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第一章

第一章①

 凛は石造りの建物が並ぶハイカラな街を、脇目も振らず駆け抜けていた。石畳の道路には、夕日がモダンな影を映し出しているけれど、味わって眺めている場合ではない。着物の袖を襷掛けしておけば良かった。草履の鼻緒が指の間に食い込む。明日からは絶対ブーツにしようと誓った。


 そもそも、現代だったら絶対タクシーに乗るのに!


 そう思っても、タクシーという便利な乗り物はこの世界には存在しない。自動車は運転手付きの送迎用で、ハイヤーのようなものらしい。お金持ちの家に転生しても、学生の私が気軽に使えるわけがなかった。


 お堀にかかる橋を渡り、ようやく見えてきたのは、辺りの建物と比べても一際大きな建築物――白亜の殿堂と呼ばれる、新・帝國劇場だ。大正二十年を記念してリニューアルオープンしたこの劇場の外壁は白い煉瓦でできており、まだ当時と変わらない美しい色を保っていた。四方には大きな円形の柱が建ち、荘厳な建物を支えている。正面には細い円柱が並び、建物をより大きく見せる効果を担っていた。正面エントランスを通過し、建物の側面に向かった凛は、楽屋口と書かれた小さな鉄の扉を入る。すぐの守衛室にいた警備員が、凛の顔を認めるなり大袈裟に頭を下げた。


「お嬢様、お疲れ様です」

「お疲れさま! 今日からよろしくね!」


 半分通り過ぎてから言い終え、狭いエレベーターホールに向かう。ボタンを押したきり一向に来ないエレベーターを諦め、凛は階段で最上階へ駆け上った。袴の裾を持ち上げながら一段飛ばしで八階まで駆け上がると、さすがに息が切れる。

 たどり着いた最上階の、『劇場事務所』と小さな看板のかかった部屋の前で、息を整えた。


 女学校の授業を終え、友人たちへの挨拶もそこそこに飛び出してきた。それも今日から、ここで働くため。見習いという立場とはいえ、自分からやると挙手した以上、中途半端な仕事はしたくなかった。

 ノックしてから扉を開ける。数台並んだ机には誰も着席しておらず、中はがらんとしていた。


「無事に到着されてなによりです、お嬢様」


 言葉とは裏腹の冷たい声でそう声を言ったのは、室内にいたただ一人――奥の窓辺に立つ銀色のフレームの眼鏡をかけた男だった。三十歳になったばかりだと、凛は祖父から聞いていた。


「ごめんなさい、忍さん。ちょっと授業が伸びてしまって」

「いえ。問題ございません。元からお呼びしたわけでもないですから」


 思わず青筋を立てたくなるような皮肉の先制パンチを浴びせられたけれど、凛はにっこり笑って受け流して見せた。この男、松本忍の物言いには、幼い頃から慣れ親しんでいる。


 しかも凛には「気が利かない」「客の先回りができない奴はクズだ」など、堅物上司の散々な罵詈雑言に耐えてきた経験がある。三十歳なんて、ほぼ同世代。そんな彼の嫌味ひとつで臆する必要など、微塵もなかった。


「今日からよろしくお願いいたします」


 改めて深々と頭を下げると、忍は大きくため息を吐いた。

 新・帝國劇場を世話役として切り盛りする忍は、この劇場の支配人でもある凛の祖父が育て上げた敏腕プロデューサーだ。その祖父直々の命だから、凛を蔑ろにするわけにはいかない。それをわかっていながら、凛は半ば無理矢理、祖父を『そろそろ私に劇場経営の仕事を教えて』と説得した。その結果、凛は今日からインターンとしてこのオフィスで働くことになったのだ。もっとも日中は女学校があるから、その後の限られた時間にはなるけれど。


「お嬢様、何もそんなに急いで仕事を覚えなくても」


 忍が凛を認めていないことはよくわかっている。けれど、凛にも譲れない事情があるのだ。


「私がインターンに来るのは、お祖父ちゃんだって認めているのよ」


 忍が凛の言葉を聞いて顔を顰める。


「何ですって?」


 聞き返されて、しまった、と思いながら平静を装う。インターンなんて言葉は、この時代、そしてこの国にはないらしい。

 こほんと咳払いを一つして


「女学校で首席を取ったら、劇場の仕事を教えてもらう。これはもうずっと前から約束していたんだから」


 その約束通り、凛は女学校一学期の成績で首席を取った。そうして晴れて今日から世話役見習いとして働くことを認められたのだ。

 もっとも首席を取ったら、という約束は若干卑怯だったかもしれない。凛は内心舌を出す。


 だって――既に一度、勉強したことばかりだから。


 前世の厳しい受験で詰め込まれた勉強に比べれば、女学校の授業はだいぶ緩やかだった。国語・英語・算数。唯一苦戦したのは国史だ。この国の歴史は、途中からだいぶ記憶に残ったものとは異なっていたから。


