「疲れた〜」
時刻は二十二時過ぎ。彼女はようやく辿り着いた我が家の玄関で、ヒールを脱ぎ捨てた。揃えることも億劫で、パンプスの片方があらぬ方向へ飛んでいったのを、見て見ぬふりをする。座ったら最後、貴重な時間がどんどん溶けていってしまう。今晩に限ってそんな余裕はない、と彼女は強く言い聞かせた。帰り道、スーパーで買った夕飯を電子レンジに突っ込む。適当に時間をセットしてスタートボタンを押す。
手を洗って化粧を落としたところで、チンとレンジが鳴った。
「あっつ……!」
レンジから取り出した容器を何とか掴んで、ローテーブルの上に放り投げるように置く。今日はミートソーススパゲッティだ。今月の目標「自炊する日を増やす」は今日も達成できなかったけれど、サラダも買ったからよしとしよう……と思いつつ、冷蔵庫から取り出したドレッシングと一緒に運ぶ。
都内の狭い1Kアパート。キッチンと部屋の間に扉があることだけは譲れず決めた部屋だった。立地や間取りが理由ではないけれど、この部屋は私にとって最高の『城』だ。疲労で重い体をベッドに預け、そのままずるずるとカーペットを敷いた床に座り込む。ようやく、全身から力が抜けていくのを感じた。
「あ、お茶……」
一度座ってしまったので面倒なことこの上なかったが、「よいしょ」と気合いを入れて立ち上がる。グラスとお茶のパックをテーブルに置いたところで、部屋の『祭壇』に目を向けた。
明日は勝負の日なのだから、それに相応しい準備をしなければ。
『祭壇』は、彼女の胸の高さほどある、真っ白い収納棚だ。扉付きの上段と、その下は三段の引き出しに分かれている。この狭い部屋の中で、ベッドの次にスペースを占領していた。服も鞄も全部無理やりクローゼットの中に収めているのは、この『祭壇』をとにかく部屋で一番目立たせたいからだった。
引き出しを開けると、中にはDVDやCDが所狭しと収められている。他にも数々のパンフレットや雑誌の切り抜きが丁寧にファイリングしてあった。
しかし彼女が特にこだわったのは、両開きの扉の中だった。
開くと、ずらりとブロマイドやアクリルスタンド――いわゆるアクスタが正面を向いて並んでいる。保管用や布教用の予備は、未開封のまま小さなボックスに入れて、棚の端の方にしまってある。
ちなみに両開きの扉がガラスではなく、中の見えない木製なのは、この棚を選んだときのこだわりだった。万が一、親や友人が家にやってくることになったときに、この部屋を、ナチュラルで居心地のよいすっきりした空間に完全に擬態させるためだ。
手前にずらりと並んだ特にお気に入りの一軍の中から、ふたつのアクスタを選んで、天板の上に並べた。額縁に入れたポストカードやフライヤーは、壁に吊るしたり立てかけたりして、元から飾ってある。その中心にアクスタをセットすることで、今日の祭壇が完成するのだ。本当は常に全部出しておきたいのだが、埃をかぶるのが嫌で、都度出し入れするのがこだわりだ。ちなみに、額縁はすべて簡単に取り外すことができて、来訪者が来るときには引き出しに収納できるようになっている。
飾られているポストカードもブロマイドもアクスタも、服装やポーズはバラバラだが、写っているのはすべて同一人物――彼女の一番の推し俳優だった。
十代の頃はボーイズグループでアイドル活動をしていたのだが、突如そのグループが解散。そこから舞台に活躍の場を移した。最初は「アイドルが演技なんて……」と色眼鏡で見られていたし、自分も冷めた目で見ていた。アイドル時代は「あああんな子いたね、そういえば」くらいの印象だったのに、七年前、一度誘われて観に行ったミュージカルで、脇役ながら朗々と歌い上げ、力強く踊る彼を見て、その姿に目が釘付けになった。まるで自分の全身に稲妻が走ったようだった。スターが現れた、と直感した。
それから彼の舞台を追いかけるようになった。初日・千秋楽を含む複数公演を観劇するのは当たり前、地方公演があれば躊躇わず遠征した。何度見ても、一際目を惹きつけるのだ。
テレビやラジオなどメディアにはほとんど出演しない颯太を追うには、舞台を観に行くしかない。時々掲載される雑誌の小さなインタビュー記事を舐めるように読んで、彼の情報を得ていく。
観劇するたび、手紙に感想を認めた。劇場にはプレゼントボックスが置いてあって、そこに入れておけば手紙や差し入れを渡すことができるのだ。誕生日やクリスマスといった日には、服や雑貨など、そこそこな金額のプレゼントを差し入れたこともある。もっとも、チケット代と遠征代が高いので、お金のあるファンと張り合うことはできなかったが。
ただ颯太は昔から「貰って一番嬉しいのは手紙」と公言していたこともあって、感想だけは必ず送るようにしていた。誰よりも細かく颯太を見ていると自負しながら、彼の芝居を見守った。
とは言っても、いきなり主役に抜擢されたわけではない。最初は小さな――それこそ三時間の公演で二十分くらいしか出番のない役で出演していた。でも、その少ない出番でも、颯太は鮮烈な印象を残した。
