和感がある。単に“独自性”を出したいだけじゃないような気がしてならない。」
弥生は不安げに厨房の月を見つめながら、心の中で同じ疑問が広がっていくのを感じた――。
パネットーネへの興味と驚き
クラリスが厨房で忙しくしている月に声をかける。
「月様、明日のスイーツは何の予定ですか?」
月は手を止め、にっこりと微笑む。
「明日はパネットーネよ。」
「パネットーネ?初めて聞きます。それってどんなスイーツなんですか?」クラリスが首をかしげる。
弥生も興味を引かれて厨房にやってくる。
「私も聞いたことがありません。作り方を教えていただけますか?」
月はふふっと笑って答える。
「まぁ、これを出すお店なんてほぼ皆無だから、知らないのも無理ないわね。時間があるときにゆっくり説明するわ。」
弥生が困惑した顔で返す。
「え?明日出すんですよね。作り方を知らないとお手伝いできませんよ。」
月は胸を張って言った。
「大丈夫。もうできてるから。」
そう言いながら月はオーブンの扉を開ける。中には黄金色に焼き上がったたくさんのパネットーネが並んでいた。
「いつの間に……?」
クラリスと弥生は目を見張り、身を乗り出してその焼き上がりを眺める。
「これ、もう試食していいんですか?」クラリスが期待に満ちた目で尋ねる。
月は少し悪戯っぽく笑いながら答える。
「ごめんね、試食は明日の開店前までお預け。」
「え?」と驚くクラリスと弥生。
月はオーブンからパネットーネを取り出しながら説明を続けた。
「実は、これで完成じゃないのよ。焼き上がった後、常温で1日寝かせて熟成させるの。それで初めて本当の完成になるの。」
クラリスが驚いた表情で尋ねる。
「ということは、今日焼いた分しか明日提供できないんですか?」
月は軽く頷いた。
「その通り。だから、明日はここにある分だけの数量限定。足りなくなってもすぐに追加を作るなんて無理なの。」
弥生が真剣な顔で確認する。
「つまり、今日は試食もできず、明日限定分だけで提供するんですね。」
月は頷きながら言った。
「そういうこと。明日が楽しみね。」
クラリスと弥生は、その珍しいスイーツがどんな味なのか想像しながら、期待と戸惑いを抱えてその場を後にした――。
一人になった月
厨房に一人残った月は、パネットーネが整然と並ぶ棚を見つめながら、ほっと息をついた。そしてその視線がだんだんと鋭くなる。
「ふふふ……ようやく完成したわね。」
月はそっと焼き上がったパネットーネを一つ手に取り、優しく撫でるように表面をなぞった。
「72時間……。私のすべてをかけたこの思い……。」
目を細め、静かながらも強い意志を込めた声で呟く。
「これでみんなに思い知らせてやるわ!姉に恥をかかせた者たちが、どれだけの才能を持つ姉を軽んじたか、その報いを……!」
言葉を口にしたあと、ふっと表情を和らげ、優雅に微笑む月。
「さぁ、明日は大忙しね。楽しみにしていなさい。」
月は布巾で手を拭き、静かに厨房を後にした――その足取りには、確かな自信が漂っていた。