 それでも現代日本女性として二十八歳の知識を備えていた凛にとって、子どもの頃から学校の勉強は特に苦痛を感じるものではなかった。前世では決して優等生ではなかったけれど、親が学歴重視だったため、教育には力を入れていた結果である。会社勤めをしているときは、あの人生で勉強が役立っていたとは感じなかったけれど、まさか転生後に役立つとは。


 産後の肥立ちが悪く、凛の母親は若くして亡くなってしまったけれど、残した子どもが優秀だったことに、祖父はひどく安堵していた。これなら婿を取らせ、凛に自分の後を継がせれば良い、と考えたのだ。


 母が亡くなり、実の父も家を出て行ってしまったけれど、凛は祖父母に大切に育てられた。わずか一歳になったとき、祖父は凛をこの白亜の殿堂に連れてきた。

 それ以来、凛の遊び場は劇場だった。子どもの頃から何故かこの新・帝國劇場が家よりも好きで、心が落ち着いた。幼児の頃から、どんなに泣いていてもここに連れてくれば泣き止んだらしい。


 今の凛には、その理由がはっきりとわかる。

 だって凛は、この劇場を自分の手中に収めるために、ここに転生してきたのだ。

 そんな腹の中の思惑を隠し、凛は殊勝な表情を浮かべてみせた。


「急ぐわよ。忍は何も聞いていないかもしれないけど……お祖父ちゃん、最近物忘れが酷いの」


 声を顰めると、忍が小さく息を呑んだ。


「心配しないで、そこまで酷くはないの。自分でもメモを取ってなるべく気をつけているみたいだし……。でも歳を取ったのは事実でしょ? 昔より明らかに食べる量が減ったし、今日だってなかなか起きてこなくて。疲れが溜まっているんだと思う。そんな状況で働かせ続けるわけにはいかないでしょ。だから私が仕事を覚えて、早くおじいちゃんを楽させてあげなくちゃ」


 だってどうせ私が継ぐんだから、うかうかしてはいられないのよ。

 心のなかでこっそり付け加える。


「お心がけは立派ですが……」


 そう言ってなおも渋る忍に、「さ、どんどん仕事を教えてちょうだい」と凛は顔を輝かせた。


 忍の仕事は多岐に渡っている。毎日の劇場運営もさることながら、一番大きな役割は、チケットを売ること。つまり集客面での企画の立案と実施だった。

 新・帝國劇場では主に、ここを本拠地とする星屑歌劇団という劇団が、公演を打っていた。劇団は劇団で独立しており、座長や演出家などは別にいるのだが、劇場も出資をしているらしく、祖父や忍は演目や配役などの企画から関わっているらしい。

 まさに凛が一番興味を持っている仕事内容だ。


 星屑歌劇団とは、男性のみで構成された劇団で、女役も男性が務める。上演する演目は、ほぼミュージカルだ。大体一ヶ月公演を行い、翌月は稽古、その次の一ヶ月はまた公演……というサイクルで活動しており、年に六、七本の芝居を打っていた。


 凛も物心ついた頃から劇場に入り浸って、毎回必ず複数回観劇していた。煌びやかな衣装と派手な演出で、某女性だけの劇団を彷彿とさせるような世界観だ。ちなみに、こちら世界には、女性だけのミュージカル劇団は存在しないらしい。


「ご存じだと思いますが……」と忍が公演中のパンフレットを持ち出しながら説明してくれる。


「彼がこの度トップスターに就任する天音礼央あまねれお。芝居・ダンス・歌と三拍子揃った逸材です。来月から彼のお披露目公演が始まりますので、お嬢様にはここから現場についていただきます」


 そう言われて、「任せて」と拳を握る。パンフレットに映る天音礼央はまだ三番手だが、隣に立つトップスターに負けない華やかなオーラを放っている。そうして何より――。


 本当に似てる。颯太くんと。


 凛が初めて天音礼央を見たのは、彼がまだ新劇団員だった頃だ。舞台の端で踊っていただけだが、百九十近い長身に、宇宙のように深い黒髪と透き通る色白の肌。鋭い瞳からは、自信が漲っていた。人目を惹きつけてしまうその立ち姿は、前世で何よりも愛した彼に瓜二つで、まさか颯太くんも転生したのでは? と凛の心は湧き立った。

 あれから十年。着々と人気・実力を磨き上げ、とうとう彼がトップスターに就任するなんて感慨深い。

 それに今見てもやっぱり似ている。けれど――。



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