ある時は主演俳優に強烈なセリフを浴びせ、ある時は鮮烈な死に際の絶唱で観客を虜にした。そうやってファンを増やし、また次の作品に繋げていく。
最初は端役の多かった颯太だが、めきめきと実力をつけるにつれ、徐々に番手が上がっていった。
番手――それはチラシに名前が載る順番のことだ。一般的に、上に大きく載るほど上位だが、大物は最後に『止め』として掲載されることもある。しかし、颯太の年齢ではほぼないため、上から何番目に名前があるかが重要だった。そうして三年前、彼はついに歴史ある劇場で初主演を飾った。演劇では、センターのことをゼロ番という。床につけられている立ち位置のための番号が、センターの0を中心に、等間隔で1、2……と増えていくから、真ん中に立つ主役を演じることを「ゼロ番に立つ」というらしい。颯太がゼロ番に立った日は、感動で涙が溢れるのを止められなかった。
そうして海音颯太は、押しも押されぬ人気俳優のひとりとなったのだ。
彼は抜群の演技力・歌唱力に加え、とかく立ち姿が美しく、舞台映えする俳優だった。
舞台上では様々な役を演じ分ける颯太だが、当の本人は温和で、いつも穏やかな笑みを湛えている。そんな彼に本気で恋をしている――いわゆるガチ恋と呼ばれる熱心なファンも多いらしい。そんな彼のグッズを、彼女は必ず全て購入していた。
アクスタだけでも私服姿から衣装姿まで様々だ。ラフなTシャツ姿や家でのパジャマ姿にはじまり、どこぞの貴族かというような煌びやかな衣装や、はたまた学生服姿など多岐にわたっている。このバラエティに富んだビジュアルを見るたび、彼の役柄の幅広さを実感して、いっそう「ああ、本当にいい俳優だなあ」と深く感心するのだ。
ちなみにここ最近で一番のお気に入りは、蝋燭の刺さったケーキを持ってにこやかに微笑んでいるブロマイド。先日、三十歳を迎えた彼のバースデーイベントで購入したものだった。
祭壇の横に、申し訳程度に置かれているカレンダーを見つめた。口元がにんまりと緩むのを止められない。
明日の日付は、大きくハートマークで囲われており『観劇』と書かれていた。
そう、明日は愛しの海音颯太主演のミュージカルを観に行くため、有給を取っているのだ。
今日の残業に文句ひとつ言わず頑張れたのも、そのおかげが大きかった。何より仕事を残してきて、明日職場から連絡が入ったらたまったものではない。
熱いスパゲッティを冷ます間もなく、音を立てて啜り込んだところで、財布の中に大切に挟んだチケットを取り出す。何度見返しても、1列、と書いてある。1。いち。そう、最前列だ。
そのままチケットにキスしそうになって、慌てて財布の中に戻した。いけない、チケットがミートソースまみれになってしまう。本当はこのまま缶チューハイでも開けたいけれど、今日は我慢だ。明日、特等席で推しを観るための準備をしなければならない。お風呂に入ってパックをして、顔のむくみ取りマッサージもしたい。いつもはサボるヘアオイルもきっちり塗り込んで、ヘアキャップをして眠りたい。明日着ていく服は準備してあるけど、鞄を出して、靴を磨いて……ああやることはいっぱいある。でもできるだけ早く寝なければ。寝不足は最大の敵だ。
明日は一瞬たりとも舞台から目を離したくない。集中力を切らしたくない。そのために、十分は睡眠は絶対条件だった。
さっさと食べ終えなくては。本当はこのままごろんと横になってしまいたいけれど、推しのためだと思えば頑張れる。いや、むしろ今の私は推しのためにしか頑張れない。今日ダメだったら頑張れる日なんてないでしょ私! 自分にそう言い聞かせ、再び勢いよくスパゲッティを頬張ろうとした、その時だった。
ずきん、と胸が痛む。衝撃で、息が止まった。手から力が抜けて、プラスチックのフォークがカチャリと乾いた音を立てて床に落ちた。
痛い!
その声を発することもできぬまま、彼女は胸を押さえて倒れ込んだ。そのまま視界が真っ暗になって、意識がブラックアウトした。
――ああ、颯太くん。
祭壇の上から、死神の衣装を着たプラスチックの海音颯太が横たわる彼女を見下ろしていた。
街の中心から離れた閑静な住宅街。その中でも一際大きな、洋館があった。その広い敷地に見合うだけの多数の使用人が働いている。その全員が、今日は緊張感に満ち溢れていた。
建物のまわりは小さな森といってもいいほどの、緑に覆われた庭が広がっている。そんな庭を眼下に見下ろす、二階の最奥、日当たりの良い角部屋から、突如赤ん坊の泣き声が響き渡った。静寂を打ち破り、堰を切ったように泣き始めた声に、洋館中に安堵の息が漏れる。
「元気な女の子ですよ」
取り上げた産婆が素早くおくるみに包み、抱え上げた赤ん坊の顔を、傍に控えていた男性に見せた。
くしゃくしゃな顔で泣き続けるその子を見て「よかったな、これで我が一族も安泰だ。よくやった」
そう呟いた男性は、ベッドに横たわりか弱い笑みを浮かべた母の頭を撫でたのだった。